以前アップした記事『戸山ヶ原逍遙 都立豊多摩病院跡』に、
最近沢山のコメントを頂くので、
約2年前、戸山ヶ原を散策した時の事が懐かしく、
当時アップしなかった戸山アパートの画像をアップしようと思いました。
予備校や模試(戸山アパートに近くの高校が使われる事が多かった)や
大学の帰りに、よく横を通った記憶のある戸山アパートの思い出は、
やはり道に面したこの光景。
▼
当時団地とかには別に興味がなかったので、
わざわざ他の団地を観る事もない自分にとっては、
延々と続く戸山アパートの光景は、不思議になモノに見えたのを、
今でも憶えています。
と同時に、こんもりと森のように茂る木々も、
生まれ育った環境にはなかったので、
それにも魅力を感じていたんだと思います。
模試の帰りなどは、よく出来なかった試験に疲れた気持ちが、
戸山の木々に癒されていたのかもしれません。
以前にもアップした、最も最後まで残っていた、
東寄りに建つ棟の中庭。
▼
当時より一段と森が深くなった中に、一匹の猫がいました。
もともと住民に飼われていたのでしょうか?
今は主を失ったのか、極めてやせ細っていました。
▼
◆
ついでに戸山鋼筋住宅給水塔の跡地。
以前の記事(こちらやこちら)でアップした、
かつて戸山アパートに井戸水を給水していた、趣のある給水塔。
戸山ヶ原のことをいろいろ教えて頂いたzeroさんと散策に出かけた時は、
すでに第二給水塔の方は解体されていました。
▼
解体直後の第二給水塔跡地。奥が西戸山中学校
あれだけ存在感のあった給水塔も、
解体されてしまうと「えっ、土地、こんだけ?」と思います。
その後しばらく残っていた第一給水塔も、
やがて解体されてしまいました。
画像はともにzeroさんから提供いただいたものです。
あの2本の給水塔が見られないのかと思うと、訪れる気が起きず、
結局解体後戸山ヶ原を訪れることはなくなってしまいました。
■ 追記 : 2008年1月19日
当初アップした、zeroさんから提供頂いた第一給水塔跡地の画像は、
管理人の単純な勘違いで、
実は別の場所の跡地の画像ということがわかったので削除しました。
■ 追記 : 2008年1月21日
いったん削除した第一給水塔跡地の画像ですが、
zeroさんから提供頂いたので、再度アップしました。
こちらはまぎれもなく第一給水塔跡地ですが、
寂しい光景です。
zeroさん、当初、勘違いで別の画像をアップしてしまい、
申し訳ありませんでした。
■ 追記 : 2008年4月4日
戸山アパートも全て建て替えられ、2つの給水塔ももはやない今、
唯一かつての面影を残す光景ではないかと思われる一角。
おそらく店とかは変わっているんでしょうが、
この鍵型に曲がって少し広くなっている道が、
私が今でも当時を思い出す事のできる光景です。
◆軍都 戸山ヶ原逍遙◆
> TOP
最近沢山のコメントを頂くので、
約2年前、戸山ヶ原を散策した時の事が懐かしく、
当時アップしなかった戸山アパートの画像をアップしようと思いました。
予備校や模試(戸山アパートに近くの高校が使われる事が多かった)や
大学の帰りに、よく横を通った記憶のある戸山アパートの思い出は、
やはり道に面したこの光景。
▼
当時団地とかには別に興味がなかったので、
わざわざ他の団地を観る事もない自分にとっては、
延々と続く戸山アパートの光景は、不思議になモノに見えたのを、
今でも憶えています。
と同時に、こんもりと森のように茂る木々も、
生まれ育った環境にはなかったので、
それにも魅力を感じていたんだと思います。
模試の帰りなどは、よく出来なかった試験に疲れた気持ちが、
戸山の木々に癒されていたのかもしれません。
以前にもアップした、最も最後まで残っていた、
東寄りに建つ棟の中庭。
▼
当時より一段と森が深くなった中に、一匹の猫がいました。
もともと住民に飼われていたのでしょうか?
