といっても、私のじゃなくて、友人の記憶に残る楽しい想い出として語られたものです。友人というのは、 先のブログ記事「今、ウイスキー」を執筆された若さん(通称)のことです。 この度、若さんの高校時代からの親友で、一昨年には単独でニューヨークジャズ探検ツアーをした、 ジャズキチ仲間が、先月彼の誕生月の12日(アメリカは、丁度 9.11メモリアルデー)に他界し、 彼との想い出を偲びながらのエッセイです。
若さんの“若い頃”からのジャズにかける熱い鼓動がそのまま伝わってくる思いで、懐かしい、 楽しい情景が描かれていますので、お許しを得て、彼の第2段記事としてアップしました。 ジャズに思いを寄せられた方、是非一読を・・!
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●1984年頃はまだ、新聞とニューヨーカー*1がインターネットの代わりでした。
ブルー・ノートでジョン・ヘンドリックス*2の歌声にしびれた!
本棚を整理していたら、茶色に変色した31年前のニューヨークタイムズ(右下)が出てきました。 晩秋の冷雨の夜に行ったブルーノートのパフォーマンスが翌朝の記事になったのでアルバムにはさんで ありました。 1984年といえば、1月アップル社がマッキントッシュを発売した年です。予約なしでまずは、 ビレッジ・バンガードに直行。 その後のブルーノートは入れ替え前の行列ができていました。 満員御礼札止め寸前、ステージから最も遠い入口近くで相席確保。当日のパフォーマーは、ボーカル・ グループ(ランバート、ヘンドリックス&ロス)で頂点を極めロス亡きあと解散し、ソロ活動に転向した ばかりの大御所ジョン・ヘンドリックスでした! 当時はインターネットのない時代、彼の公演に 巡り合えたのは全くのラッキー。 その後は、空港で雑誌ニューヨーカー(左下)を買い公演予定を調べ、 誰に会えるか探すのが楽しみになりました。
学生時代(昭和42年)新宿東口のジャズ喫茶 ”ビザール “ でハイライトとピースの高濃度ニコチン ガスで燻製になりそうになりながら、ジャズを聴いていました。 同時期、早大生村上春樹はジャズ喫茶の 開店資金稼ぎに(後に在学中、国分寺に開店)新宿のレコード店でバイト、周辺ジャズ喫茶を回りながら 自分の店の構想を練っていた頃です。 女の子と行くときはビザールでなくおしゃれで少し空気がきれいな DIGに行っていたようです。 あれから16年、やっと本場、ブルーノートにたどりつくことができました。
当日 通算4杯目のジントニック(Tanqueray and tonic)をすすり、観客の放つ熱気に混じり 70-80年代の名香*4のミックス・ガスにむせながら、ビザールのスピーカーとは違う異次元のライブ・ ボーカル・サウンドの世界に吸い込まれました。 記事を今になって読み返すと、あのライブが入場料と テーブルチャージ$5.00、ドリンク・ミニマム$7.50($12.50、225円/$)で楽しめたのでした。 インストルメントはドラム、フィリー・ジョー・ジョーンズ 、ベース レッド・ミッチェル、ピアノ、 ハンク・ジョーンズと大物揃い、63歳の巨匠のボーカルは、人の声を超越した艶っぽい、裏返るというより 舌のひねりを効かせた歌声(Singing Tongue-Twisting Tunes)。 まったく別次元の楽器を聞いている ようなすばらしいライブでした。
●ニューヨークは朝と夜が楽しい
セントラル・パークとライブハウス(Jazz, Pop)がGood!
