中山競馬場は有名だが、白井には競馬学校があって、有名騎手達はここから巣立って行った。このあたりは、どうも馬と関わりがありそうだ。福島県の「相馬の野馬追い」は有名だが、平安時代の「相馬の御厨」は下総の国辺りが中心で、現在の利根川より江戸寄り、つまり、手賀沼辺りまでがその範囲であったらしい。 手賀沼周辺には、相馬はもちろん、あの平將門の乱に出てくる地名は大体あり、將門神社もあって、伝説にはこと欠かない。そのことに関しては後日に譲る事にする。
將門が坂東の野を馬とともに駆け巡っていた時代から、江戸時代になると、手賀沼から印旛沼にかけての一帯は、幕府の牧場となった。牧場というと誤解されるが、野生馬の放し飼いで、自然の地形をうまく利用し、あとは、柵代わりに土手を築いて馬がその外に出られないようにしたものである。新京成鉄道のくぬぎ山駅近くには明確にその土手が残っており、松戸市教育委員会の案内柱によると、江戸時代には佐倉や八街の方まで、延べ150キロも延々と巡らされていたとのこと。
今は平成の時代だから、そんなものは残っていないが、鎌ヶ谷周辺を注意して自転車を走らせると、わずかではあるが、畑や果樹園の境界として今だに残っているところがある。 中木戸、高根木戸、馬込沢などの地名もあり、松尾芭蕉が通った頃の鎌ヶ谷宿周辺はまさに万里の長城並に、野馬土手が延々と延びていた。現に、渡辺崋山の絵も残っていて、市役所の壁に大きく伸ばして紹介されている。
中山競馬場から利根川に向かって延びているその街道は、現在でも木下街道と言う。木下と書いてキオロシと読むが、もしかしたら「木戸おろし」かも知れず、この雄大な放牧場の北端から富士山のかなたに落ちていく原野の上の夕日を眺める役人の姿が目に浮かぶ。 明治になって2年目、薩長政府が失業対策として、困窮庶民をこの地に送り込んでこの放牧原野を開墾させた第一歩が、私の住む初富新田ということになるが、そこから先の話はまたの機会にする。
將門が坂東の野を馬とともに駆け巡っていた時代から、江戸時代になると、手賀沼から印旛沼にかけての一帯は、幕府の牧場となった。牧場というと誤解されるが、野生馬の放し飼いで、自然の地形をうまく利用し、あとは、柵代わりに土手を築いて馬がその外に出られないようにしたものである。新京成鉄道のくぬぎ山駅近くには明確にその土手が残っており、松戸市教育委員会の案内柱によると、江戸時代には佐倉や八街の方まで、延べ150キロも延々と巡らされていたとのこと。
今は平成の時代だから、そんなものは残っていないが、鎌ヶ谷周辺を注意して自転車を走らせると、わずかではあるが、畑や果樹園の境界として今だに残っているところがある。 中木戸、高根木戸、馬込沢などの地名もあり、松尾芭蕉が通った頃の鎌ヶ谷宿周辺はまさに万里の長城並に、野馬土手が延々と延びていた。現に、渡辺崋山の絵も残っていて、市役所の壁に大きく伸ばして紹介されている。
中山競馬場から利根川に向かって延びているその街道は、現在でも木下街道と言う。木下と書いてキオロシと読むが、もしかしたら「木戸おろし」かも知れず、この雄大な放牧場の北端から富士山のかなたに落ちていく原野の上の夕日を眺める役人の姿が目に浮かぶ。 明治になって2年目、薩長政府が失業対策として、困窮庶民をこの地に送り込んでこの放牧原野を開墾させた第一歩が、私の住む初富新田ということになるが、そこから先の話はまたの機会にする。