今は主を失ったのか、極めてやせ細っていました。
▼
◆
ついでに戸山鋼筋住宅給水塔の跡地。
以前の記事(こちらやこちら)でアップした、
かつて戸山アパートに井戸水を給水していた、趣のある給水塔。
戸山ヶ原のことをいろいろ教えて頂いたzeroさんと散策に出かけた時は、
すでに第二給水塔の方は解体されていました。
▼
解体直後の第二給水塔跡地。奥が西戸山中学校
あれだけ存在感のあった給水塔も、
解体されてしまうと「えっ、土地、こんだけ?」と思います。
その後しばらく残っていた第一給水塔も、
やがて解体されてしまいました。
画像はともにzeroさんから提供いただいたものです。
あの2本の給水塔が見られないのかと思うと、訪れる気が起きず、
結局解体後戸山ヶ原を訪れることはなくなってしまいました。
■ 追記 : 2008年1月19日
当初アップした、zeroさんから提供頂いた第一給水塔跡地の画像は、
管理人の単純な勘違いで、
実は別の場所の跡地の画像ということがわかったので削除しました。
■ 追記 : 2008年1月21日
いったん削除した第一給水塔跡地の画像ですが、
zeroさんから提供頂いたので、再度アップしました。
こちらはまぎれもなく第一給水塔跡地ですが、
寂しい光景です。
zeroさん、当初、勘違いで別の画像をアップしてしまい、
申し訳ありませんでした。
■ 追記 : 2008年4月4日
戸山アパートも全て建て替えられ、2つの給水塔ももはやない今、
唯一かつての面影を残す光景ではないかと思われる一角。
おそらく店とかは変わっているんでしょうが、
この鍵型に曲がって少し広くなっている道が、
私が今でも当時を思い出す事のできる光景です。
◆軍都 戸山ヶ原逍遙◆
> TOP
この時代のアパートは、階段の両側に一軒ずつなので、
確かに移動はたいへんでしたね。
昭和天皇がいらっしゃった事もあるんですか。
やはり軍の関連施設の視察のついで、
とかだったんでしょうか。
以前の都営アパートの敷地には必ずモミの木(かな?)があって、
あの木の形が、夜の怖さを高めますね。
天祖神社の時間的な流れも、だんだん解明されてきましたね。
戸山が原はとても時間の積み重ねがあり土地なんだと、
改めて思いました。
もう新生戸山アパートも完成した頃でしょうか。
ずいぶんと風景も変わってしまったんでしょうね。
神社の移築後に建った43号館の友達と幼稚園に通い始めたのが昭和36年ですので、神社の移築は昭和33年前後の様です。
練兵場の野原だとばかり思っていましたが、古くから人が住んでいた様です。田山花袋がよく遊びに来ていた文人の家もあったとか。(2006年に壊されてしまいました。)武見太郎の親戚の家が健在です。
最近は外へ出られる事がなくなり、
めっきり戸山界隈もご無沙汰です。
どんどん変わってきてしまっているようですが、
この記事の最後の画像のスペースだけは、
なんとかいつまでも残って欲しいなーと思います。
今回は約1年半ぶりでしたが、まず驚いたのが都営住宅がすっかり完成していたこと。そして残念だったのが商店街のそば屋さんが閉店し、建て替えが始まっていたことです。そんな中、3丁目会の掲示板に西戸山フラワーズ(小学生女子ソフトボールチーム)の活躍が掲示されていました。あぁ、まだ続いているのか、と…。しかし自分が入っていた西戸山ジュニア(少年野球チーム)はどうなってしまったのでしょうか?
今回は時間があったので西戸山公園のベンチでいろんなことを思い出してました。
戸山ヶ原の軍施設建設に協力した組は、その後も優先的に戸山ヶ原まわりの建物の建設の際、
優遇されたといった感じなのでしょうか。
ちょうど今アップしている文京区の元町小学校なんかは、
昭和2年開校なんで、約80年ですね。
そのわりには古さを感じさせませんが、
逆に最近建設されたり改築された区立小学校や中学校を見ると、
これって区立学校?と思うような凄いルックスのものが増えています。
っていうことは関東大震災後の学校建設の方法が、
最近までずっと応用されて来たっていうことだとも思います。
西戸山中学校の造りは、昭和27年竣工とは思えないくらいモダンで、改めて驚きました。教室の広さと同程度の廊下を設けて、廊下に柱を多数配置して、”これでもか”と強度を稼いでいました。残っていれば、次の震災にも耐えられた事でしょう。
建物の内部にはひび一つ無く、職人が手がけた数々の意匠も35年前そのままでした。驚いたのは木製のゴミ箱で当時のものがそのまま使われていました。学校はタイムカプセルですね。
ただ一つ違っていたのは、人感センサーが各所に設置されていた事です。世知辛い時代を感じます。
昭和38年の航空写真は素晴らしいですね。団地の窓一つ一つがくっきりと写っています。山手線に長い貨物列車が写っていたのには感動しました。昔の貨物列車は、本当に長かったです。
神社の位置が載っている古地図とも場所がほぼ一致するので間違いないかと思います。
緑の少ない焼け野原の中に、かつて境内にあったという移植けやきの木らしき姿がはっきりわかります。
http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E139.42.8.579N35.42.18.464&ZM=12
おそらく目にはしていたはずですが、そこにテレビが隠されていたとは当時は全くわかりませんでした(笑)。
私の時代には、西戸山公園のお祭りに戸山アパートが協賛していたと思います。以前はそうではなかったのかもしれませんね。
そういえば、上記にご紹介したgoo古地図に、昭和22年の航空写真が加わったようです。
戸山アパートが出来るより前の戸山ヶ原練兵場(の跡地)の姿です!
