大都会に残る時の止まった場所、
新宿ノーザンウエスト・シリーズです。
前回アップした西新宿の熊野神社を中心にした十二社が、
かつて花街だった要因となる池を求めて、
更に熊野神社に掲示された資料から、
当時の様子を見て行きたいと思います。
角筈熊野十二社 (名所江戸百景) 熊野神社境内啓示物
十二社の池は、江戸時代の初期、
湧水を利用して田畑の用水溜として、
大小2つの池を開発したものが端緒で、
現在の熊野神社の西側、
十二社通りをへだてた一帯にあったっそうです。
十二社菖蒲の図 一松斉芳宗 (1860) 熊野神社境内啓示物
大池 (中池・上の溜井) は南北126間・東西8~26間、
ということですから、
南北約300m、東西約15m~50mくらいでしょうか。
同じ東京にあって、現在も観光地として賑わう井の頭公園の池が、
長尺約600m、短尺約200mなので、
十二社の大池はこじんまりとした池だったことがわかります。
その後100年くらい経った享保年間頃から周囲に多数の茶屋ができ、
景勝地として賑わったそうです。
泳いでいる人や池畔の茶屋から、その大きさが想像できます。
十二社大池の船遊び(『淀橋誌考』) 熊野神社境内啓示物
明治時代以後は、
大きな料亭が建ち並び、花柳界として知られるようになり、
最盛期には料亭や茶屋が約100軒、芸妓約300名を擁した、
というから、相当な規模の花街だったと思います。
ボート、屋形船、釣り、花火などの娯楽も盛んに行われ、
明治から昭和初期にかけて、花街として隆盛を極めたそうです。
また大池の北側に隣接してあった小池 (下池・下の溜井)は、
大池の分水で、南北50間・東西7~16間
(南北約90m、東西約12m~30m)と、
大池に比べるとかなり小振りだったようです。
大池と小池を現在の地図に重ね合わせてみました。
十二社の池 地図
極めてアバウトな輪郭ですが、
時代別の地図に記された大池と小池の変遷を、
1枚の地図にまとめてみました。
大池は縦長の3色全体が元来の池で、
昭和初期から徐々に埋めたてられ、
その規模を縮小して行きました。
大正15年(1925)年の地図を見ると、
最大規模時の大池と小池が書かれています。
小池の北寄りには瓢箪のような形があるので、
弁財天などを祀った人工の小島でしょうか。
その後昭和8年(1933)の地図にはもう小池はなく、
大池も一番下のブルーの部分がなくなっています。
そして第二次大戦が始まる頃は更に縮小し、
中央のライトブルーの部分だけになっています。
戦後も周囲の料亭とともに存続するものの、
水質の汚濁などから、
昭和43年(1968)には全て埋め立てられ、
十二社の池は完全に消えました。
池の埋め立てに際して、水質がかない汚濁したらしく、
その時に死んだ鯉供養の「こひ塚」が境内に祀られています。
熊野神社/こひ塚
また、埋め立てられる直前の十二社の池は、
確かに水質の汚濁は半端なかっただろうな~
と実感させられ写真が、
このページを開いて、少し下へスクロールしたあたりにアップされています。
このサイト『歩いて見ました東京の街』は、
60年代から90年代の東京を記録した写真を、
息子さんがアップされているサイトの様ですが、
劇的に変化して来た東京のビフォーが克明に記録されたサイトなので、
興味のある方は是非ご覧になることをお薦めします。
◆
熊野神社は十二社通りからせり上がった高台にあり、
また池のあったエリアは低い土地だったので、
その高低差から、この界隈には大小幾つもの滝もあったそうです。
十二社 (江戸名所図絵) 熊野神社境内啓示物
その中で特に大きかった十二社の大滝は、
『江戸名所図会』『江戸砂子』などに熊野の滝・萩の滝と記された滝で、
高さ三丈(約10m)・幅一丈(約3.3m)の大きさだったというので、
これは確かに壮観だったと思います。
滝があったのは、
神田上水助水堀が、熊野神社の東端から落ちるところというので、
上記地図の熊野神社敷地の右端と区立区民ギャラリーの間付近だと思います。
現在のその付近の様子を見てみると、
新宿区立区民ギャラリーと熊野神社
左の黄色い建物が区民ギャラリー、右奥が熊野神社。
確かに区民ギャラリーと手前の道は、かなり高低差があります。
滝の多くは、大池や小池よりも早く、
明治以後、淀橋浄水場の工事などにより埋め立てられたそうです。
今では熊野神社の境内にその記憶を留めるかの様に、
弁天池と滝のモニュメントがあるだけです。
熊野神社/弁天池と人工滝
随分と長い予習になってしまいましたが、
そんな数奇な運命を辿った十二社を、
次回から実際に巡ってみようと思います。
◆ 消滅する街~新宿ノーザンウエスト~ ◆
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★ ワンダーJAPAN ★
連載『新宿ノーザンウエスト~昭和と平成の交差点~』(vol.06~09)
vol.06 vol.07 vol.08 vol.09
新宿ノーザンウエスト・シリーズです。
前回アップした西新宿の熊野神社を中心にした十二社が、
かつて花街だった要因となる池を求めて、
更に熊野神社に掲示された資料から、
当時の様子を見て行きたいと思います。
角筈熊野十二社 (名所江戸百景) 熊野神社境内啓示物
十二社の池は、江戸時代の初期、
湧水を利用して田畑の用水溜として、
