大都会に残る時の止まった場所、
新宿ノーザンウエスト・シリーズです。
これまでこのシリーズでは、
再開発によって消えゆく昭和の街を中心に、
西新宿3丁目~8丁目と北新宿2丁目をアップして来ましたが、
これらのほぼ真中の位置にありながら、
再開発計画が表立って発表されていないので、
今まで触れてこなかったのが西新宿4丁目です。
西新宿4丁目は、
パークハイアットのある3丁目と、
前回までアップして来た6丁目との中間にあるエリアで、
西新宿としては珍しく、高層ビルが1本もない、
低層の雑居ビルと住宅がひしめき合う雑然とした街です。
そんな一見色のない様に見える街が、
江戸西郊の風光明媚な場所として一大花街を形成し、
西新宿の中で最も色のある街だったとは、
今からは想像もつきません。
エリアの中心にある熊野神社の境内に、
この街のかつての様子が展示されているので、
まずはそれから見て行こうと思います。
角筈村熊野十二所権現社 (江戸名所図絵) 熊野神社境内啓示物
図絵のタイトルにある角筈村とは、
新宿の西側を中心としたエリアのかつての地名で、
その村の中に淀橋や十二社といった字がありました。
現在では行政上は西新宿1丁目~8丁目というように、
無味乾燥な名称になっていますが、
実際にこのエリアを訪れると、
表札からバス停、ビル名や通り名など、
至る所に当時の町名や字名が残っています。
それにしても「角筈」とは変な単語ですね。
以前にシリーズでアップした、
都営角筈アパートもその名残の一つでした。
幼少の頃から知っていたので疑問に思いませんでしたが、
キーボードで何度も打っていると、改めて気になります。
新宿区教育委員会編纂『新宿区町名誌/地名の由来と変遷』には、
「角筈周辺を開拓した渡辺与兵衛の髪の束ね方が異様で、
角にも矢筈にも見えたことから、人々が与兵衛を角髪または矢筈と呼び、
これが転じて角筈となった」
とあります。
また地域情報サイト『マイプレ』の「町名の謎」を見ると、
「角筈とは真言宗で在俗の僧を呼ぶ言葉で、
当地の名主、渡辺与兵衛がその名で呼ばれていたのが起源」
と書いてあります。
どちらが本当か、また別の意味があるのかは分かりませんが、
どうやら渡辺さんが関わっている事には違いないようですね。
◆
また淀橋は、今はなき西新宿の巨大施設だった淀橋浄水場や
ヨドバシカメラでも良く知られますが、
この「淀橋」も、思えば変わった名前です。
同じく地域情報サイト『マイプレ』の「町名の謎」には、
「中野村や角筈村など地境の周辺4個所の意味の四所から淀橋」
とか
「これら四所の“余戸”が集って住んでいたから淀橋」
更には、
「この橋を“姿不見(姿みず)の橋”と呼んでいたのを、
縁起が悪いというので、水車のある風景が京都の淀に似ていることから、
淀橋と呼ぶようになった」
などと、幾つもの説があると書かれています。
◆
字名の「十二社」は「じゅうにそう」と読み、
熊野神社に隣接する通りやバス停にその名前が残っています。
京王バスのバス停「十二社池ノ下」
これもまた上記の地名同様に変わった名称です。
熊野神社境内の掲示板にその由来が書かれてありました。
新宿熊野神社は、
中野長者と呼ばれた鈴木九郎が室町時代の1400年前後に、
故郷の熊野から十二所権現をうつし祀ったのが始まり
と書かれていますが、そのすぐあとに、
上述の渡辺与兵衛が1500年中頃の熊野の乱の時に、
熊野から流れて来てこの地に開闢したのかも、
とも書かれています。
その差100年以上の、極めてアバウトな開闢ですが、
熊野の権現様関連である事は、間違いなさそうです。
現在の熊野神社
さらに
十二所権現社が十二社 (じゅうにそう) と呼ばれるようになったのは、
複数の神社を一つの建物に祀る造りを相 (双) 殿形式といい、
その相 (双) の発音が残って「じゅうにそう」となった、
などと書かれてあります。
ちなみに江戸時代の文献には、
「十二荘」「十二叢」「十二層」などの記述もあるそうですが、
「じゅうにそう」と呼ばれていた事は間違いないようです。
上記の中野長者、鈴木九郎の伝説にまつわる物件は、
また別の機会にアップするとして、
以前にアップした神田川支流暗渠で取り上げた、
長者第一號橋もまたこの伝説に因んだ橋。
鈴木さんが当時どんだけだったかが分かります。
この江戸名所図絵では、神社はわかるものの、
周囲の様子がよくわかりません。
そこで以前の記事でも取り上げた、
柏木角筈一目屏風の右半分を見てみます。
柏木角筈一目屏風 右半分 新宿歴史博物館蔵より
図中央上方の霧がかかっているあたりが高層ビルの中心地、
その向こうが新宿駅で、
青梅街道と甲州街道がちょうどハの字に広がっている図です。
ちょうど中央に、
前回の記事で取り上げた、動物のいる細長い暗渠の前身、
神田上水助水掘りが単に「助水掘」として書かれ、
その下に十二社通り、
その少し右下を見ると渡辺家とかいていあります。
上述の渡辺さんですね。
そしてその右隣のこんもりした森が熊野神社。
さらにその右隣に十二社池と書かれてあります。
随分と前置きが長くなってしまいましたが、
次回はこの池を取り上げたいと思います。
◆ 消滅する街~新宿ノーザンウエスト~ ◆
> NEXT TOP
★ ワンダーJAPAN ★
連載『新宿ノーザンウエスト~昭和と平成の交差点~』(vol.06~09)
vol.06 vol.07 vol.08 vol.09
新宿ノーザンウエスト・シリーズです。
