年の瀬30日には全く関係のない話で、忙しくされている方には申し訳ありません。
その昔、JRがまだ国鉄と言っていた頃・・特に昭和30年に入って東海道新幹線が開
通する 昭和39年(1964年)にかけて、設備の建て替え・建設を行い客貨輸送力を急増
していたころ、それでも膨大な需要増に「安全」で「正確」、「能率的」に、少しで
も応えて行こうとする列車運行の基礎である「列車ダイヤ」を制作する「スジや」にまつわる話です。
「列車ダイヤの話」(阪田貞之著、昭和39年 中公新書 定価250円也)のほんの一部のつまみ食いです。
ちょうどこの頃に読んで未だに記憶の隅に残っている面白い部分ももちろんつまんでいます。
ダイヤとはdiagramあるいはtrain diagramのことですが、列車というのは、自動車
と違って同じレール(線路)上を走るわけで、前にいる列車を追い越そうとすれば、
前の列車をその線路から脇道に退避させておかないといけないし、この退避時間をあ
まり多く取らないで、安全に効率よくどの部分で、何時にそれを行えばよいか?
各駅停車、準急、急行。特急などいろんな種類の列車をどのように走らせればよい
か?これを決めて(設計して)いるのが「スジや」であり、その結果が列車ダイヤで
ある。そしてこのダイヤは、これまで隠れたベストセラー「時刻表」として利用者が
閲覧できるようになっている。
列車ダイヤ
(ネットより)
列車ダイヤの制作は、今でこそコンピュータのソフトで制作されているが、以前は
スジやの努力と苦悩の産物であったらしい。
明治5年(1872年)に初めて品川~横浜に鉄道が開通した時は、一日わずか2往復で
あったそうですが、翌年には10往復となりその後年々列車回数が増加し、おまけに
線路は単線のために行き違い回数も多くなり、列車ダイヤが取り入れられたとある。
明治29年には初めて急行列車が運転されたが速度の異なる列車が運転されると列車ダ
イヤの必要性は次第に大きくなっていった。 ここで、鉄道創設に伴って日本に来た
英国人技師の中に表題のページ先生がいた。(w.f.ページ氏)運輸長という重職にも
ついておられたそうだ。
ところで、明治27年頃までは、列車の時刻改訂とか、臨時列車の運転計画などはすべ
てこのページ先生が一手に引き受けていた。東海道線の運転計画は当時といえども
簡単にはできないはずなのに、ページ先生は一人で、列車の行き違いや待避の関係を
手際よく処理し、実に正確な時刻表を作り上げていた。
これを見て日本の鉄道人は、「この時刻表を頭の中で組み立てるのだとすれば、驚く
べき緻密な頭脳の持ち主である」「どうしてこんなに上手に列車計画をたてられる
のか」とページ先生をひどく尊敬していたという。しかし、不思議なことに、
ページ先生が仕事をするときはいつも個室に入り、誰もその中に入れないのである。
そして計画が出来上がると、時刻表として渡してくれるのである。
ページ先生の頭とともに、個室の中の作業も長い間の謎であった。
しかし、その謎も解明される時が来た。それは、苦心の結果、先生の使用している
列車ダイヤを発見してしまったからである。先生の緻密な頭脳も、個室の秘密作業も
、そのタネは「列車ダイヤ」であった。そして、その発見と共に先生の魔術の力は消
失してしまった。
夢はヨーロッパへ鉄道の旅へと、駆り立てられる。
新潟からウラジオストックへ飛び、そこからモスクワへシベリヤ鉄道でモスクワへ。
シベリヤ鉄道モスクワ行き時刻表: ここをクリックしてください。
中間イルクークツで途中下車して、1泊して、ホテルでシャワー浴び、市内観光やバイカル湖観光してから、モスクワに向かって再乗車する列車の旅。
更には、モスクワへからパリへ、
モスクワ~パリを結ぶ列車がこのほど開通した。モスクワを午前9時に出発すると翌日の午後8時頃にはパリへ到着する。
気になる運賃は、420ユーロ(約4万3千円)~1050ユーロ(約10万円)。
列車に揺られて変わりゆく外の景色を楽しみながらヨーロッパへ。途中下車して、ぶらりと知らない街を歩き、新しい経験をするなど、飛行機では味わえない夢のある思い出が作れそうですね。
赤の広場
サンクトぺテスブルグ美術館 ここをクリックして、美術館の美しさを鑑賞ください。
ロシア民謡
モンマルトル広場
シャンソン名曲シリーズ
ニューヨーク カーネギーホール
辻井伸行他