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今日も奈菜さんはいなかった。
中村さんの部屋で待たせてもらおうかと思って、中村さんの部屋のドアをあけると「空室」と張り紙があった。
仕方ない、今日は諦めよう。
そう思っていると隣の部屋から声がした。
女同士の話声で、なんだかやりこめられているほうが奈菜さんの声のような気がした。
これは助け船を出した方がいいと思って、加藤たか子と書かれたドアをノックした。
トントン
だれ!?
若干のやり取りがあったあと、加藤さんは話し相手が多い方が楽しいと判断したらしく、ボクを招じ入れ、自分と奈菜さんの間に座らせた。話の内容から、加藤さんは、某都立高校の先生であると分かった。
「……と言うわけで、今日はストなのよ」
なんで、学校の先生が平日に病気でもないのに出勤していないのかと、それとなく聞いたら。中教審答申に反対し、おまけになんだか忘れた理由で、都立高校のほとんどでストをうっているらしい。それを知らずに奈菜さんが「あら、加藤先生、今日は学校お休みですか?」と声を掛けたのが発端らしい。
話題……というか演説の内容は中教審から女性の自立というところに話が移っているようだ。
「奈菜さんみたいに管理人やってるのは悪いとは思わないけど、若いんだから、もっと社会に出てからでもいいと思うの。アパートなんて住人で自治会こさえて自主運営。管理人さんは、家賃に見合ったアパートの管理さえしていればいいのよ。伯母さんの後釜に収まるのは、奈菜さん、若すぎる」
「そりゃ、職業婦人も悪くはないと思うんですけど……」
奈菜さんは、軽くいなそうと思った。
「その婦人という意識と言葉がいけません。分かるわよね、キミ?」
「え、ああ、婦人の婦のツクリがまずいって考え方ですよね」
ボクも現役のころに、組合の女の先生から聞かされていたので頭に染みついていた。
「そうよ、あれは女偏に帚(ほうき)と書いて、女が家庭で非人間的に縛られていたときの、女性蔑視のシンボル。看護婦、婦人警官、みんな廃止すべし!」
ボクは、このことについてかねがね思っていた疑問や不満をぶちまけてみたい衝動にかられた。
「加藤先生の説は間違っています」
正面から切り込んだ。
「どこが間違いなのよ。女と帚をくっつけて、それを女の代名詞に使うなんて、封建制度まる出しじゃないの!?」
「いわゆるホウキは、女偏に竹冠のない『帚』ですが、これは、いわゆるホウキではなくて、古代中国で巫女が神事に使う宝器であるものの名前が由来になっています。箒と似てるんで混同されただけです。第一「婦」の字を無くしたら青鞜社のころから連綿と続いてきた『婦人解放運動』の言葉が使えなくなります。大東亜戦争をアメリカにむりやり太平洋戦争と言わされたようなもんです」
「え、日本人が呼び換えたもんじゃないの?」
「米語の『パシフィック ウォー』を和訳したものをGHQが強制したものです。もし、戦時中の日本人に『太平洋戦争』と言っても通じません。それに、太平洋戦争って言ったら、その前から起こっていた中国との戦争がすっぽり抜け落ちてしまいます」
「そ、そうなの?」
「『婦』にもどりますけど、看護婦、婦人警官を無くしたら、日本語が貧弱になります」
「どうしてよ!?」
加藤先生は、一歩踏み出してきた。
「看護婦は言葉だけで性別が分かります。かりに性別のない『看護師』というような言葉を作ったら、いちいち「女性看護師」てな具合になって、言葉のリズムを崩してしまいます」
「リズムくらいなんだってのよ。女性の地位向上の方が、よっぽど大切だわよ!」
「じゃ、お手伝いさんはどうなんですか? 地位が向上しましたか? BGをOLって呼び換えたけど、やってることは、やっぱ腰掛のお茶くみじゃないですか」
「そんないっぺんに変わりはしないわよ。まず、象徴である言葉から変える。それから中身よ」
「じゃ、先生という言葉はどうなんです。戦前の呼び方そのものじゃないですか。公的な呼称の教育職公務員では長すぎますし。それに……」
ボクたちの激論は二時間続いた。奈菜さんは、いつの間にかいなくなっていた。
「ごめん、あの先生、どうにも苦手でね」
管理人室で改めて奈菜さんから、お茶をもらった。どこかで飲んだお茶だと思ったら、中村さんが残していったお茶だそうだ。
その後分かったことだけど、加藤先生は期限付き常勤講師で、その後勤務校が替わったので、メゾンナナソを出て行った。
またひとつ空室が増えた。