その後、ニューヨークには数年に一度は訪れる機会がありました。昼間、時差ボケにニューヨーカーの 高速英語が加わるとまさに白日夢です。ジェットラグ解消に朝はジョギング、セントラル・パークは よく走りました。1981年に発売のSONY WALKMANは、Runnerに瞬く間に流行しナイキとともに三種の神器に なりました。ダステイン・ホフマン主演、76年公開の映画“マラソン・マン”に出てくるパークの LAKEとか貯水池の周回路は早朝からランナーで賑わいます。ゲイのカップル、モデルのようなお姉さんの 後を追うオスの金魚の糞グループ、そしてなぜかシングル・ランが多い女性ランナー。最初に走ったとき、 当然金魚の糞になりました。しかしそのエアフローには美人のお姉さまの危険な○○○、ランニングに 付随する後部気流に強烈なガスが含まれて、それを吸引、気道直撃するとむせて窒息しそうになる おそるべきガスです。あわてて、息を止め、芝生側にコースアウトすると、“ぐしゃっ”と馬糞地雷が爆発、 悪臭のダブル攻撃に悩ませられるとんでもない早朝ランでした。(笑と涙)
…パークの北の方はホースバック・ライデイング(乗馬)もできるのです。ある時、マンハッタンに 向かうバスの中、ニューヨーカーで出演者を調べていると、ボサノバで有名なスタン・ゲッツが Fat Tuesday’s *4に、同じ夜Sweet Basil にビル・エバンスも! 軟弱な私はボサノバを選択! 一風堂などないラーメン戦争勃発前の時代、食べると舌が科学調味料で麻痺する49丁目北、札幌ラーメンで 腹ごしらえ。(ナイフとフォークでいただくハンバーガー・デイナーよりましなので)開演の口上は “Ladies and gentlemen. World’s most famous saxophonist who …?? Stanford University, Mr. Stan Gets” ときてあのイパネマの娘(The girl from Ipanema)で演奏開始!へ~えそうなんだ、 彼はスタンフォード大卒だと思ってました。でも11回目のグラミー賞受賞の1982年から大学のワーク ショップで講師に招聘されていたので教えている(Teach)が正解だったようです。1991年6月、 64歳で逝った彼の追悼コンサートもスタンフォード大学が主催しました。
●91年ワシントンD.C.に出張中、湾岸戦争勃発!
ジョージタウンのBlues Alleyにはお世話になりました
1991年(平成3年)正月5日しばれるダレス空港に到着、弊社がスポンサーだった松岡修三君も同じ便。 フロリダへ乗り継ぐ途中でした。荷物満載のカートを押す彼に、ロビーで激励!あの頃の修三君は KEI君より“かっこ”はよかった。前年、試合中の怪我で復帰も危ぶまれていたのに、2月の大会で優勝、 復活の年になりました。
ワシントン滞在17日目湾岸戦争勃発!敵国TV局CNNがバグダッドから衛星中継は、迫力ありました。 街角のニュース・スタンドから“WAR …WAR ”の文字が目に飛び込みます。通勤経路を少し変えホワイト ハウスを運転席からチラ見すると、プラスチックケースなしの自動小銃をかかえたガードが警護を固め、 まさに映画の一シーンでした。というわけで、海外出張者は帰国中止のFAX通知…結局その年、ビザの関係で いったんは帰国しましたが通算6か月近く滞在しました。ワシントンDCは仙台と同じ緯度(北緯38度)で 気候もちょっと似ていますが、冬季の雪は時に仙台をはるかに上回り、夏の高湿度、華氏100度(38度c) 越えはかなり厳しいものがあります。しかし春、秋のモールは緑多く快適、春のソメイ・ヨシノは 見事です。青山の雰囲気を感じる街ジョージタウンに1965年以来ほぼ休日なしでやっているジャズクラブが あり、よく行きました。 ナンシー・ウイルソンおばさまの汗と唾がとんできて、ステージからよろけ そうになる元気なパフォーマンスをかぶりつきで聞けたことが印象に残っています。
ワシントンの中心はモニュメントを真ん中にホワイトハウス、議事堂、ジェファーソン記念堂、 リンカーン記念堂が十字架の位置に構成されておりモールと呼ばれる地域になっています。そこには、 スミソニアン博物館群があり週末の夜、国立米国歴史博物館ではジャズコンサートが定期的に行われ シーズン券($100~)で米国文化を楽しめます。
●サンフランシスコ・ベイ・エリアで超人気のジャズ・クラブ
Yoshi’sという寿司バーで築地直送さしみが!