これまでこのシリーズでは、
再開発によって消えゆく昭和の街を中心に、
西新宿3丁目~8丁目と北新宿2丁目をアップして来ましたが、
これらのほぼ真中の位置にありながら、
再開発計画が表立って発表されていないので、
今まで触れてこなかったのが西新宿4丁目です。
西新宿4丁目は、
パークハイアットのある3丁目と、
前回までアップして来た6丁目との中間にあるエリアで、
西新宿としては珍しく、高層ビルが1本もない、
低層の雑居ビルと住宅がひしめき合う雑然とした街です。
そんな一見色のない様に見える街が、
江戸西郊の風光明媚な場所として一大花街を形成し、
西新宿の中で最も色のある街だったとは、
今からは想像もつきません。
エリアの中心にある熊野神社の境内に、
この街のかつての様子が展示されているので、
まずはそれから見て行こうと思います。
角筈村熊野十二所権現社 (江戸名所図絵) 熊野神社境内啓示物
図絵のタイトルにある角筈村とは、
新宿の西側を中心としたエリアのかつての地名で、
その村の中に淀橋や十二社といった字がありました。
現在では行政上は西新宿1丁目~8丁目というように、
無味乾燥な名称になっていますが、
実際にこのエリアを訪れると、
表札からバス停、ビル名や通り名など、
至る所に当時の町名や字名が残っています。
それにしても「角筈」とは変な単語ですね。
以前にシリーズでアップした、
都営角筈アパートもその名残の一つでした。
幼少の頃から知っていたので疑問に思いませんでしたが、
キーボードで何度も打っていると、改めて気になります。
新宿区教育委員会編纂『新宿区町名誌/地名の由来と変遷』には、
「角筈周辺を開拓した渡辺与兵衛の髪の束ね方が異様で、
角にも矢筈にも見えたことから、人々が与兵衛を角髪または矢筈と呼び、
これが転じて角筈となった」
とあります。
また地域情報サイト『マイプレ』の「町名の謎」を見ると、
「角筈とは真言宗で在俗の僧を呼ぶ言葉で、
当地の名主、渡辺与兵衛がその名で呼ばれていたのが起源」
と書いてあります。
どちらが本当か、また別の意味があるのかは分かりませんが、
どうやら渡辺さんが関わっている事には違いないようですね。
◆
また淀橋は、今はなき西新宿の巨大施設だった淀橋浄水場や
ヨドバシカメラでも良く知られますが、
この「淀橋」も、思えば変わった名前です。
同じく地域情報サイト『マイプレ』の「町名の謎」には、
「中野村や角筈村など地境の周辺4個所の意味の四所から淀橋」
とか
「これら四所の“余戸”が集って住んでいたから淀橋」
更には、
「この橋を“姿不見(姿みず)の橋”と呼んでいたのを、
縁起が悪いというので、水車のある風景が京都の淀に似ていることから、
淀橋と呼ぶようになった」
などと、幾つもの説があると書かれています。
◆
字名の「十二社」は「じゅうにそう」と読み、
熊野神社に隣接する通りやバス停にその名前が残っています。
京王バスのバス停「十二社池ノ下」
これもまた上記の地名同様に変わった名称です。
熊野神社境内の掲示板にその由来が書かれてありました。
新宿熊野神社は、
中野長者と呼ばれた鈴木九郎が室町時代の1400年前後に、
故郷の熊野から十二所権現をうつし祀ったのが始まり
と書かれていますが、そのすぐあとに、
上述の渡辺与兵衛が1500年中頃の熊野の乱の時に、
熊野から流れて来てこの地に開闢したのかも、
とも書かれています。
その差100年以上の、極めてアバウトな開闢ですが、
熊野の権現様関連である事は、間違いなさそうです。
現在の熊野神社
さらに
十二所権現社が十二社 (じゅうにそう) と呼ばれるようになったのは、
複数の神社を一つの建物に祀る造りを相 (双) 殿形式といい、
その相 (双) の発音が残って「じゅうにそう」となった、
などと書かれてあります。
ちなみに江戸時代の文献には、
「十二荘」「十二叢」「十二層」などの記述もあるそうですが、
「じゅうにそう」と呼ばれていた事は間違いないようです。
上記の中野長者、鈴木九郎の伝説にまつわる物件は、
また別の機会にアップするとして、
以前にアップした神田川支流暗渠で取り上げた、
長者第一號橋もまたこの伝説に因んだ橋。
鈴木さんが当時どんだけだったかが分かります。
この江戸名所図絵では、神社はわかるものの、
周囲の様子がよくわかりません。
そこで以前の記事でも取り上げた、
柏木角筈一目屏風の右半分を見てみます。
柏木角筈一目屏風 右半分 新宿歴史博物館蔵より
図中央上方の霧がかかっているあたりが高層ビルの中心地、
その向こうが新宿駅で、
青梅街道と甲州街道がちょうどハの字に広がっている図です。
ちょうど中央に、
前回の記事で取り上げた、動物のいる細長い暗渠の前身、
神田上水助水掘りが単に「助水掘」として書かれ、
その下に十二社通り、
その少し右下を見ると渡辺家とかいていあります。
上述の渡辺さんですね。
そしてその右隣のこんもりした森が熊野神社。
さらにその右隣に十二社池と書かれてあります。
随分と前置きが長くなってしまいましたが、
次回はこの池を取り上げたいと思います。
◆ 消滅する街~新宿ノーザンウエスト~ ◆
> NEXT TOP
★ ワンダーJAPAN ★
連載『新宿ノーザンウエスト~昭和と平成の交差点~』(vol.06~09)
vol.06 vol.07 vol.08 vol.09
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます