世界の中心で吉熊が叫ぶ

体長15センチの「吉熊くん」と同居する独身OLの日常生活

自己犠牲とウニの受精

2005年08月23日 22時37分02秒 | Weblog
身近な人の懐妊を何度か見てきた。

その度に私は不思議に思う。
不思議がる私のお腹にもその様な設備が備わっているらしい。
そのことも不思議。

人間が人間を産む。
人間の中に人間がいる。

そんな事実よりも、私は理科の資料集で見た「ウニの受精のようす(ウニと人の受精は似ているらしい)」の方にリアリティを覚える。

人間を腹に宿し、産んで育てる。
私がその当事者になることは、杉田かおる的に言うと「(フィリピンで)日本兵士が見付かるぐらい有り得ない」んである。

有り得ない…というよりも想像できない。

母性というものが女子に備わった当然の本能だとしたら、
紛れもなく私は規格外だろう。

自分のことしか考えたくない、
自分の思う通りにしたい、
自分を考えている時が一番幸せを感じる

…そんな自分が一番好き。


自分以外の子供という存在に無償の愛を捧げるなんて当然別の世界の絵空事。
私には関係のないことなんである。

この間まで笑いあった知人が、急にその「別の世界」に行ってしまった。
これは私にとっては衝撃的なことである。

知人の腹の中に人がいる!という驚きや、
知人は人を作った人なんだ!という幼稚な驚きも加わり、
私は混乱する。

最大の混乱の源は「知人はどうして自己犠牲を進んでするのか?」ということである。
私だけの物差しで他人の幸せは計れやしない。
知人は知人の価値観で良いと思って子供を腹に宿したのだろう。

しかし、「自己犠牲」と引き替えに手に入れる「幸せ」というものが、
私には全く理解できないのである。

身体に起きる女子特有の事象に無意味さを感じ、お金と時間があればその臓器を撤去したいと考える女子。
受精というシステムを学ぶ前、「電子を浴びると赤ん坊ができにくくなる」という噂を聞き、ワンピースの裾を捲りレンジに腹を当て「赤ちゃんができませんように」と唱えながらチンしていた女子。
それが私なんである。

「愛する人ができたらきっと産みたくなるよ。」と、人は言う。
しかし、27年生きてきて「子供が欲しい」と思った時間は1秒もない。
そんな規格外の自分をこの先愛してくれる規格外の殿方なんているのだろうか。
私は自分以外の他人を愛せるのだろうか。
そして苦手な「自己犠牲」という行為を選択できるのか。
…きっと、無理だろう。私が私である限り。


全世界のウニにはこの先、こんな考えを持ってもらっては困る。
ウニにはたくさん子孫繁栄してもらわないと私の口に入りづらくなるから。
…って、やっぱり自分大好きな私…。