地割が全く異なるので、現在のものや昭和38年の航空写真と重ねてみなければ、どこがどこだか特定しにくいです。
廃墟徒然草さんが撮られた写真(このページです)に写っている入り口(西側です)にありました。今は歩道脇に植え込みがありますが、昭和30年代当時はこれが全く無く、この道路に住人が集まって街頭テレビを見ていました。その頃は道路が泥だった様な気がします。
コンクリート製の公園の門の右脇(外から見て)に高さ2mほどのコンクリート製の台座がありました。今は木が刈り込まれていますが、当時は木がかなり茂っていました。(酒鬼薔薇のおかげで、”茂みは危険”という事になって、全国の公園の木がずいぶん刈られてしまったのです)
>西戸山公園の秋祭りは縁日
ああ、これも懐かしいですね。当時はお祭りの日が大好きで、やぐらが組み始められるとドキドキしながら待っていたものです。
>百人町三丁目町会と戸山アパートの協賛
これは全然知りませんでした! 百人町の子供に、”これは百人町のお祭りなんだから他の子はダメ”と言われた事がありました。戸山アパートも協賛だったのですね。(笑)
たしか東南側の端の入り口には、ホームレスのおじさんら御用達の簡易トイレが立っていたのは覚えています…。
西戸山公園の秋祭りは縁日も出て楽しみにしていました。百人町の総鎮守である新大久保の皆中神社のお祭りで、百人町三丁目町会と戸山アパートの協賛で行われていました。
戸山アパートが新築された今も行われているのかふと気になりました…。
街頭テレビを上映(?)しなくなったのは1960年代後半ですが、テレビだけはカバーがかけられて公園入り口の台座に置いてありました。入り口の樫の木の下でしたので、ちょうど隠れ蓑になっていた様です。(台座の高さが2m以上もあったので、木が茂ると共に隠れていった感じです)1983年に訪れた事があったのですが、その頃は何とまだ置いてあって驚きました。
>いつも貴重なお話をありがとうございます。
こちらこそ、お話を聞かせて頂いてありがとうございます。戸山アパートが新築されて以来、そこを知る人の数もめっきり減りました。
>あの公園には夏休みの朝のラジオ体操に通ったものです。
>スタンプをもらうのが楽しみでした。
私も西戸山公園のスタンプをもらうのが楽しみでした。懐かしいですね。お盆以降のラスト2週間が鬼門で、朝寝坊で皆勤できませんでした。(笑)
そういうものの存在は(親戚の汽車の話以外で)地元でも全く聞いたことがなかったので、気になってきました(笑い)。
もし地図が見つかったら是非正確な場所をお教えください。
懐かしい光景のようですね。
ところで引込線ですが、
たしかにはにわじいさんのおっしゃる道もカーブを描いていますね。
もう一度ちゃんと確かめようと地図のコピーを探したのですが、
今、ちょっとみあたらず詳細がわかりませんが、
私も記憶では、高田馬場から南下する感じで、
地図上だと右へカーブしていくような線路だったと思います。
そして以前その軌道跡のような道があったような記憶があるのですが、
現在のウェブ地図とかをみると、全然ありませんね。
ただ旧国鉄アパート付近まで繋がっていたと思うので、
「昔このへんを汽車が走っていた」というお話には一致すると思います。
こちらも引込線が書かれた地図を、もう一度探してみます。
力道山の中継、というくらいだから昭和30年代かと思いますが、
カラーは驚きですね。
夏の公園では映画上映。
そういえば当時は公園で映画上映もありましたね。(懐
戸山アパートが新築されてから足を運んでいないので、今でもこの写真のすぐ後ろ側に昔のままの戸山アパートが建っているような錯覚を覚えます。
>R.H.さま
西戸山公園に街頭テレビがあった時代のお話は初めて知りました。いつも貴重なお話をありがとうございます。あの公園には夏休みの朝のラジオ体操に通ったものです。スタンプをもらうのが楽しみでした。
> 大正や昭和初期の地図を見ると、線路をはさんで西戸山タワーホームズの反対側の位置に、軍用の引込線があった
もしかして線路から少しずつ右にカーブしながら、保善高校の裏を通り、旧国鉄(JR)アパートの団地群の手前で大きく東にカーブしている道のことでしょうか?
