蓼科浪漫倶楽部

八ヶ岳の麓に広がる蓼科高原に、熱き思いあふれる浪漫知素人たちが集い、畑を耕し、自然と遊び、人生を謳歌する物語です。

大学ノート  (bon)

2019-08-02 | 日々雑感、散策、旅行

     今年も早や、8月に入りました。関東では、肌寒い小雨模様が続いた7月が
    下旬頃から急に暑くなり、34,35℃の日中の日差しは焼け付くようです。
     先週には、隅田川の花火が夜空を彩りましたが、今日は、長岡の大花火
    明日土曜日)は、私の街(朝霞市)も9000発の花火が揚がります。 今月は
    各地で花火大会が賑やかに催されることでしょう。

 

 何の脈絡もなく、フト、“なんであのノートのことを『大学ノート』というのだろ?”
と、どうでも良いことですが、頭をよぎったのでした。 ノートは、正しくはノート
ブック
のことですが、なぜ大学?なんでしょう。

 ウイキペディアに、『 多目的な利用を想定したノート。上部に見だし欄と日付記入欄が
ある他は横罫線のみで基本的にマス目はない。中学生、高校生、大学生などが授業に利用
することが多い。 一般的にはB5、あるいはA4サイズのものが用いられる。』 とあり、
なぜ大学というかの 名称について、次のようにありました。 すなわち、

『東京大学の前の松屋という文房具屋で1884年(明治17年)に売り出された。当時として
は珍しい洋紙が使われ、表紙に細かい毛が入った紙を使用し、庶民にはあまりに高価で
帝大生ほど学問が出来なくては使えないということで 次第に大学ノートと言われるように
なったのが名前の由来と言われている。』とありました。

 大辞林などには、簡単に『大判の筆記帳。普通は B5 判で横書き。大学生の講義筆録用
に作られたのでいう。』とあり、 そういえば、帳面とか筆記帳などといって、小学生、
中学生用のノートがありますね。国語、音楽、算数など科目に特化したマス目の学習帳が
あります。
 最近では、表紙も賑やかに絵が描かれていたり、洗練されたデザインのノートもあります。

      (ネット画像より)

 なんだか、“スッと” 終わってしまったので、「大学イモ」はなぜ、そのように名づ
けられたのか、も気になってきました。

  大学イモは、『 大正から昭和にかけて、東京の神田近辺(学生街)で大学生が好んで
食べていたため、ついたといわれる。また、昭和
初期に帝国大学の学生が学費を捻出する
ためにこれを作って売ったのが名前の由来だという説もあるが、大学芋のメーカーである
台東氷業(東京都台東区
雷門)の話では、帝国大学の赤門の前に三河屋というふかしいも屋
があり、大正初期に蜜にからめた芋を売ったのが大学生の間で人気を呼びこの名がついた
という。三河屋は、1940年
(昭和15年)まで門前で営業していた。
 また、早稲田大学のある高田馬場周辺が発祥であるともされる。
』(ウイキペディア)

 やはり、「大学芋」という名も大学に関連したものだったのですね。 こちらは、東大
とか早大が絡んでいるんですね。

 

 あの、箱で焼かれた四角いパンのことをなぜ わざわざ「食パン」というのでしょう。
食べるパンなのに、なぜわざわざ食パンと言わないといけないのでしょか?  どうでも
良いことながら、ちょっと調べてみましたら、ウイキペディアに、

『「食パン」は日本語における呼称で、日本での造語である。日本人が型に入れて焼いた
軟らかいパンのことを「食パン」と呼ぶようになった理由については、「美術のデッサン
の時に描いた線を消すのに用いるパンを『消しパン』と呼称し、それに対して食用のパン
を『食パン』と呼称し始めた」とするものや、「明治初期に外国人が主食として用いて
いること(『主食用パン』であること)を示す言葉として使われるようになった」とする
ものなどの説がある。』

 そういえば、私が中学の頃、クロッキーをやっていた時に、パンで消していましたね。 
パンは、好きでよく食べます。 食パンでは、ホテルブレッド、パン・ド・ミ、山形の
イギリスパンなど、その他では、クロワッサン、バターロール、バケットなど。菓子パン
では、メロンパン、アンパンなども良く食べます。 
 最近では、街のパン屋さんが増えましたね。

 「どら焼き」は、『 形が打楽器の銅鑼(どら)に似ることから』のほか、関西方面で
は、形が奈良県の三笠山に似ているところから「三笠」とか「三笠焼き」と呼ばれている
とありました。 私が子供の頃は、「三笠」しか知りませんでした。

      (ネット画像より)

 どら焼きが出たところで、「今川焼」はどうでしょうか?

『 江戸時代中期の安永年間、江戸市内の名主今川善右衛門が架橋した今川橋付近の店で、
桶狭間合戦にもじり「今川焼き」として宣伝・発売し評判となったため一般名詞化して
広がった』とする説や、『駿河国などを治めた守護大名・戦国大名、今川氏の家紋である
二つ引両(引両紋)を由来とする』説があるそうです。 いづれにしても、明治時代には、
庶民のおやつとして大流行していたとあります。

 今川焼も、形状や製法あるいは商品名として、さまざまな名称が付けらています。

  今川焼、大判焼きなどは全国的に呼ばれているようですが、私などは関西でしたから、
回転焼き と言っていました。商品名では、どこかのデパートの地下で、御座候 といって
売っていましたね。このほか、太郎焼き、志(じ)まん焼き などと言うのもあるとか。
また、JRA競馬場
内で販売する「G1焼き」などもあるとありました。

     

 エアコンが効いていて、熱めの煎茶が呑みたくなってきました。

 

 

 

 

 


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