カレンダーの昨日6月28日のところに、「貿易記念日」とありました。 あ、そうなん
だという感じで、特段の思いもなく ネット調べをしてみましたら、なんと! あの、
「安政の大獄」のきっかけにもなっている「日米修好通商条約」などを締結し、横浜、
長崎、函館の各港での自由貿易の開始が布告されたことに由来しているのでした。
(貿易記念日と制定されたのは、1963年に 通商産業省(現経済産業省)による。)
江戸末期安政6年(1859年6月28日:旧暦安政6年5月28日)のこの日、日本(徳川幕府)
は鎖国政策を改め、アメリカ、イギリス、フランス、ロシア、オランダの5か国との間
に結んだ通商条約に基づき、各港で正式に自由貿易を開始し、「開国」したのでした。
今から158年前のことでした。
この頃の日本には、外国船が相次いで来航していましたが、1853年 黒船来航以来、
米国総領事タウンゼント・ハリスは、通商条約への調印を江戸幕府に迫っていました。
折しも、第12代将軍徳川家慶が死去し、将軍継嗣問題が起こり、一橋慶喜を支持し諸藩
との協調体制を望む一橋派と、現将軍に血筋の近い紀州藩主徳川慶福(後の徳川家茂)
を推す保守路線の南紀派とに分裂し激しく対立していたのです。
このような下地がある中で、条約締結(調印)のためには、朝廷からの勅許を得る
必要があり上京するも、在京の尊攘派の工作もあり、元々攘夷論者の孝明天皇から勅許
を得ることは出来なかったのです。この直後、安政5年4月に、南紀派の井伊直弼が大老
に就任するや、無勅許の条約調印と家茂の将軍継嗣指名を断行してしまうのです。
これに反発した、尊王攘夷派、一ツ橋派の大名ら連座した100人以上の反対派を、大老
井伊直弼は、徹底的に弾圧したのでした。 これが、「安政の大獄」という弾圧事件で、
吉田松陰は最後の刑死者となったとあります。
貿易記念日から、話は飛んでしまいましたが、insight nowのホームページから当時の
貿易に関する話題を引用しますと、
『現在は、主として燃料や原料を輸入し、自動車や電気機器など工業製品を輸出していま
すが、開国当時は茶や生糸を輸出し、毛織物や綿織物、艦船や武器が輸入されました。』
とあり、同HPには、下記のグラフがありました。
1867年当時の長崎港における輸出入額(insight now HPより)
図から、当時の長崎港での輸出品は、茶がトップで、次いで石炭、人参、ロウ、昆布
などいわゆる一次生産品や原料が中心となっています。一方、輸入品は、幕府や各藩が
輸入した火器や艦船が上位を占めており、その他は綿織物、毛織物などだったのですね。
財務省データから、1950年から日本の輸出入金額推移をグラフ化してみました。
このグラフで、過去約30年ほどは、確かに輸出が輸入を上回っており、“輸出立国”
と言えるのかもしれませんが、GDPに占める割合からすればその輸出依存率はせいぜい
10~15%程度とされ、他国と比較してもかなり低い水準だと言われています。
一方では、食料の自給率は40%を割り込んだと言われてみれば、輸入した他国の資源
をひたすら消費しているのが昨今の姿かも知れないと・・ありました。さらに、原発
事故の後、エネルギーは他国からの輸入がさらに増大しているのですね。
また、経産省HPから、財務省データを用いた、日本の輸出に関する2つのグラフを
以下に引用させていただきましたが、輸出相手国・地域は、米国がやや減少しているの
に反して、中国は急増して来ています。
日本輸出の国・地域別割合(経産省HPより)
そして、対米、対中国に対する輸出業種では、電機、機械、自動車関連に関してそれ
ぞれ逆の傾向を示しているのです。
日本の対中国、対米国輸出の業種別推移(経産省HPより)
開国から、たかだか158年しか経っていませんが、貿易の構造・内容は、大きく変化
してきていますが、日本の人口成長変化や各国の成長・成熟度合いなどの変化により
これからも変わって行くのでしょう。また、そのスタイルも、FTA、PTTなど複雑かつ
内外ともに力勝負がちらついています。
明日、30日から蓼科農園に行ってきます。
今年3回目となる蓼科農園は、前回(約1か月前)大量に植えた苗たちの状態を見ること
と、ニンニクなどの収穫、それと大量除草がメインの作業と予定しています。
お天気が気がかりです。
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