その軌道跡(?)カーブに沿って国鉄の独身寮や高層アパートが建ってましたので、国鉄の所有地であったことは確かです。狭くて半私道っぽい、へんてこりんな道だった覚えがあります。
現在の地形でもわかるように途中の高低差がかなりあります。ガードでもあったんでしょうか?
ご指摘の引込み線が描かれた地図そのものを拝見したことがないのですが…、この書き込みを見て、カチリと蘇る記憶がありました。
まだ小さい頃、旧国鉄アパート付近を散歩していた時、親戚の者が「昔このへんを汽車が走っていた」という話をしたのです。
その当時には、近くの戸山交通公園で開園初期のみ走っていたという子供機関車か、すぐそこにあるホンモノの国鉄の話をしているのかなあ…と思ったのですが、今にして思えば、ひょっとしたらその引込み線の話だったのかもしれません。
こんど機会があれば確認してみます。
写真正面の公園入り口には、高い所に街頭テレビがありました。(カラーです!)夏の夜には、通りに人が集まって、力道山のプロレス中継を見たものです。
公園の中では、夏休みに天幕を張って、子供達の為に映画上映をしていました。”冒険ガボテン島”というアニメを覚えています。
R.H.さんのお話だと、汚水浄化槽だったようですね。
西戸山タワーホームズのエリアも随分変わりましたね。
そして戸山アパートも全部綺麗に完成し、
もう当時の面影はありませんね。
私が感じる、かろうじて当時の面影が残る場所を、
追加アップしておきましたので、ご覧になってください。
店とかは変わっているんでしょうが、
現在私が、20年前の記憶を思い出させてくれる一角です。
また大正や昭和初期の地図を見ると、
線路をはさんで西戸山タワーホームズの反対側の位置に、
軍用の引込線があったように書かれているのを見ますが、
これはご存知ですか?
今でもかろうじて道のカーブが当時の軌道をとどめていると思うんですが。
光学研究所のツタが生えた建物も威厳のあるレンガ建築でしたね。
あのあたりが空家になってしばらくも、管理人さんが目を光らせていたので、確かに大人の方がもぐりこむとやっかいなことになっていたかもしれません(笑)
ただ、昼間に野原で子供が普通に遊ぶぶんには大目に見てくれていました。
建物には鍵がかかっていてもう入れなくなっていました。
「円形の露天貯水槽のようなモノ」は私が物心付いたときには既になかったものでしたので、何かわからなかったところ、R.H.さまから正確なご回答をいただけてよかったです。
そういえば、百人町には平成まで残っていたかの有名な2つの給水塔のほかに、もう1つ、新大久保寄りにも給水塔がありました。
有名な2つのものとは少し構造が異なっていて、茶色く分厚いコンクリートの骨組み状の塔でした。
途中でリニューアルしたのでこの骨組み給水塔が存在していたのはS50年代半ばまでです。
goo地図のS38年の写真では、かなりはっきりとその姿が確認できます。
現在の航空写真と重ね合わせると、高層棟が3棟立っている西戸山タワーホームズのうち、一番南側の棟の北西の角付近に該当します。
この給水棟はかつてここにあった公務員住宅の団地群に給水していました。
航空写真は、今は失われた風景はもとより、廃墟や廃線の現役時代の姿が垣間見えてなんともいえない気持ちになりますね。
とても美味しくて、蛇口から出る水とはそういうもんだと思ってましたが、
千葉に越して、印旛沼産の水道水を飲んだ時、
あまりのまずさに愕然としました。
戸山アパートの環境って、本当に良かったんだと思います。
コメントに沢山の方々が書き込まれるのも、
そのためかと思いました。
今考えると本当にそうですね。地産地消でしょうか。
戸山アパートに住んでいた頃は判らなかったのですが、引っ越した埼玉の水は地下水ながら少々泥臭く、学校の関係で茨城へ引っ越した時の水は霞ヶ浦が水源で飲めたものではありませんでした。その後転勤で、関東の周りを転々としましたが、何処の水もまずかったです。
都会の真ん中で緑があって、虫取りが出来て、花見が出来て、水が美味しくて・・・
改めて、良い所だったんだなと思います。
>それだけ見た目には汚そうにみえなかった
戸山アパートの汚水は、年に1回程度マンホールから溢れるのですが、不思議なくらい臭くなかったです。(処理場も含めて)固形物も無く、少し濁っているだけでした。
そうですか、汚水処理施設だたんですね。
それにしても殆どは落合処理場で処理しながら、
数棟だけここで処理していたというのも、なんか謎めいていますね。
ふと思ったんですが、
戸山アパートって、井戸水供給だったと聞きます。
すると供給から処理まで、実は生活完結型アパートを目指していたんじゃないでしょうか?
