•日本最初の 麦酒工場(麒麟公園
–文化遺蹟日本最初の麦酒工場
•横浜市長 半井清
•昭和三十七年二月十一日W.コープランド氏の命日に建てる
–横浜ペンクラブ
–麒麟麦酒開源記念碑
•安政5年 徳川幕府が独断専行して国を開くや 欧米人続々として横浜に来りしが 彼等は 居留地と称せらるゝ一区域の中に居住す 天沼は此居留地に属し 徽章斜に連り 高大短 樹其間を点綴し 清泉渡々として崖下に湧き 気清く風軟かに 一福春国の画の如し 明治 5年 米人ダブリウ・コープランド 此処に工場を建設し スプリング・ヴァン・ブリユフリ ーと称して麦酒を醸造す 是れ日本に於ける麦酒醸造の開源にして 今日の麒麟麦酒株 式会社の前身なりとす 明治18年 五島象二郎伯 岩崎弥之男 増島六一郎博士 渋沢栄市子 益田孝男 カークウツド, グラバ, ベルツ, カールコーデの諸君唱首となって同志を 糾合し ジャパン・ブリュワリー・コンパニーと称する合資会社を起して スプリング・ヴ ァンー・ブリュワリーの事業を継承し始めて 其醸造する麦酒に 麒麟麦酒 と命名す 明治 29年 更に之を株式会社に改め ゼ・ジャパン・ブリュフリー・コンパニー・リミテツドと 命名し 前年香港政庁に登録したる事業を 日本政府に登録す 明治40年 豊川良平 近藤鷹 平男 米井源治郎 郭公住震 田中常徳 高木豊三 高田正久 草郷清四郎 今村繁三 磯野長蔵等 の諸君主唱して 麒麟麦酒株式会社を起し ゼ・ジャパン・ブリユワリー・コンパニー・リ ミテッドの事業を継承して 以来資本を増加して事業を拡大し 天沼工場のみにても地 域7,398坪に達せしが 大正12年の震災に遭ふて工場を鶴見に新築し 之より更に事業を 伸張し 満州朝鮮にまで分工場を増設す 其初居留外国人の需要に応ずるがために 醸造 せられたる麒麟麦酒は 其風味と香■により国民的飲料になりて 全国に弥浸し 外国品 の輸入を防通するのみならず 却って外国に輸出せられるゝに至る 始めて日本の土を 踏む外国人等 甕中の玉液を汲み 屋内の金波を傾け置らざりき 日本またミュンヘンビ ールあり ガムブリナスの神は 扶桑の地をも祝福するかと嘆賞するに至る 麒麟麦酒の 発達の跡を見るに 一粒の種子が成長繁茂して 亭々たる祭典の大樹となり 朝暉を受け ては立後を掩ひ 夕日を負ふては江海を翳ふに至るが如し 今麒麟麦酒株式会社が其の 発祥の地たる天沼に 記念碑を建つるに会ひ 文を撰して其事を誌るす 之を読む者必ら ず麒麟麦酒株式会社発建の歴史は 日本国勢開展の歴史と其軌を一にするを感ぜん
–昭和12年19月 竹越與三郎撰 野本白霊書
–麒麟麦酒開源記念碑
•明治3年(1870年) 米国人 W.コープランド氏が, 「スプリン グ・バレー・ブルワリー」醸造所をこの天沼の地に開設し, 日 本で初めて麦酒の醸造を開始。その後, 明治18年(1885年) T.B.グラバー氏らが「ジャパンブルワリー」
を設立し, 明治 40年(1907年)に 麒麟麦酒株式会社がその事業を引き継ぎ, 関 東大震災までの半世紀にわたり ビール産業の歴史を刻みつづ けた。この地が キリンビールの発祥の地であることを記念し て, 昭和12年(1937年) ここに開源記念碑を建立した。|