「葛飾」と聞いたら東京23区の中の一つだと思っていた。現在では正しい認識である。ところが、古い戸籍を見ると関東周辺にやたらと「○葛飾郡」がある。これはいったい何だ?これが疑問であった。鍵は、最近私がずぼっとはまっている「川の成り立ち」にあった。すなわち、こういうことであった。
【葛飾郡の成り立ち】江戸幕府ができる前、利根川も渡良瀬川も東京湾に注いでた(ことは、このシリーズでさんざっぱら書いてきた)。その渡良瀬川は、下流を太日川と言った(かつ、中流部分を権現堂川、庄内川と言った。下流は概ね現在の江戸川にあたる)。この太日川をはさんだ東西のエリア=東京湾から茨城県古河市に至る細長いエリアが下総国葛飾郡となったのである。
その西隣は武蔵国であり、境界線は東遷前の利根川だった。すなわち、利根川は、下総国と武蔵国を分かつ境目であった。だから、現在は東京都である葛飾区や江戸川区は文句なく下総国だったわけである。その利根川の流路を現在の河川名で表した場合、これまでのシリーズでは「古利根川→中川→古隅田川(東京)→隅田川」と書いてきたが、葛飾郡が成立したのは律令時代であるから、その頃の状況を加味する必要がある。それはすなわち、現在は古利根川の支流であって古利根川に流れ込む古隅田川(埼玉)が当時は流れが逆の大河で古利根川から分流して現在の元荒川に注いでおり、そちらが利根川の本流であったこと。それから、最下流の現在の隅田川は現在のように浅草方面に南下する流れのほか南東方面(現在の横十間川方面)に向かう流れがありそちらが本流であったことである。すると、当時の利根川の流路は、古利根川→古隅田川(埼玉)→元荒川→中川→ 古隅田川(東京)→隅田川(南東流)」となり、これが下総国と武蔵国を分かつ境界線となる。したがって、古隅田川(埼玉)の東側の区域は(古利根川の西側であっても)下総国となるし、最下流の隅田川の南東流の西側の区域(スカイツリーがある)は(現在の隅田川の東側であっても)後述する「武蔵国への編入」前から武蔵国となるのである(このことは、ブラタモリでもとりあげていたし、結構多くの人が「元は下総国だったというのは誤り」と熱く述べている)。同様に、浅草以南にある「両国橋」は、東詰も西詰も「武蔵国への編入」前から武蔵国である。だから、「2つの国にまたがっていたことから両国橋と呼ばれた」と言うのは厳密に言えば正しくないことになるが(ウィキペディアも注釈で「正確には東岸からさらに東1kmのほぼ横十間川が両国(武蔵国・下総国)の境だった」と言っている)、東詰から近いところが下総国なので、「下総国に通じるルート」くらいのニュアンスで考えればよいだろう。以上を図にすると次のとおりである。
【葛東と葛西の分離】江戸幕府が始めた利根川の東遷事業の途中で、いっとき、利根川の本流が庄内川&太日川にシフトし、さらに庄内川から新たに開削した江戸川上流にシフトした。これにより、利根川の本流は現在の江戸川となった。昔の人は、とにかく下総国と武蔵国の境を利根川に置きたかったらしく(利根川の東=下総国、西=武蔵国)、江戸川(当時の利根川)の西側を武蔵国に編入した(領土割譲!?)。すなわち、下総国葛飾郡(葛東)と武蔵国葛飾郡(葛西)に分割したのである。ただし(ここが肝心なのだが)、庄内川(後に庄内古川。一瞬、利根川本流となった)と新たに開削した江戸川上流(その後利根川本流となった)の間の区域は、(江戸川の西側であるにもかかわらず)下総国に残された。以上を図にすると次のとおりである。
【五郡に分割】その後、利根川と常陸川(銚子沖に通じる)がつながり、とうとう利根川は銚子沖の太平洋に注ぐ川となって東遷が完了した。そして、明治維新を迎え、廃藩置県が行われると、かつての葛飾郡は次のとおり合計五郡に分割された。
・千葉県に属する葛飾郡→千葉県東葛飾郡
・東京府に属する葛飾郡→東京府南葛飾郡
・埼玉県に属する葛飾郡のうち武蔵国に属していた区域→埼玉県北葛飾郡
・埼玉県に属する葛飾郡のうち下総国に属していた区域(庄内古川と江戸川上流の間の区域=江戸川が利根川本流となった際に武蔵国に編入されなかった区域)→埼玉県中葛飾郡
・茨城県に属する葛飾郡→茨城県西葛飾郡
あれ?と思うのは西葛飾郡。元の葛飾郡から見たら北端にあるのになぜ「西」?そうか、茨城県から見たら西端だからか。以上を図にすると次のとおりである。
【現在】その後「○葛飾郡」という行政区域はほとんど消滅した。わずかに埼玉県北葛飾郡の数町を残すのみである。現在、「葛飾」の名は東京都葛飾区がこれを受け継いでいる。もともと広大だった葛飾郡も随分小さいエリアにおさまったものである。いっときユーラシア大陸を席巻したモンゴルが東アジアの一角に、(オスマン)トルコがアナトリア半島におさまっているのと似ている。
あと、現在当たり前のように東京都であるエリアが昔は下総国(現在の千葉県)の版図であったことについては、ドイツのライン川西岸のことを思い出す。その地は、現在は当たり前のようにドイツの領土だが、古代においては、ローマの支配が及んでいた地域で、ライン川をはさんでローマ人とゲルマン人が対峙していたのである。
なお、冒頭に、最近私が「川の成り立ち」にずぼっとはまっていると書いたが、昔の利根川にしても、渡良瀬川(太日川)にしても、最下流は湿地帯で相当にずぼずぼしていたらしい。だから、私がずぼっとはまるのは理にかなっているのである。
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