福岡県の福岡空港にほど近い、
糟屋郡志免町にある旧志免鉱業所竪坑櫓。
コンクリートのロボットの様なルックスとともに、
激動の20世紀を今に伝える炭鉱の巨大竪坑櫓を、
シリーズでお送りします。
最終回は屋上とかその他の施設です。
志免炭鉱竪坑櫓/8階 画像はクリックすると拡大します
前回の記事の最期にアップした、
最上階のメインプーリー室の北東側半分です。
実はメインプーリーをもう一基設置する予定もあった、と聞きました。
また画像床の奥の壁寄りの穴は光が射し込んで少し大きそうですが、
資材等はおもにここから搬入していたようです。
志免炭鉱竪坑櫓/8階
右寄りに階段がみえますが、
これが8階から屋上へ通じる階段です。
8階までは建物の南側に階段が位置していましたが、
8から屋上への階段は、北側に位置することになります。
しつこいようですが、もう一度櫓の北東面です。
志免炭鉱竪坑櫓/北東面
前面の右上寄りに出っ張りがあり、
窓から斜めのコンクリートが所々みえますが、
これが屋上へ通じる階段です。
下層階よりさらに狭く手摺もない階段なので、
この窓から見える部分を通過する時は、
足を滑らせると真っ逆さまです。
志免炭鉱竪坑櫓/屋上ペントハウスと避雷針
やっと屋上へ到着です。
遠くから見てもその存在が分かり、
櫓にいいアクセントをつけている避雷針は、
目の前で見ると、かなり大きなものでした。
志免炭鉱竪坑櫓/ボタ山
屋上からは西原ボタ山が見えます。
ボタとは石炭を産出した時にでた残土や残石を積み上げたもので、
画像では2山に見えますが、実際には4山あるそうです。
志免炭鉱竪坑櫓/屋上からの眺望
屋上には、コンクリ製の低い手摺しかなく、
あっさりと階下を眺める事ができますが、
これもまたちょっとバランスを崩すと真っ逆さまです。
志免炭鉱竪坑櫓/第八連卸斜坑口
竪坑の近くには斜坑口も残っています。
竪坑が垂直に地中へ降りて行くエレベーターの様な構造だとすると、
斜坑は斜めに掘り進んだ穴を、レールに乗ったトロッコが移動する、
いわば地底登山電車のようなものです。
志免炭鉱には沢山の斜坑があったようですが、
現存するのはこの第八(一説には第六)坑連卸坑口だけです。
「連卸(つれおろし)」というのは、
主に石炭・ボタの搬出や資材の搬入に使われる斜坑のことで、
隣接して、作業員の揚げ下げを行なう、
「本卸(ほんおろし)」があるのが一般的です。
また本卸、連卸以外にも坑内の換気用の斜坑など、
必要にあわせて様々な斜坑がありました。
ちなみにこの斜坑の近くには、近年まで、
換気用の第八扇風機坑口もありましたが、
道路造成のために、平成12年(2000)に解体されてしまいました。
土地の少ない東京ならいざしらず、
志免炭鉱の櫓まわりの土地は、
道路を少し迂回させる事など十分可能と思われるくらい、
かなり広々としている様に見えますが、
あえて解体してしまった理由はわかりません。
先人の素晴らしい技術に、実際に触れられる施設だったと思いますが、
とても残念です。
志免炭鉱竪坑櫓/第八連卸斜坑
斜坑口は鉄のレールで完全に塞がれていますが、
隙間からは内部の様子を見ることができます。
だいぶ暗い坑内ですが、暫く進むと、
竪坑の坑口と同様、塞がっているようです。
竪坑は炭鉱施設の中でも最もコストがかかる部分にもかかわらず、
使わなくなった坑道はすぐに水没させ、口を塞いでしまいますが
これは国内の石炭の質に関係しているようです。
国内の石炭が出来たのは主に、
恐竜絶滅後の新生代古第三紀(約6,500万年~3,000万年前)と言われていますが、
これは極めてガスが発生しやすい炭質のために、
採掘が終わった坑道はすぐに水没させてしまうようです。
一度水没させた坑道は二度と使えません。
それに対してドイツやイギリス等の石炭は主に、
爬虫類が出現した古生代石炭紀(約3億6,000万~3億年前)に出来た石炭なので、
ガスが発生せず、使わなくなった坑道も簡易閉鎖にとどまり、
採掘再開の時は、容易に同じ坑道で再採掘ができるようです。
志免炭鉱竪坑櫓の夕暮れ
明治22年(1889)、海軍によって採掘が始まり、
多くの坑道を造って石炭を掘り出しては軍艦に燃料を補給し、
敗戦間近には最新式の巨大竪坑まで完成させ、
戦後は鉄道輸送の燃料に役割を変えて活躍するも、
時代の流れに従って昭和39年(1964)、