サラリーマン生活29年目の2000年(平成12年)ITコンサルタント(個人事業者)になり、 ベイエリア周辺のネットワーク・ベンチャーや大手企業のアドバイザー、日本市場担当の代表 の仕事に 転身しました。市谷のホームオフィスを拠点に活動、本社のあるサンタクララやフリーモントに頻繁に 出張しました。そこからサンフランシスコまではちょっとロングドライブなのでジャズには無縁でした。 上司のCEOがオークランドのウオター・フロント再開発地域ジャックロンドンスクエア(写真右)の海鮮食堂好きで約30分のドライブだったので時々いきました。そこは、あの超人気のYoshi’sジャズ・クラブがあり、ネットで予約を何度も、何度も、何度も試みましたが常に満員御礼。今やサンフランシスコ市内に2軒目開店でそちらも人気沸騰です。日本人でも米国人でも一流のジャズ・ミュージシャンに寿司、刺身、日本酒そしてナパ、ソノマのカリフォルニア・ワインはハンバーガー・デイナーより圧倒的に楽しめるエンターテイメント・プレースだと思います。
カリフォルニア州は全米の70%以上の産出量を誇るワイン王国です。フランスワインにブラインド ・テストでなんども勝利しマーケテイング的に大成功しています。そして、ジャズプレーヤーの稼ぎ場の 一つがワイナリーです。夏の夜のワイナリーでのワイン、本当にうまい熟成肉*6そしてジャズはクールです!!
●主流はスムース・ジャズ(Smooth Jazz)
ガキの頃FEN,中学生でブレーキーとモンク、高校でベンチャーズ
1970年代ロックが低迷し始め、R&Bを軽くし、聞きやすいフュージョンが稼ぎ頭になってきました。 その後、フュージョン、ジャズファンの両方から批判を浴びながらも、今やビジネス的にはスムース ジャズが主流です。 たとえばケニー G.は、アルバムを7,500万枚売り上げ、楽器演奏者としては異例の大記録を達成。 ラムゼイルイス、スパイロ・ジャイロなども代表的ヒットメーカーです。米国ではFM局は勿論、 インターネットでのストリーミングサービスが盛んです。PCにDAC*7とBOSEのスピーカーでワシントンDCの CAPITAL JAZZ RADIOでSMOOTH JAZZを聞いています。
最近、団塊の世代はジャズファンが非常に多いのに気が付きました。小学生の頃、FEN(米軍放送)から よくカウントベーシーやアームストロングの音色が流れていました。中学2年(1961年、昭和36年) アートブレーキーとジャズメッセンジャーズが雪降る札幌にはるばる遠征してきました。還暦過ぎてから、 JAZZキチの友人にきっかけについて聞くと、同じくその時のコンサートがジャズファンになる引き金でした。 村上春樹もアートブレーキーが入口で、スタンゲッツなどの白人ジャズも好きになったとのこと。 俺と好みが合うかもしれない(笑)彼曰く“わからない音楽はスリル”だそうです。高校時代ドラムを はじめ、同級生とわかりやすい“ベンチャーズ”“ビーチボーイズ”ナンバーのバンド編成。 同期の記憶は(ジャズをやりたかったけれど、)ベンチャーズのドラマー・イメージで固定化。 講堂での初公演は超満員、入口に人が押し寄せ、窓ガラス割れる大騒ぎ。以来、拍手とステージへの 真剣なまなざしが快感で、完全に勉強からは落ちこぼれました。
札幌の高校の同期のゴルフコンペに10年くらい前から遠征。優勝カップを元中央公論新社代表取締役 会長とともに3回津軽海峡を往復させました。(ちょっと自慢)狸小路の同期の焼肉屋で旧交を温め、 そのあとアートブレーキー初来日の1961年創業ジャズバーJAMAICAでジントニックとニッカ水割りを 飲んでいます。創業以来(中学生)からの常連、前述のジャズキチの彼は、還暦沖縄ツアーで“3年で退職金を 使い果たして死ぬ”と宣言。引退して3年経っても毎夜薄野へ出撃、一昨年、ニューヨークに単独ジャズ探検 ツアー決行。ビレッジ・バンガード、イリジウム、バードランドなど有名どころで楽しんで来たようです。 寿命宣言より5年近く延長し、今年は初孫にも会え、彼の誕生月の12日(米国東部標準時9月11日)911*8 メモリアルデイに逝ってしまいました。彼の魂はグリニッジビレッジかワンワールドトレードセンターの 上空で、ジャズでハイになったエンジェルになって浮遊しているかな?う~?やっぱり薄野のJAMAICAの 守護霊がふさわしいかも!?“合掌”
