徒然草 第五十七段
人の語り出でたる歌物語の、歌のわろきこそ、本意なけれ。少しその道知らん人は、いみじと思ひては語らじ。すべて、いとも知らぬ道の物語したる、かたはらいたく、聞きにくし。
中途半端な知識や経験で、あれこれウンチクをたれるのはウザイだよなあ……。
これを、兼好のオッチャンは、自分の専門の和歌に例えて言っています。
「歌詠みは下手こそよけれ天地(あめつち)の動きいだしてたまるものかは」
宿屋飯盛の狂歌を思い出します。
これは古今和歌集の序、「力をもいれずして天地を動かし…」をもじったものであると言われています。
この狂歌は、宿屋飯盛の意図を超え、中途半端を超えて専門家さえ疑ってかかれ。と言う風に聞こえます。
子どもの頃、社会主義や共産主義の国が世界の半分あって、なかなか捨てたもんじゃない。と教えられました。唯物論の初歩を教えられ、遠回しではあるが、マルクス・レーニンの考えと、それを理念として、当時現実に存在していた国々は正しいとも教えられました。
しかし前世紀末にそういう国々は地上から姿を消しました。子どもの頃、朝日新聞の天声人語で入江徳郎氏がアジア某国に行き、その国を礼賛したものを読んだことを思いだします。
――ホテルから見える街は清潔で、労働者たちが隊列を組んで合唱しながら整然と職場から帰る姿に、この国のすばらしさを感じた。そういう内容でした。
中国の文化大革命を頼もしく思っていた時期がありました。
高三のとき『誰も書かなかったソ連』という本を読みました。あまりに習ったこととかけ離れたことが書かれていたので、先生に聞いてみました。
「アメリカはもっと矛盾に満ちた国だ」と答えられました。
その『誰も書かなかったソ連』の姿が現実であることは、ソ連が崩壊してから知ったし、もっと矛盾に満ちたアメリカが健在であることで、わたしは先生や著名人の言うことを鵜呑みにはしないニイチャンになりました。
わたしは、高校二年を二回やりました。つまり落第なのですが、専門用語では原級留置と警察のお世話になるような言い方をします、高校生のスラングではダブリと申します。
わたしは落ちた時に先生達から、こう言われました。
「オマエが落ちるとは思わんかった……」余韻の部分には軽蔑と非難のニュアンスがありました。
わたしは、いわゆる品行方正な生徒で、留年が決定する、ほんの二週間前には在校生代表として、卒業式で送辞を読んでおりました。
「前代未聞だ!」と東京帝大卒の先生ななじられました。
「送辞を読んだ在校生代表が原級留置になるなんて、聞いたことがない」と続きます。
純真だったわたしは自分を責めました。しかし現場の先生になって気づきました。
留年する生徒には、成績面はもちろんのこと、出欠状況にも前兆があります。わたしは留年した年二十日ほどの欠席がありました。当時の生徒の出欠管理などいいかげんなもので、現実には三十日は欠席しています。わたし が教師になったときは、成績、出欠ともに担任、教科担当は厳格に掌握していて、一学期末から本人への指導はもちろんなこと、保護者への連絡と連携指導は当たり前のことでした。
「オマエが落ちるとは思わんかった……」は、教師と学校の怠慢でしかありません。今こんな言葉を留年決定時にい言えば、学校は指導の責任を問われます。
目出度く三年に進級したとき驚きました。学年の落第生が三人同じクラスになっていました。落第など学年に一人いるかいないかの学校だったので、落第三人組は喜びました。
「わあ、大橋君と○○君もいっしょや!」
落第女子がそう言って笑いました。無邪気なものです。
学年の他の担任の先生も「卒業できるようにがんばれ!」と、励ましてくださいました。
現職になって分かったことですが、留年などの問題を抱えた生徒は、どの担任も持ちたがりません。で、キャリアや分掌の仕事などを考え、話し合って、そういう生徒は分担して受け持つのが普通です。
わたしたち落第三人組を引き受けたのは、カバさんでした。
むろんあだ名です。
お顔と動きの緩慢さから付いたあだ名で、学年主任の先生であられました。担任会で引き受けてのない三人組を主任の責任で、お引き受けになったのであろうと思います。いわゆる貧乏くじ。
「がんばれよ!」と励ましてくれた他の先生たちは、留年生の受け持ちにはなりたくなかったのだと思います。学校とは社会の縮図、それも一時代遅れの縮図です。わたしが高校で教わった教養は美術の他は、ただ一つ。
「反面教師」の四文字でありました。
どうもいけません、かたはらいたくから脱線して終わってしまいます。