乙女と栞と小姫山・22
乙女先生の最初の授業は一年生だ。
生徒が全員教室に居て、指示もしないのに日直とおぼしき生徒が「起立! 礼! 着席!」と号令をかけ、みんなが一糸乱れずやったことにカルチャーショックを受けた。
しかし、よく見ると、多くの生徒が、不安で落ち着かない気持ちを抑え込んでいる感じがする。先日来の学校の混乱を、一年生なりに敏感に感じているのだろう。 乙女先生は、サラサラと黒板に図を書いた。
> A <
< B >
「AとBのカッコで括られた空間、パッと見い、どっちが広いと思う。ハイ、どっち!?」
生徒に手をあげさせると、Aが広いとするものが圧倒的に多かった。
「ほんなら、日直。ここに来て、このメジャーで測ってごらん」
日直の男子は、赤い顔をして計りに来た。
「……え……?」 「5ミリ以下は誤差と考えてね」 「どっちも同じです……1メートル」
生徒達から「ええ……!?」という声が上がった。
「あんたらは、<とか>いう記号のせいで騙されてるんです。<をどっちむけに付けるかで、見え方が全然違う」
「ああ……」という納得した声が上がった。
中にはノートに図を書き、自分で確認する生徒もいた。
「ええか、勉強いうのは、こういうことや。世の中のことは、たいがい<が付いてる。むつかしい言葉でバイヤスという。このバイヤスを見抜く力を、あんたらはこの三年間で勉強するんや」
それから、乙女先生は、サラサラと世界地図をフリーハンドで描いた。「おお~!」というどよめきが起こった。
これは、生徒達が、これが世界地図だと分かり、それをフリーハンドで描いた事への素直な驚きであった。
前任校の生徒は驚かなかった。世界地図であることが分からなかったからである。
「あんたらは、世界地図と分かったから驚けてる。この半島はなんていう?」 「はい、C半島です」 「このC半島の国では、日本の評判がチョト悪い」
すると、あちこちで、C半島のことを噂する声が上がった。
「うん、あんたらの気持ちも、よう分かる。悪口言われて喜ぶアホはおらんもんなあ。せやけどな、このC半島にある国は、過去一回だけの例外を除いて植民地になったことがない、世界で一つだけの半島国家や」 「へえ……」 静かに感心した声が湧いてきた。
「いま、ここにある国は、反日であることで、民族やら国家の統一やら団結を維持しよとしてる。そない分かると、ちょっと反日の聞こえ方が変わってくる」
「ああ……」
「簡単に納得すんなよ。たとえ、そんな理由があったとしても、ちゃうことはちゃうと言わならあかん。ただ、どういうとこにバイヤスがかかってそないなるんかという理解は必要言うこっちゃ」
「な~る……」
生徒は、完全に乙女先生のペースに巻き込まれた。
「大阪は、150年ほど前までは、日本一の街やった。東京ができてから値打ちが下がった。特に教育において、その傾向が強いと言われてる。それで、『特色ある学校づくり』とか『人間力のある教育』やら言い始めてる。で、君らは気の毒に、その真っ最中に、この小姫山青春高校に入学した。今、大阪の高校はバイヤスがかかってる。君らは、そのバイヤスを見つけ、また、逆に利用して勉強したらええ。バイヤスこそが勉強の活力になる!」
「「「「「「「ハイ!」」」」」」」
生徒達は、乙女先生のロジックにひっかかり、入ったばかりの学校の混乱、自分たちの不安さえ、前進する力に変えてしまった!
始業の時は、チャランポラ~ン チャランポラ~ンと聞こえていたチャイムも、しっかりキンコンカンと聞こえて授業は終わった。
「すみません、佐藤先生」
かわいい女子生徒が寄ってきた。
「なに?」 「これ、演劇部の入部届です。先生顧問やから、受け取ってください」 「え、ウチ、演劇部の顧問?」 「ほら、そないなってますよ」
乙女先生は、自分はバレー部の副顧問だと思っていたが……たしかにオリエンテーションのパンフには、乙女先生が演劇部の主顧問になっていた。こういう事には頓着しない性格なので、あっさりと受け取った。
「先生の授業、とても分かり易いです。ほんならよろしくお願いします!」
ペコンとお辞儀して、女生徒は行ってしまった。
あらためて見ると、墨痕鮮やかに「石長さくや」と書かれていた……。