エコの先取り。(勝手な想像です)
子供の頃入られたそうですが、
とするとそれだけ見た目には汚そうにみえなかった
ということだったんだと思いました。
>なにやら円形の露天貯水槽のようなモノが
はにわじいさんからの返信が無い様ですので、拙速ながら私から・・・
円形のものは、小さな汚水処理場です。穴の空いたパイプをくるくる回して、円形の砂利に汚水を散布する原始的な濾過式処理でした。直径は10mもない小さなもので、数時間おきに回っていました。
1977年に引っ越す直前にも水が出ているのを確認しました。ここの処理は、この付近の数棟のアパートのみだと思います。(正確な接続は不明です)
大部分の戸山アパートの下水は、下落合の下水処理場で行われていました。当時最新式の活性汚泥法でした。)
この小さな処理場ですが、小学生の頃、水が出るのが面白くて中に入って遊んでいました。近くの大人によく怒られたものです。知らないという事は怖いですね。(笑)
光学研究所、まさしく写真の建物です。
そうですか、これではないですか。そうでしょうね。
東側の空き地ですか。もしかすると見ていたのかもしれませんが、かなり小型の物件ですよね。
なにぶんにも、当時は建物のていを成していないとすると、あまり興味をもたなかったかもしれません。
あの辺は本当に宝の山でしたね。
行ったのは大学生のころで、光学研究所や、地震研(建設研)は空家になっていて人気を感じませんでしたが、中に潜入するのははばかられました。
もう少し若?ければ潜入していたでしょう。残念です。
光学研究所の建物が、良い印象で記憶しています。
都立衛生研の建物の印象が極めて悪かったようにおもいますが、ほとんど形を思い出せませんでしたが、
gooの空中中写真で確認できました。ありがとうございました。
すばらしい空中写真で、まるでタイムマシ-ンです。
まさにALWAYS三丁目の夕日の世界ですね!
きっと秋刀魚を焼く香りもしたんじゃないでしょうか。
昭和38年というのが、かなり貴重で、いいですね!
都内は多くの場所が昭和39年の東京オリンピックで整備されてしまうので、
いわば戦後の東京の最後の姿がこの航空写真だと思います。
ちなみに代々木公園近辺を観てみましたが、
国立競技場が建設中なので、オリンピックが近い事を物語っていると思います。
代々木公園には無数のワシントンハイツが並んでいて圧巻でした。
そうそう、戸山アパートも、給水塔もまだ綺麗ですね。
ところで昭和38年の航空写真をみると、戸山アパートの敷地の東端に、
なにやら円形の露天貯水槽のようなモノが見えますが、
これは何だったんでしょうか。
当時は本当にのんびりした時代で、団地の子供が集まって団地の空き地でキャンプをしたりしていました。派出所のお巡りさんは親切で、子供達の為に夜の見回りをしてくれたものです。
団地の玄関は開けっ放し。子供達がテレビを見に来ていました。出入り自由です。(笑)
昭和38年の23区内ほぼ全域の航空写真を見ることが出来ます。
まだ新しかった戸山アパート群の写真もかなり鮮明で感嘆しました。
yahooのはこちら。前回のものとは時代が少し異なりますが。
http://promo.map.yahoo.co.jp/s30/
こちらは、yahooプレミアム会員のみの公開のようです。
gooのもよりも解像度は低いのですが、やや古い時代の写真になっています。
あと、アナログさまコメントへの誘導ありがとうございました。
さっそくコメントさせていただきました。
以前、Yahoo!で古地図サービスをやっていましたが、
なくなってしまって、また復活するといいなと思ってました。
また始まったようなので、とても嬉しいのですが、
どこから入って行けば見られるでしょうか?