大小2つの池を開発したものが端緒で、
現在の熊野神社の西側、
十二社通りをへだてた一帯にあったっそうです。
十二社菖蒲の図 一松斉芳宗 (1860) 熊野神社境内啓示物
大池 (中池・上の溜井) は南北126間・東西8~26間、
ということですから、
南北約300m、東西約15m~50mくらいでしょうか。
同じ東京にあって、現在も観光地として賑わう井の頭公園の池が、
長尺約600m、短尺約200mなので、
十二社の大池はこじんまりとした池だったことがわかります。
その後100年くらい経った享保年間頃から周囲に多数の茶屋ができ、
景勝地として賑わったそうです。
泳いでいる人や池畔の茶屋から、その大きさが想像できます。
十二社大池の船遊び(『淀橋誌考』) 熊野神社境内啓示物
明治時代以後は、
大きな料亭が建ち並び、花柳界として知られるようになり、
最盛期には料亭や茶屋が約100軒、芸妓約300名を擁した、
というから、相当な規模の花街だったと思います。
ボート、屋形船、釣り、花火などの娯楽も盛んに行われ、
明治から昭和初期にかけて、花街として隆盛を極めたそうです。
また大池の北側に隣接してあった小池 (下池・下の溜井)は、
大池の分水で、南北50間・東西7~16間
(南北約90m、東西約12m~30m)と、
大池に比べるとかなり小振りだったようです。
大池と小池を現在の地図に重ね合わせてみました。
十二社の池 地図
極めてアバウトな輪郭ですが、
時代別の地図に記された大池と小池の変遷を、
1枚の地図にまとめてみました。
大池は縦長の3色全体が元来の池で、
昭和初期から徐々に埋めたてられ、
その規模を縮小して行きました。
大正15年(1925)年の地図を見ると、
最大規模時の大池と小池が書かれています。
小池の北寄りには瓢箪のような形があるので、
弁財天などを祀った人工の小島でしょうか。
その後昭和8年(1933)の地図にはもう小池はなく、
大池も一番下のブルーの部分がなくなっています。
そして第二次大戦が始まる頃は更に縮小し、
中央のライトブルーの部分だけになっています。
戦後も周囲の料亭とともに存続するものの、
水質の汚濁などから、
昭和43年(1968)には全て埋め立てられ、
十二社の池は完全に消えました。
池の埋め立てに際して、水質がかない汚濁したらしく、
その時に死んだ鯉供養の「こひ塚」が境内に祀られています。
熊野神社/こひ塚
また、埋め立てられる直前の十二社の池は、
確かに水質の汚濁は半端なかっただろうな~
と実感させられ写真が、
このページを開いて、少し下へスクロールしたあたりにアップされています。
このサイト『歩いて見ました東京の街』は、
60年代から90年代の東京を記録した写真を、
息子さんがアップされているサイトの様ですが、
劇的に変化して来た東京のビフォーが克明に記録されたサイトなので、
興味のある方は是非ご覧になることをお薦めします。
◆
熊野神社は十二社通りからせり上がった高台にあり、
また池のあったエリアは低い土地だったので、
その高低差から、この界隈には大小幾つもの滝もあったそうです。
十二社 (江戸名所図絵) 熊野神社境内啓示物
その中で特に大きかった十二社の大滝は、
『江戸名所図会』『江戸砂子』などに熊野の滝・萩の滝と記された滝で、
高さ三丈(約10m)・幅一丈(約3.3m)の大きさだったというので、
これは確かに壮観だったと思います。
滝があったのは、
神田上水助水堀が、熊野神社の東端から落ちるところというので、
上記地図の熊野神社敷地の右端と区立区民ギャラリーの間付近だと思います。
現在のその付近の様子を見てみると、
新宿区立区民ギャラリーと熊野神社
左の黄色い建物が区民ギャラリー、右奥が熊野神社。
確かに区民ギャラリーと手前の道は、かなり高低差があります。
滝の多くは、大池や小池よりも早く、
明治以後、淀橋浄水場の工事などにより埋め立てられたそうです。
今では熊野神社の境内にその記憶を留めるかの様に、
弁天池と滝のモニュメントがあるだけです。
熊野神社/弁天池と人工滝
随分と長い予習になってしまいましたが、
そんな数奇な運命を辿った十二社を、
次回から実際に巡ってみようと思います。
◆ 消滅する街~新宿ノーザンウエスト~ ◆
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連載『新宿ノーザンウエスト~昭和と平成の交差点~』(vol.06~09)
vol.06 vol.07 vol.08 vol.09
ここには池があったんですね。ここの区画の不整形な形は池の跡に由来したものだとよく分かりました。
この大池のすぐ向い側、今の新宿中央公園になっている場所の一角には、小西六のフィルムの大きな工場があったようです。
水質の悪化はそれが原因だったわけでもないのでしょうが、ひょっとしたら何かしらの関係が合ったのかもしれませんね。
本年もよろしくお願いいたします。
新宿西口公園の前身が小西六だったのは、
園内の「写真工業発祥の地」の碑で知りました。
コニカミノルタさんには、軍艦島の展示でおせわになったり、
最初に買ったビューファインダー・カメラがコニカだったりと、
コニカはなにかと縁がある会社でした。
十二社の池の水質に小西六の工場が関係していたかは、
面白い問題だと思います。
機会があったら是非調べてみたいと思います。