直也の中には友の死によって抱いてはならないものがあった。怒りと憎しみながら憎しみが憎悪となる事が直也は怖かった。思春期の直也は自分の心と向き合う事も怖かった。捉われた感情から逃れたい逃れたいといつも思っていた。仲間がいても直也の抱いた思いは、仲間達には判らない。ただ漠然と感じるだけの仲間達、それだけに直也は孤独だった。ボクシングを学ぶ事で直也は知った事があった。スパーリングで倒され意識を失った時の涙が直也のありのままの心だったのだ。涙を流す事で負けを認めると直也の持つ感情を大きくしてしまう。直也は決して負ける事を認めるわけにはいかなかった。そして強い自分をいつも寄り添ってくれた優子に見せたかった。優子が直也に対する思いは伝わっていたものの久美子の死が優子への思いを打ち消してしまうのだ。優子は直也の本当の心を知っていた。直也と優子の関係は幼なじみであり優子の片思いだったのかもしれない。優子は久美子に渡された久美子が作っていた大切なアクセサリーを直也がリング上で戦っている時にドリームキャッチャーを握りしめていた。直也はリング上で戦い優子はリング下で自分の気持ちと戦っていたのだ。優子の直也への思いは12年もの間、何も変わってはいなかった。
「時間だ、そろそろ行くぞ直也」「絶対に勝つって約束してよ直也」
「え?おまえ・・・」
優子の思いは直也を思うだけでなく勝利への導きであった。優子の思いを受け入れる事の出来ない直也にとって、この試合だけは優子の希望通り勝利しかないと思う直也だった。控え室を出て廊下を歩きながら直也は自分が出来る事を考える。これまでの3回戦で何を学んできたのか?
直也には試合で学んだ事を生かせる事が出来れば必ず勝てる自身があったが、それは後々の直也に襲い掛かるものでもあった。直也は1回戦目からをさかのぼって考えた事がある。それはパンチを繰り出す時のバランスとパンチ後の引き際である。このタイミングを逃すと相手の策略にはまる。4回戦の相手は前回プロ並みの選手であった。そして優勝を勝ち取った選手だった。直也と相手の選手の身長差や腕のリーチ幅に大差はなく試合を見る限りパンチ力は直也以上とみられる。ただ違いと言えば足の5センチほどの長さだ。この差が直也のフットワークに活からされば相手のパンチ力へのリスクを有利に変える事が出来るとリングサイドでは考えていた。直也は引き際のタイミングだけで勝負を挑む事を考える。しかし直也の左腕が耐えられるかどうか。
「あのフットワーク、どう引いたらいいのか?」
直也が引き際の事を考えているとプロテスト前の康志は直也に何かを察知したのだろう。
「直也、引き際の時パンチを受けながら弾く事が出来るか?」
「先輩、どういうことですか?」
「相手のパンチを受けている事が相手にとって不安材料になる」
「不安材料ですか?」
「相手はパンチが当たってると思い始めるはずだが相手はパンチ力に自信を持っているんだ逆手にとれ」
直也は彼の言葉を信じてみようと思った。しかしどうしたらそんな事が出来るのか?直也はボクシングを始めて約4カ月の素人と一緒だ。
「試合の中で何を学ぶしかないか?」
直也は不安とプレッシャーの中でも試合会場へと向かった。