教えて頂ければと思います。
また拙blog記事の『戸山ケ原逍遥』シリーズのトップ、
『都立豊多摩病院跡』のコメント(かなり下の方)に、
アナログさんが、はにわじいさんのおっしゃる煉瓦建物に関してコメントされているので、
ご覧になって頂ければと思います。
http://blog.goo.ne.jp/ruinsdiary/e/a52255716ed342b1211442e24f43cea0
そのすぐ東側には、射撃場と思われる長い筒状の建物もありました。
現在、病院の本棟から庭や専門学校や寮になっているあたりにかけて複数の建物とテニスコートがありましたね。ご指摘の平屋や納屋もあれかな?という想像がつきます。
おばあさんの正体は不明ですね。私が子供の頃にはすでにおばあさんはいませんでしたが、見回り中の警備員のおじさんにはよく怒られました。
やがて東京教育大が移転した後は警備員もいなくなり、南側の正門付近にプレハブの建物ができてしばらく国有地管理人さんが常駐してました。
今回は無事に届いた様で、良かったです。
はにわじいさんへ
>あの広場には昭和後期まで倒壊した陸軍時代のレンガ建物の廃墟が
>そのまま残っていました。
現在の建物が建っている場所だとすると、昔ここで遊んでいました。
西から順に、
①平屋の住居(と言っても住宅用ではなく、非常に古いモルタル造りの長屋です。詰め所だったのでしょうか?)ここには、お婆さんが一人住んでいました。近くで遊んでいると、怒られました。誰だったのでしょう? 何しろ、研究所の敷地の中です。
②2階建ての納屋(レンガ造り。2階部分には、もみ殻が大量に置いてありました。内部は火事の跡があって、黒くなっていました。)
⇒これが壊れた跡かも知れません。
③テニスコート
という並びでした。非常に大量のレンガであれば、違うかも知れませんね。
航空写真の拡大具合や精密さについてはgooのほうに軍配があがりますが、同じ昭和30年代でもyahooの地図のほうがやや古いものを使っている様子です。
新築時代の戸山アパートはじめ、こちらで話題のエリアの航空写真がかなり鮮明に見られます。
自分も懐かしさのあまりしばし言葉を失いました。
是非どうぞ。
> 昭和後期まで倒壊した陸軍時代のレンガ建物の廃墟がそのまま残っていました。
これは見てみたかったと思います。
練兵場と戸山アパート、別記事でアップした豊多摩病院、
そして旧研究所付近や、早稲田寄りの感染研近辺と、
このエリアはまだまだ色々なエピソードがありそうですね。
こちらからの返信も届きましたでしょうか。
ところで戸山ヶ原の練兵場の前身が射撃場だったとは!
そぐ隣は維新後射撃練習場になるところですよね。
ということはこのエリアは、ずっと昔から、
キナ臭い地域だったんですね。
地場の継承、面白いですね。
モデルスクールにまで指定されたという西戸山小学校の校舎はせめてもう少し後の時代まで残ってほしいものです。
再開発前の百人町3、4丁目には、明らかに人工物のコンクリート片や、用途不明の金属部品が転がっていました。何も知らず子供のおもちゃにして踏んだり投げたりして遊んでいましたが、今思えば連兵場時代の建造物の名残だったのかもしれません。
旧研究所跡(現・社保中央病院)の広場にもメタセコイアが繁っていましたが、伐採されてしまいましたね。
あの広場には昭和後期まで倒壊した陸軍時代のレンガ建物の廃墟がそのまま残っていました。
完膚なきまでに崩壊しており、色も黒ずんでいたので戦時中に爆撃を受けて壊れたのだとずっと思っていました。
ところが、1947年の航空地図を見ると、この時点では該当の建物はきちんと残っているようです。
その後、どうしてあのように倒壊したのかは謎です。
航空写真では崩壊状況が見えないだけなのか、あるいは別の要因で爆破したのか…。
戸山ケ原練兵場の前身が判りました。江戸時代の百人町鉄砲隊の実弾射撃場(火縄銃・大筒!)だったそうです。
http://www.edo-hinawa.com/archives/cat_50150921.html
昔は、本当に木を大切にしていました。西戸山中学校の校章も、ケヤキの葉っぱにペンというデザインです。
その中学校の庭に植わっている校舎側の木は、メタセコイアです。セコイアは世界一高い樹木ですが、それにあやかって、子供達が高く伸びます様に、と祈って植樹されたものだそうです。
校舎の取り壊しは4月から始まりますが、メタセコイアが校舎から数メートルしか離れていないので、伐採されそうで心配です。