(補足説明、参考資料)
*1The New Yorker 1925年2月創刊.90年の歴史をもつ人気地元雑誌(現在は週間7か月と隔週5か月) ルポ、批評、エッセイ、風刺漫画、巻末にレストラン、クラブ、イベント・スケジュールが掲載されて いる。インターネット登場までNYでの夜のスケジュール策定には必須の雑誌でした。表紙デザインは なかなかおしゃれでバックナンバーコレクションとして人気があるようです。
*2 Jon Hendricks 1921年生まれのJazz 作詞家、シンガー(大御所)、晩年はカリフォルニアの自宅 近くのUC Berkleyあるいは仏国ソルボンヌ大学などでJAZZについて教鞭をとる。若いころから作詞活動し、 歌唱力も認められチャーリーパーカーにプロになるよう勧められ、ロースクール中退のインテリ。 NYでD.エリントン、ルイアームストロング、MJQ, マイルスデイビスなどと共演。1958年ボーカルトリオ Lambert, Hendricks & Ross(L,H&R) を結成。Vocaleseといジャズ唱法で一世風靡し、Melody Maker (音楽専門誌)の5年連続#1ボーカルグループ・オブ・ザ・ワールド獲得。ミックジャガー、 ジョンレノンやポールマッカトニーなど大物人気ミュージシャンからも賞賛される存在となり、 人気ボーカルグループ、マンハッタントランスファーなどへも影響も大きな影響を与えました。
*3 Blue Note in Greenwich Village, 1964年11月29日(金)(土)(日)のウイークエンドのみの 珍しい公演。2年前メンバー(L,H&R)のMs. Ross逝去した後、この年グループ解散し、独立。 その直後の公演で、ピアノHank Jones,ベースRed Mitchel,ドラムPhilly Joe Jones,の大物プレイヤーと ともに本人、奥方のJudithそして愛嬢Michelleでボーカル編成の豪華セッシションでした。The New York Timesも週末音楽欄(POP/JAZZ)で写真、署名入りで取り上げ、当日の芸能欄(現物)を保存していたので 本文に掲載。
*4。海外に行くと必ず日本と違う“臭い”に異文化を感じます。特に日本人に比べ女性はもちろん、 ARAMIS、POLOなど男性も香水を良く使います。Dior, Yves Saint Laurent, Chanel, Hermesなどが人気 でした。満員御礼JAZZ CLUBなどではこれらの香水MIXがかなり強烈!人ごみの体臭と香水の毒ガスに むせて適応障害になる日本人がいます。(笑+涙)ライブハウス、クラブ恐怖症...の原因!
*5 Fat Tuesday’s 1985年創業1995年廃業、 190Third avenueの小さな地下一階のJazz club Toshiko Marianoなども活動拠点の一つにしていた。
*6 最近日米ともに熟成肉がブーム。ドライとウエットの熟成法がある。ドライエイジング(乾燥熟成で) 5週以上のステーキをニューヨークのPetrlugerが流行らせ、主要都市で食べられるになってきました。 今ではワインとBLTだけが口に合う食べ物でしたが、30年経ってやっ楽しみが増えました。ラーメン戦争が 各地に勃発しましたが、おいしいところは行列なので使えません。
*7 DAC Digital Analog Converter USBに差し込む小型のものから、単体のDACまで幅広くストリーミング 音楽視聴の音質改善に使われている機器。
*8 2001年9月11日ワールドトレードセンターがアルカイダテロで壊滅しました。そしてメモリアルデイを September 11, 9/11と呼びます。一方、911(Nine One One )というと米国の警察、消防、救急の 緊急呼出し番号です。日本は電話導入時911を逆にして119を消防、救急にあて、警察は110にしました。 米国人にとって911は象徴的な永遠に忘れられない数字といえるかもしれません。アルカイダは心理的に その日を狙ったのだと思います。
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