今は改名されて東大和市駅となっている西武拝島線のその駅は、昔、青梅橋駅と
言っていたところに行ってきました。
園芸友の会の屋外例会は今月(5月)下旬にここ東京都薬用植物園 訪問の予定で、
その下見で幹事3名がこの駅に午前10時に待ち合わせたのでした。
(すっかり様変わりしていた駅前)
昨日(5/10)は肌寒さの残る朝の割には陽射しとともに気温が上がり、良いお天気
で暑いくらいでした。家を出て1時間足らずで目的地(東大和市駅)に到着しました
が、なんと3回も乗り換えが必要だったのです。
JR中央線国分寺駅で乗り換えたのは、初めて利用する西武鉄道国分寺線で東村山
行きでした。「東村山」は、あのタレントの志村けんを想い出しますが、新型コロナ
襲来の頃比較的早く感染により他界され、ファンに惜しまれましたが、彼の死によっ
てこの新型コロナが我々の身近で猛威を振るっていると強く認識したのでした。
国分寺駅を発車すると、9時過ぎの車内はガラガラに空いていて、窓からは遠くに
ぼんやりと霞んだ富士山が住宅地のうえに浮かんで見えていました。「恋ケ窪」
「鷹の台」などのシャレた名の駅を過ぎ「小川」という駅であと1駅乗り換えること
に・・。
到着した待ち合わせ場所、「東大和市駅」は、1979年(昭和54年)に改称するまでは
「青梅橋」という駅名でした。私は、50数年前にはこの駅を最寄り駅として3年ほど
近くに住んでいたことがありました。当時の駅は、今のように高架ではなく、駅前の
景観もその面影は全くありませんでしたが、「桜通り」や「南街」などの地名に当時
が懐かしく想い出されました。この頃、一人娘は狭山ヶ丘幼稚園の年少組に通い始め、
私は初めてマイカーを持つことになり、青梅街道を勤務先の研究所に通勤していた‥
など次々と懐かしい想い出が蘇ってきました。
この「青梅橋」という地名は、その跡地に建てられた説明版にもありましたが、
ネットに次のように説明されていました。
『野火止用水が承応4年(1655年)に完成すると、青梅街道と交差する地点に橋が
架けられ、「青梅橋」と名付けられました。青梅橋は当時から主要街道の分岐点で
あり、特に御岳山や大山への参詣者でにぎわったといわれています。昭和38年5月、
玉川上水の分水点から下流2キロメートルが暗渠となって橋は消滅しました。また
昭和54(1979)年に青梅橋駅が東大和市駅と改名され、交差点に名前が残るのみと
なりました。暗渠上に移設された「阿を免はし」と刻まれた欄干に当時の面影が残
されています。』 とあります。
その昔、江戸市中の人口増により、承応3年(1654)玉川上水が開削され、次いで、
翌承応4年(1655)野火止用水が開削されて、茫漠たる武蔵野の原野に一路の水路が
通ったのでした。府中道と呼ばれる、狭山丘陵から武蔵府中に通ずる古代からの道と、
青梅成木から江戸市中に石灰を運ぶ青梅街道が野火止用水と交差したところに架け
られた橋が「青梅橋」だったというのです。
青梅橋付近の解説地図
(高架線 小川方面 この交差点です。) (中央の黒丸が 青梅橋 交差点)
ここに住んでいた当時には、このようなことにはまったく無関心で、何も知りま
せんでしたが、50数年後の今、ここに立ち、青梅橋跡を示す説明版にはるか昔を想い
出した次第です。
東京都薬用植物園の下見をして、お昼時の場所を決め下見は終わりました。屋外
例会の日がお天気でありますよう祈りながら所期の目的は達成されました。
東京都薬用植物園(水生植物) 研究用の ケシの花
マイ・ハピネス
きれいに整理されていて種類も豊富、大木もありますが、鉢植えで・・
確かに見世物ではありませんから、入園料などは不要でしょうね。
研究施設として運営されているのですね。知っている植物もあったり、
珍しいものがあったり・・温室では、カカオの実がなっていました。
機会があればぜひ訪れられてはいかがでしょうか!
薬になるもの、毒になるもの、確かに植物にはいろいろありますね。
そんな植物園があるなんて知りませんでした。
遠いところ、おつかれさまでした!