>その通りです! 旧43号館(西戸山中学校正門正面の道と早稲田通りの交差点です)が建てられる時に、神社とご神木(けやき)を移動したそうです。43号館の建築年が判りませんが、私が幼稚園へ通う昭和36年には建っていました。
ありがとうございました。やはりそうだったのですか。やっと長年の謎が解けました。
以前Yahooが期間限定で公開していた古地図では、西戸山小学校の裏門すぐのあたりに神社のマークが描かれていました。
上の航空写真だけでは現在位置との厳密な対比ができませんが、神社の正確な位置はそれよりもう少し東にあったということでしょうか。
現在の天祖神社の境内も通常以上に広いものではないので、元あったものも小さな神社だと思っていました。
航空写真で確認できるほど本格的な神社だったんですね。
天祖神社のあのけやきが大切に移植されたものというのも感慨深いものがあります。
では本当にその近辺だけトリミングして、
送って頂くのはどうでしょうか。
だったら、モノクロだし、
20Kくらいになるんじゃないでしょうか。
原本があるので、かなり絞り込んで頂いても、
重ねればわかると思います。
おかしいですね。
10MBまで受信できますし、800kでしたら、全然余裕な筈です。
試しにコメント欄にアップした当方のメイルアドレスをクリックし、
メイルブラウザの立ち上げでテスト送信してみましたが、
ちゃんと受信でしました。
ですので、お手数ですが、もう一度だけお送り頂けないでしょうか。
よろしくお願いいたします。
白丸を付けた所が神社と思われる所です。
気がつきませんでした(笑
お手数かけます。m(_ _)m
再送致しますので、しばらくお待ち下さい。
届かないなぁ~なんて思ってメアド見返したら、
違ってました。
@前のuは、yの打ち間違えです。
正しいのはこちらですので、再送して頂けますか
ruinsdiary@mail.goo.ne.jp
(ルインズ・ダイアリー:このblogの同じ単語なんです)
お手数をおかけしますが、よろしくお願いいたします。
※アドレスがありませんと言って戻っていないでしょうか?
ruinsdiaruという単語を@前に使う人も、いないんではないかと思いますが。
ruinsdiaru@mail.goo.ne.jp
です。
よろしくお願いいたします。
PC画面がへたってきてるですかね。
でもご説明ありがとうございます。
神社と思われる建物は標準画像を拡大すると、正方形で南北に向いているので、ここではないかと...
1947年(米軍)と1992年(日本)を比較して見つけました。1992年の方には戸山アパートがはっきり見えました。
1947年:
http://mapbrowse.gsi.go.jp/cgi-bin/airphoto/photo.cgi?index=533945&group=USA10kKT&course=M698&num=104&size=normal
1992年:
http://mapbrowse.gsi.go.jp/cgi-bin/airphoto/photo.cgi?index=533945&group=CKT9202X&course=C5&num=21&size=small
画像の位置ですが、小滝橋から山手線に向かって平行移動します。この小滝橋と山手線を結ぶ線上で小滝橋から2/3進んだポイントの少し下に、集落から少し離れてポツンとした一角が見えます。ここが神社ではないでしょうか?(残念ながら、けやきは確認できませんが...)
私には位置が正確には把握できてないので、
見つける事ができませんでしたが。。。
>移転先というのはひょっとして
>現在もセブンイレブン(沢村屋ストア)
>の裏手にある天祖神社でしょうか?
その通りです! 旧43号館(西戸山中学校正門正面の道と早稲田通りの交差点です)が建てられる時に、神社とご神木(けやき)を移動したそうです。43号館の建築年が判りませんが、私が幼稚園へ通う昭和36年には建っていました。
当時は都民に戦争中の”焼け野原”の記憶が鮮明だったらしく、樹木がとても大切に扱われていました。戦争の話もけやきの木の移動の話も、小学校の授業で聞きました。(けやきの移動の話を聞いて感動したものです。)ちなみに、都内の街路樹は戦後に植えられたもので、地方都市よりも遥かに多い事に驚きます。
それが今や、何もかも引っこ抜いて更地にしてマンションを建てる時代になってしまいました。
>練兵場の中にあったのでしょうか?
