友人とのメールのやりとりで、「結婚しても苗字を変えたくない」というくだりがあった。
激しく同意。
私の苗字は日本に溢れている他愛のないもの。
しかし、今までの苗字から旦那の苗字になることに激しく抵抗があるんである。
常々、氏名は私のアイデンティティそのもの、という意識を持って生活している。
たかが一枚の契約書で苗字を剥奪される覚えなどない。
中学時代の公民では「家族が一体感を持つように」と、この制度の主旨を学習したが、苗字が同じじゃないと一体感を持てない家族なんて最初から持たなければ良いのに、と感じた。
同じ苗字だからといって愛が永遠に続くなど、誰が保証できるのだろうか。
アウシュビッツではユダヤ人から名前を奪い、番号を与え、各々の腕や頭皮にその番号を刺青したらしい。
氏名を奪うことで各々の人格を奪い、抗う思考を衰えさせ、強制労働に従事させるというナチス側の企みだった。
私にとって苗字を略奪されて、旦那の苗字を与えられるのはアウシュビッツでの悪事並の人権侵害である。
結婚後、父の苗字を名乗っている母に「抵抗は無かったのか」と質問した。
すると、「当時は当たり前だったからねぇ」とののほほんとした回答が返ってきた。
世の中の情勢によって、「当たり前」ってのは変化するもんだと改めて感じた。
他の人がどうであれ、いまだに残る古臭い「当たり前」理念によって強制的に殿方側の苗字を与えられることは、私にとっては耐えがたいことなんである。
そんなことを強制されたら、いくら大好きな殿方でも私にはヒトラーに見えてしまう。
私は私。生まれたときから私なんである。
誰からも触られたくない領域を持っている。
それは氏名だったり自由だったり。
会社では賃金をもらっているので明らかな自己主張は避けているのであるが、
金銭の遣り取りが発生しないプライベートな場に於いて、私は自分に嘘が吐けない。
常識やモラルを打ち破ってでも…。
でも他人に迷惑はかけないようにする。
自由を守ることは、全ての面で自己責任のリスクを背負うことの引き換えだから。
…っていうか、将来独り身の私が吠えるのも無意味な話なんだが。
激しく同意。
私の苗字は日本に溢れている他愛のないもの。
しかし、今までの苗字から旦那の苗字になることに激しく抵抗があるんである。
常々、氏名は私のアイデンティティそのもの、という意識を持って生活している。
たかが一枚の契約書で苗字を剥奪される覚えなどない。
中学時代の公民では「家族が一体感を持つように」と、この制度の主旨を学習したが、苗字が同じじゃないと一体感を持てない家族なんて最初から持たなければ良いのに、と感じた。
同じ苗字だからといって愛が永遠に続くなど、誰が保証できるのだろうか。
アウシュビッツではユダヤ人から名前を奪い、番号を与え、各々の腕や頭皮にその番号を刺青したらしい。
氏名を奪うことで各々の人格を奪い、抗う思考を衰えさせ、強制労働に従事させるというナチス側の企みだった。
私にとって苗字を略奪されて、旦那の苗字を与えられるのはアウシュビッツでの悪事並の人権侵害である。
結婚後、父の苗字を名乗っている母に「抵抗は無かったのか」と質問した。
すると、「当時は当たり前だったからねぇ」とののほほんとした回答が返ってきた。
世の中の情勢によって、「当たり前」ってのは変化するもんだと改めて感じた。
他の人がどうであれ、いまだに残る古臭い「当たり前」理念によって強制的に殿方側の苗字を与えられることは、私にとっては耐えがたいことなんである。
そんなことを強制されたら、いくら大好きな殿方でも私にはヒトラーに見えてしまう。
私は私。生まれたときから私なんである。
誰からも触られたくない領域を持っている。
それは氏名だったり自由だったり。
会社では賃金をもらっているので明らかな自己主張は避けているのであるが、
金銭の遣り取りが発生しないプライベートな場に於いて、私は自分に嘘が吐けない。
常識やモラルを打ち破ってでも…。
でも他人に迷惑はかけないようにする。
自由を守ることは、全ての面で自己責任のリスクを背負うことの引き換えだから。
…っていうか、将来独り身の私が吠えるのも無意味な話なんだが。