蓼科浪漫倶楽部

八ヶ岳の麓に広がる蓼科高原に、熱き思いあふれる浪漫知素人たちが集い、畑を耕し、自然と遊び、人生を謳歌する物語です。

下山の思想  (bon)

2012-03-15 | 読書
 昨年暮れに発売された、「下山の思想」(五木寛之著、幻冬舎新書)は知っていたが、
以前この作家が好きで、いろいろ読み続けたことがあり、その中にも下山の話があって、
大体のことが分かっていたのでそのままにしていた。 
 が、先日、駅前の本屋に立ち寄ったとき再び目に留まったので買って読んでみました。

 新書の帯解説に、「どんな深い絶望からも人は立ち上がらざるを得ない。すでに半世紀も前に、
海も空も大地も農薬と核に汚染され、それでも草木は根付き私たちは生てきた。
しかし、と著者はここで問う。再生の目標はどこにあるのか。再び世界の経済大国を
目指す道はない。敗戦からみごとに登頂を果たした今こそ、実り多き「下山」を思い描くべきではないか、と。
「下山」とは諦めの行動ではなく新たな山頂に登る前のプロセスだ、という鮮烈な世界観が展望なき現在に光を当てる。成長神話の呪縛を捨て、人間と国の新たな姿を示す思想・・」
とあり、つまるところ国も世界も、個人もこのような思い・考え方が今を生きるすべではないかと提案されている。

 「私たちは明治以来、近代化と成長を続けてきた。それはたとえて言えば、山に登る
登山の過程にあったといえるだろう。だからこそ、世界の先進国に学び、それを模倣して
成長してきたのである。 しかし、いま、この国は、いや、世界は登山ではなく下山の時代に
入ったように思うのだ。」 「・・・下りる・降りる・下る・下がる、これらの言葉には、
どこか負の感覚が伴う。・・プラスマイナスでいえば、圧倒的にマイナスの方だろう。」
 
 しかし、登山を考えれば、「・・目指す山頂に達すると、次は下りなければならない。」 
「下山の途中で、登山者は登山の努力と労苦を再評価するだろう。下界を眺めたり、
高山植物に目を留める余裕も生まれてくるだろう。」

 「人間の一生でいうなら、五十過ぎまでとそれ以降である。今の時代ならさしずめ六十歳で定年退職してから後と考えるのが自然だろう。」 
「日は、いやいや沈むわけではない。堂々と西の空に沈んでいくのだ。」 

「いま私たちは戦後最大の試練に見舞われているといっても差し支えないのかもしれない。
原発事故の行方は不明だが、どんなに好意的に見ても、後半世紀は後遺症は続くだろう。」

 まあ、感じる言葉はまだまだたくさんあるが、要するに、いつまでもこれまでの考え方、
発想から抜け出ずにいるのではなく、新しい発想にたって考えてみる必要があるというのである。
下山こそ、いろいろ来し方行く末に思いをはせる機会ではないのか。 このような提言は、
大いに共感するところであるが、リアルな“登山”に限定すれば、この下山こそ大事であり、
達成感もあるが、疲労感も一倍大きくなっていて“心の余裕”ばかりを求めるのは危険かもしれない。
 本では、そんな理屈ではなく、いつまでも登りばかりを求めるのではない・・といっており、
「・・我々が下山を始めているさなかに、うしろから大震災という未曽有の雪崩に遭遇した・・」ともいっている。


 過去を振り返り、郷愁を楽しむ中に更に人生の広がりが感じられるともいっていて、
まさしくそうでありたいとも思うが、今なお、その中にも“まだ低い山を、ゆっくりと
登って行かなければならない人々も大勢いることも事実である”と思われるのです。











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