残念ながら練兵場との関係は判りませんが、何かありそうな気がします。米軍の空撮(ねこちゃんさん)で確認してみようと思います。
ヒマラヤスギよりもっと幹の細い木のようですね。
もともとはなんの林だったんでしょうか。
今回の再開発がどれくらいのタームで考えられたものかはわかりませんが、
戦後すぐに建った戸山アパートが、約60年頑張ったんで、
ここのところの再開発が終了したら、
またしばらくは同じ景色の時代なのかと思います。
そしてまた60年後くらいに、
今の新しい風景が懐かしい風景に変わっているのでしょうか。
戸山が原の真ん中(いまの西戸山小学校裏門あたりの、旧戸山アパート敷地内)に神社があったことは古い時代の地図で確認したことがあります。
神社はどうなってしまったのかなとずっと思っていたのですが、移転先というのはひょっとして現在もセブンイレブン(沢村屋ストア)の裏手にある天祖神社でしょうか?
資料に基づくものではないですが、祭神が同じなのでひょっとしてそうではないかなと勝手に推測した覚えがあります。
ヒマラヤスギは西戸山小学校の創立記念の歌にも歌われていました。子供心に戸山が原時代の原生林の名残かと思っていたのですが、アパートと同時に植林されたものなんですね。
> 給水塔と団地、…旧陸軍の研究所跡の廃墟。あとホームレスの多さ
自分は三十代ですが、zeroさんのこの一文を見て、イッキにあのあたりをうろついていた子供時代を引き戻されました。今あのあたりにすむ子供たちは我々とは全く違う感想をあの土地に持っているのでしょうね。
また、戸山アパートが建つ前には、神社があったのですか。
ということは練兵場の中にあったのでしょうか?
それとももっと以前からあって、
練兵場もその場所だけは避けていたような形だったのでしょうか。
戸山ヶ原の陸軍施設は広大な敷地に渡って、多種多様なので、
まだまだエピソードが沢山ありますね。
最初の画像の左には、神社があったそうです。戸山アパート建設によって、ご神木と一緒に近所に移転しました。(戸山アパート解体は、この時のバチが当たったのかと(笑))
勘違いでアップしてしまった光景が、
参宮橋アパート跡地と聞けば納得です。
風景の上書き。。。
そうかもしれませんね。
当時しか知らないと、ないのに違和感があり続けますが、
もうzeroさんの中では新しい戸山アパートが並び、
ホームレスがいない戸山が、戸山なんでしょうね。
それが、以前zeroさんがおっしゃってた、
記憶を根こそぎデリート&上書きする、
東京に生きる、ということなんだと思いました。
いえいえ、写真の件は気になさらずに・・・。
たしか、一番最初の戸山散策の待ち合わせ場所が、第一給水塔でしたね。無くなってしまうと、それが今では当たり前の風景となって記憶の
風景の上に、上書きされていくから不思議です。ここのところ、皆様の投稿を拝見していましたが、私と同じく西戸山中出身の方も多いようですね。今振り返ると、40代の私の西戸山中の記憶の風景といえば、給水塔と団地、北新宿地区から通学だと遠い(笑)。あと旧陸軍の研究所跡の廃墟。あとホームレスの多さでした。こういう記憶も今では遠い昔のモノになるんですね。
この時代の集合住宅の敷地には、
ヒマラヤスギが植樹されているところが結構あると思います。
R.H.さんのリクエストでアップさせて頂いた上目黒アパートにも、
ヒマラヤスギがありました。
http://blog.goo.ne.jp/ruinsdiary/e/a479727ee37f1bb74bfd973564607a7d
また原宿団地や青山北町団地
http://blog.goo.ne.jp/ruinsdiary/e/b6d2b4110bdb988efb379e8360de0ef4
にもあります。
(参考記事には写っていませんが)
確かにクリスマスツリーに見えて、いい感じの木だと思いますし、
この木が、この時代のアパートの雰囲気を決定づけているようにも思えます。
最初の画像は、私が住んでいた32号館(旧番)横の41号館だと思います。(旧棟で踊り場が開架になっていたのは41と43のみで、新棟では45~48だと思います。)
41号館から見て左前方にガソリンスタンドとセブンイレブン(沢村屋ストア)が当時のまま現存しています。
写っている大木はヒマラヤスギで、大通りに林立していて、冬に雪が降ると、水銀灯に照らされてクリスマスツリーの様でした。棟の間は緑が生い茂り、よく虫取りをしたものです。今でも、土のにおいや草のにおいを覚えています。
この辺も町並みがずいぶん変わってしまい、慣れ親しんだ交番の小さな派出所も一帯が取り壊されて、更地になっていました。