最近ようやく読み終わった本です。
福岡正信著(1983年初版、2010年19刷 ㈱春秋社) 260ページほどのものでしたが、
なかなか進みませんでした。
著者は、1913年愛媛の生まれで、岐阜高農、横浜税関植物検査課、高知県農業試験場勤務を経て1947年以来、
自然農法一筋に打ち込まれ、2008年に逝去されたとあります。
どのような農法かといえば、例えば、田圃は、この35年間全く耕したことがない。化学肥料は使ったことがない。
病虫害の消毒剤も使っていない。
田も耕さず、草取りもしない、農薬も肥料も使わなくて、米と麦を毎年連続して作っているという。
それで、反あたり10俵かそれ以上収穫が出来ている。これは愛媛県の多収穫田に匹敵するのだそうだ。
この自然農法とは、どのようにやるのかといえば、稲の収穫前に稲の頭の上から麦の種をばらまいて、
稲を収穫した時にできた藁をそのまま切ったりせずに、その上に振りまくだけ・・・。
稲の場合もこの方法と同じで、麦を刈る2週間ほど前に麦の頭から籾をばらまいて、刈り取った麦わらを
長いままで振りまいておく・・・。麦まきをする10月上旬に、稲の中にクローバを蒔いておく。
それだけでいいのだそうで、これで既に45年も実績を積んできているという。
そこでは、農業技術、科学技術は完全に否定されている。 人間の知恵は素晴らしい、万物の霊長として
非常に価値ある生物であり、文明・文化も歴史もみな素晴らしい。
しかし、これらは、人間を中心とした見方、考え方であり、この知恵にしてもホンの断片的なものに過ぎず、
例えば「自然」といっても、いったい自然とは何か? 真の自然は存在するのか? などすらわかっていない。
自然食がいいといってブームになったりもしたが、一体何が自然食なのかすらわかっていない。
無農薬なら自然食か? ハウスで栽培している無農薬野菜は自然食品ではないだろう。
色や形の良い作物、現代人の好む味覚の作物が喜ばれ、流通業者から生産者にその要求が出る。
生産者は、この要求を達成しようと苦労する。基はといえば消費者がそれを選ぶからなのだ。
季節を前倒しした野菜や果物は高値を付ける・・結果、最近ではキュウリやトマトにしても、
みかんやリンゴにしても年中出回っている。
これを実現するために、生産者の努力、苦労ばかりでなく、農業技術、温湿度管理などコンピュータ化された
生産技術、保管・輸送技術等々知恵と年月と費用をかけた開発がその裏側にある。
こんなことは間違っている。 と、著者は力説している。
日本だけでなく、アメリカや他の国々でセミナーに招聘されたり、大学研究室等の訪問を繰り返すなど、
自身の信念と「自然農法」を説き歩いてもいるという。
これはこれで素晴らしい理念だし、何ら異論をはさむ気はさらさらないが、著者の思いの底流に
ややエキセントリックなところが見えるのと、40年以上もこの方法で成果を出しているのだから
「何か文句あるか・・!」的な押し込みの連続を感じ、少々読み疲れました。
蓼科農園で考えてみると、この「自然農法」で出来ればこんないいことはない。
草との戦いに悲鳴を上げ、農薬こそ使用しないが肥料も毎年施している。追肥などもする。
人間が手を入れて自然を壊しているから、それを補う手だてを取らなきゃならない。もう「自然農法」に
戻ることが出来ないのだ。戻るためには何年もかかるという。
何百年も続いている農業ではみんな、悪戦苦闘している。「自然農法」は、確かに理想的に思えるが、
なぜ普及していないのだろうか?
ウイキペディアによれば、福岡氏の他にも数名の自然農法家がおられるようです。
それを上手に利用して栽培する・・・そうすれば手間が掛からない?
確かに草ぼうぼうの中でも野菜は育ちますが、余り草が大きくなり野菜が隠れる様な状況だと生育は悪いですね。しかし害虫の被害は少ないです。雑草がブロックしてくれているんですね。鹿の被害も、雑草があると食べられないですが、綺麗に草刈りをすると黒豆などの葉は目立ち食べられてしまいます。この方のようにここまで徹底して農業をされる方がおられることに驚きました。やればできるんですね!私達の蓼科農園は、無農薬、有機肥料を使った栽培です。これで草取りが無くなれば助かりますが・・・