その75年の歴史に幕を下ろします。
閉山後は、
石炭鉱業合理化事業団(後に新エネルギー総合開発機構→NEDO)が管理してました。
当初志免町は、NEDOに櫓を解体してもらい、
土地だけの無償譲渡を考えていたものの、
折り合いがつかず、結局解体が長引く結果になり、
その間に解体のニュースを聞きつけ、全国から保存の声が上がったことで、
2006年4月、NEDOから櫓付きで志免町へ無償譲渡され、
何も手をつけない「見守り保存」という、
軍艦島と同じ様な保存方法へ方向転換しました。
その後2007年には国の有形登録文化財に、
さらに2009年末、重要文化財に指定され、
おしもおされもしない保存産業遺産になったわけですが、
先日解体の始まった佐賀県の川南造船所をはじめ。
多くの産業遺産は今でも解体され続けています。
そしてそのたびに、
解体したら最期、なんで保存しないのか?と疑問を持ちますが、
思えば、私たちは近代化産業遺産が実際に稼働していた時代を知りません。
それらのもつ戦争体験や労働争議等の負の側面の記憶がないから、
手放しに保存して欲しいと思えるのかもしれません。
ふと自分の身に置き換えて考えると、
自分や家族が多大な犠牲を強いられた産業構造物が、
とても価値のあるものだから残す、と聞いたとき、
果たして手放しで良かったと思えるかは、
疑問に思います。
志免炭鉱竪坑櫓の夕暮れ
櫓内部の見学は、
軍艦島を世界遺産にする会の坂本理事長のご紹介で、
志免町議会議員で志免立坑櫓を活かす住民の会・会長の
古庄信一郎様にご案内頂きました。
たいへんありがとうございました。
★ ワンダーJAPAN _ vol. 11★
志免炭鉱竪坑櫓内部レポート 地上50mの《異空間》
オープロジェクトによる志免炭鉱竪坑櫓のリポート。
このブログに掲載中の画像以外の画像を含め、
オープロ全員の画像と詳しい解説を掲載。
★ オープロジェクト DVD ★
『鉄道廃線浪漫 ~風の声・時の音~』
国鉄専用の炭鉱だったことから、
鉄道廃墟としてのアプローチで、
志免炭鉱のパートを収録。
糟屋郡志免町にある旧志免鉱業所竪坑櫓。
コンクリートのロボットの様なルックスとともに、
激動の20世紀を今に伝える炭鉱の巨大竪坑櫓を、
シリーズでお送りします。
最終回は屋上とかその他の施設です。
志免炭鉱竪坑櫓/8階 画像はクリックすると拡大します
前回の記事の最期にアップした、
最上階のメインプーリー室の北東側半分です。
実はメインプーリーをもう一基設置する予定もあった、と聞きました。
また画像床の奥の壁寄りの穴は光が射し込んで少し大きそうですが、
資材等はおもにここから搬入していたようです。
志免炭鉱竪坑櫓/8階
右寄りに階段がみえますが、
これが8階から屋上へ通じる階段です。
8階までは建物の南側に階段が位置していましたが、
8から屋上への階段は、北側に位置することになります。
しつこいようですが、もう一度櫓の北東面です。
志免炭鉱竪坑櫓/北東面
前面の右上寄りに出っ張りがあり、
窓から斜めのコンクリートが所々みえますが、
これが屋上へ通じる階段です。
下層階よりさらに狭く手摺もない階段なので、
この窓から見える部分を通過する時は、
足を滑らせると真っ逆さまです。
志免炭鉱竪坑櫓/屋上ペントハウスと避雷針
やっと屋上へ到着です。
遠くから見てもその存在が分かり、
櫓にいいアクセントをつけている避雷針は、
目の前で見ると、かなり大きなものでした。
志免炭鉱竪坑櫓/ボタ山
屋上からは西原ボタ山が見えます。
ボタとは石炭を産出した時にでた残土や残石を積み上げたもので、
画像では2山に見えますが、実際には4山あるそうです。
志免炭鉱竪坑櫓/屋上からの眺望
屋上には、コンクリ製の低い手摺しかなく、
あっさりと階下を眺める事ができますが、
これもまたちょっとバランスを崩すと真っ逆さまです。
志免炭鉱竪坑櫓/第八連卸斜坑口
竪坑の近くには斜坑口も残っています。
竪坑が垂直に地中へ降りて行くエレベーターの様な構造だとすると、
斜坑は斜めに掘り進んだ穴を、レールに乗ったトロッコが移動する、
いわば地底登山電車のようなものです。
志免炭鉱には沢山の斜坑があったようですが、
現存するのはこの第八(一説には第六)坑連卸坑口だけです。
「連卸(つれおろし)」というのは、
主に石炭・ボタの搬出や資材の搬入に使われる斜坑のことで、
