読書

2009-02-15 00:39:12 | 日々思うこと
今年に入って なんだか去年の自分とずいぶん違う私になっている
なんだか 立ち止まっている感じがする・・・
体が動かないと言うほどでもないのだけれど
なぜか 心が立ち止まっている感じがしている

立ち止まりながら 本を読んだりしている
昔読んだ大好きな本たちを もう一回取り出している

30年もたってしまえば 私の感性もずいぶんと変化した
変化はしたけれど やはり大好きな本に
電車の中でだって 思わず涙してしまえる自分にほっとしたりもする

変化したこと
それは 主人公と私の関係だろうか
おそらくはどちらの主人公も 私にとっては未知の心の領域を持っていた
まぶしいような 入り込めないかたくなさがあるような存在だった
でも 50年もだらだらとでも存えてくると
彼らのその心を前よりは愛情を以って読み取ることができる
いとおしむような気持ちさえなる
未知の領域はいまだ いやこの後もあるのだろうが
なぜかすぐ隣にいるような感じがしているのだ
その感じが 今の自分にはとても居心地がいい

隣にいるような気がしているからといって
彼らの 言い換えれば作家の意図をすべて理解しているわけではない
それは当然のことなんだけれど・・・・・

それにしても三島の世界は完璧すぎるほど完璧だ・・悲しいほど完璧だ 
「私」が金閣寺を炎上させようと決心していく行(くだり)は
全く 私の目に映るものを描写しているだけなのだけれど
どこからわいてくるのかわからない説得力を感じる
他の部分では 過度な(それでも完璧な)麗句が並んでいるから
余計にその部分の簡素な表現に力があるのだろう
そして三島の文章の美しさは どの部分をとっても私の心に
作者の自意識のメタファとして飛び込んでくるのだ
それに比べて井上の文章はさらりとしていて軽やかなリズムがある
三島を読んだあとすぐには ちょっと物足りなさがあったけれど
読み進めていくうちに 前へ前へと加速していく感じが心地よくなった
そして その加速の中で道程の目印のような美文を見つける時に
どきどきするような気持ちを味わいながら
あらすじを追い求めていったのだった

二つは全く違うタイプの小説だけれども
金閣寺と氷壁と 表題にあげたものが
生きること(言い換えれば死)の象徴であると
私は勝手に共通点を見出した

三島は観念の中でこねくり回したいだけこねくり回して
井上は登山という行為を通して
「生きることとどう向き合うか」を描いたのだと思った

山登りをちょっとかじっているせいか
氷壁には 今までと違うものを読み取ったかもしれない
登山道中の表現とかが 少しは臨場感を持って感じられたし
何よりモデルとなった 松濤 明 に少なからざる興味を感じる

さっそく「風雪のビバーク」をアマゾンで求めた・・・

最新の画像もっと見る

コメントを投稿