隣接して、作業員の揚げ下げを行なう、
「本卸(ほんおろし)」があるのが一般的です。
また本卸、連卸以外にも坑内の換気用の斜坑など、
必要にあわせて様々な斜坑がありました。
ちなみにこの斜坑の近くには、近年まで、
換気用の第八扇風機坑口もありましたが、
道路造成のために、平成12年(2000)に解体されてしまいました。
土地の少ない東京ならいざしらず、
志免炭鉱の櫓まわりの土地は、
道路を少し迂回させる事など十分可能と思われるくらい、
かなり広々としている様に見えますが、
あえて解体してしまった理由はわかりません。
先人の素晴らしい技術に、実際に触れられる施設だったと思いますが、
とても残念です。
志免炭鉱竪坑櫓/第八連卸斜坑
斜坑口は鉄のレールで完全に塞がれていますが、
隙間からは内部の様子を見ることができます。
だいぶ暗い坑内ですが、暫く進むと、
竪坑の坑口と同様、塞がっているようです。
竪坑は炭鉱施設の中でも最もコストがかかる部分にもかかわらず、
使わなくなった坑道はすぐに水没させ、口を塞いでしまいますが
これは国内の石炭の質に関係しているようです。
国内の石炭が出来たのは主に、
恐竜絶滅後の新生代古第三紀(約6,500万年~3,000万年前)と言われていますが、
これは極めてガスが発生しやすい炭質のために、
採掘が終わった坑道はすぐに水没させてしまうようです。
一度水没させた坑道は二度と使えません。
それに対してドイツやイギリス等の石炭は主に、
爬虫類が出現した古生代石炭紀(約3億6,000万~3億年前)に出来た石炭なので、
ガスが発生せず、使わなくなった坑道も簡易閉鎖にとどまり、
採掘再開の時は、容易に同じ坑道で再採掘ができるようです。
志免炭鉱竪坑櫓の夕暮れ
明治22年(1889)、海軍によって採掘が始まり、
多くの坑道を造って石炭を掘り出しては軍艦に燃料を補給し、
敗戦間近には最新式の巨大竪坑まで完成させ、
戦後は鉄道輸送の燃料に役割を変えて活躍するも、
時代の流れに従って昭和39年(1964)、
その75年の歴史に幕を下ろします。
閉山後は、
石炭鉱業合理化事業団(後に新エネルギー総合開発機構→NEDO)が管理してました。
当初志免町は、NEDOに櫓を解体してもらい、
土地だけの無償譲渡を考えていたものの、
折り合いがつかず、結局解体が長引く結果になり、
その間に解体のニュースを聞きつけ、全国から保存の声が上がったことで、
2006年4月、NEDOから櫓付きで志免町へ無償譲渡され、
何も手をつけない「見守り保存」という、
軍艦島と同じ様な保存方法へ方向転換しました。
その後2007年には国の有形登録文化財に、
さらに2009年末、重要文化財に指定され、
おしもおされもしない保存産業遺産になったわけですが、
先日解体の始まった佐賀県の川南造船所をはじめ。
多くの産業遺産は今でも解体され続けています。
そしてそのたびに、
解体したら最期、なんで保存しないのか?と疑問を持ちますが、
思えば、私たちは近代化産業遺産が実際に稼働していた時代を知りません。
それらのもつ戦争体験や労働争議等の負の側面の記憶がないから、
手放しに保存して欲しいと思えるのかもしれません。
ふと自分の身に置き換えて考えると、
自分や家族が多大な犠牲を強いられた産業構造物が、
とても価値のあるものだから残す、と聞いたとき、
果たして手放しで良かったと思えるかは、
疑問に思います。
志免炭鉱竪坑櫓の夕暮れ
櫓内部の見学は、
軍艦島を世界遺産にする会の坂本理事長のご紹介で、
志免町議会議員で志免立坑櫓を活かす住民の会・会長の
古庄信一郎様にご案内頂きました。
たいへんありがとうございました。
★ ワンダーJAPAN _ vol. 11★
志免炭鉱竪坑櫓内部レポート 地上50mの《異空間》
オープロジェクトによる志免炭鉱竪坑櫓のリポート。
このブログに掲載中の画像以外の画像を含め、
オープロ全員の画像と詳しい解説を掲載。
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『鉄道廃線浪漫 ~風の声・時の音~』
国鉄専用の炭鉱だったことから、
鉄道廃墟としてのアプローチで、
志免炭鉱のパートを収録。
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