日暮里駅から鶯谷周辺には広い墓地が広がっており、有名人が多い。正確には、天王寺と東京都と寛永寺の敷地で全部を占めているそうだ。一つ一つ訪れていては切りが無いので、幕末関係に的を絞った。
以下の地図は、"m-241"ロガーのGPS軌道をGoogle地図に読み込ませ、ソフト「ペイント」で地図上に書き込み作成したものです。
この範囲内の歩行距離は6キロくらいであろう。参照→上野の山は歴史がいっぱい
徳川歴代将軍の墓が、なぜ増上寺に統一されていないのか?
幸田露伴の名作「五重塔」の基となった塔跡地を後に、十五代将軍・慶喜の墓に行った。寛永寺境内の中にあっても、綱吉や吉宗たちと異なり、一人離れた場所に慶喜の墓があった。明治新政府に気兼ねして、神道式の墓だという。
徳川将軍家の墓には謎が多い。本来、徳川家の菩提寺は増上寺と家康が定めたはずだ。それが以下のようになっている。
日光→家康、家光
増上寺→二代秀忠、6代、7代、9代、12代、14代
寛永寺→四代家綱、5代、8代、10代、11代、13代 *15代慶喜は他と離れた場所に神道式で埋葬
混乱の原因は家光だ。家康の遺命に背き、天海に命じて上野の山に寛永寺を建てさせたのが混乱の源だ。
この間のことは、寛永寺の執事長を務めた浦井正明氏の著書『もうひとつの徳川物語--将軍家霊廟の謎』に詳しい。
死期に望み、幕閣を前にして家光は「増上寺に入るのはいやじゃ」と言ったのだ。或る時増上寺の秀忠の墓参りに行き、その墓の脇の塔を指し「あれは何だ」とお付の者に尋ねたそうだ。「崇源院さまです」と答えると「目障りじゃ、壊してしまえ」と命じ、実際そうさせたとのことだ。彼は自分の母親の墓を知らなかったことになる。葬儀から始まる一連の儀式に参加しなっかったなんて、考えられない。こうなると、どうも、家光は秀忠とお江(おごう)の子ではないらしい。家康が「自分の子として」二人に預けたのだろう。親?から冷たい仕打ちをされ続け、幼い竹千代は自殺をはかったことがある。だから、両親?に対して、むしろ憎しみを抱いていたと考えられる。→徳川家の謎 一 --家光は家康の素性の秘密を知っていた
これに関しては、いずれ別に語りたい。時の将軍が家康の遺命に逆らってまで、増上寺入りを拒否したのは何なのか?---結局、「慈眼大師の傍がいい」と頑張って、天海のそばにしたのだ。
その前に、江戸を新京都にするプランがあり、天海に、東の比叡山=東叡山寛永寺を建てさせている。これは祈祷寺のはずが、いつの間にか菩提寺になっていて、家綱や綱吉が埋葬されることになる。将軍たちに増上寺が嫌われたのであろうか?家光と同様、どの将軍も死に際して遺言をしているはずだ。
現在は増上寺と寛永寺の両方に将軍の墓があるが、「争いの無いように適当に振り分けた」なんて生易しいものではないはずだ。建物が戦災で消失したとはいえ、寛永寺の境内でも、東廟と西廟に分けられている のには、何か訳でもあるのであろうか?
この調子だと、どこまで行っても止まらないので、このへんにするが、最後に一言。以前のは消失のため、現在の寛永寺本堂は、川越の喜多院から移築したものだという。ここにも天海が出てくる。西郷像の近くにある天海遺髪塚もそうだが、上野の山は天海とは切っても切れないものがある。
徳川慶喜の墓
慶喜の墓近くにある。実は五重塔跡で一人のボランティアと知り合った。そこからは、有名人の墓など、その人が最後まで我々クラス会幹事(私と女性2名)を案内してくれたのだ。
その人が森繁のことを語ってくれた。---大実業家の末っ子として生まれた久弥は「はずれ者」だった。それで、父親がNHKに押し込んだということだ。それでも悪さをしないようにと、満州へ渡らせた----
映画の「駅前シリーズ」などで、女の尻を平気だ触るのは地で行ってるらしい。実世界でそれを実行しても、競演の女優たちは怒らなかったらしい。森繁なら許されたのかも。
川越の喜多院から移された根本中堂
江戸城無血開城と三舟
○幕府首脳会議→勝海舟→高橋泥舟→山岡鉄舟→(静岡にいる)西郷隆盛
○海舟の墓は洗足池境内にあるが、後の二人はこの近く、慶喜の墓からそう離れていない。
江戸城無血開城は、西郷隆盛と三舟が深く関わっている。江戸の町が火の海にならなかったのは彼らのお蔭と言っても良い。簡単に図で示せば、上のようになる。
高橋泥舟を知る人はあまりいない。その生き方に関係しているようだ。海舟をして「「あれは大馬鹿だよ。物凄い修行を積んで槍一つで伊勢守になった男さ。あんな馬鹿は最近見かけないね」と言わしめた。槍一本で徳川慶喜の護衛役として、その一生を主君への忠節を貫き通して。幕臣から明治政府へと、海舟のように世渡り上手ではなかったからだ。
旗本山岡家の次男として生まれた精一郎は、後に母方の高橋家の養子に出る。晩年、号を泥舟とした。「かちかち山」ではないが、明治政府下の世の中を海に例え、海に出たら泥舟は沈んでしまうと言ったらしい。出世の勧誘を拒否し、ひたすら主君への忠義を貫いたのだ。なお、鉄舟が莫大な借金を残して他界したとき、その後始末を全部引き受けたとのことだ。
山岡鉄舟を一言で言えば、凄い人だ。頭が下がる。前から大雑把な知識は持っていたが、私が俄然興味を持ったのは、奥塩原の新湯温泉で鉄舟の書を刻んだ石碑を見てからだ。剣良し、書良し、心良しの大人物である。清水の次郎長も惚れた男だ。のちに、明治天皇の教育係りを務めた。
武芸の家系・小野家の四男として生まれた鉄太郎は、後に泥舟の妹のいる山岡家に婿養子に入る。よって、鉄舟は泥舟の義弟ということになる。
さて、静岡まで迫った官軍を前にして、江戸城重臣会議で、海舟は全権を任された。慶喜は寛永寺に蟄居。勝は西郷への使者として泥舟に書を託そうとした。だが、不穏な江戸情勢を考え、SPの泥舟は慶喜の身を案じ、どうしても江戸から離れられなかった。そこで、義弟の鉄舟にその任務を依頼したのだ。
当時の鉄舟は極貧で、神陰流の使い手も刀さえなかったという。已む無く、親友に両刀を借り、単身敵地に乗り込むことになった。官軍の兵士の中を「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎まかり通る」と声を張り上げて通っていったそうだ。
西郷から差し出された5つの条件は以下の通り。
(1)江戸城を明け渡す。 (2)城中の兵を向島に移す。(3)兵器をすべて差し出す。(4)軍艦をすべて引き渡す。
(5)将軍慶喜は備前藩にあずける。
そのさい、鉄舟は(5)だけは、どうしても譲れないと、西郷とやりあって、最後に撤回させたということだ。西郷をして「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困る----」と言わしめ、「幕臣に鉄舟あり」と感銘させた。
これを踏まえ、江戸城無血開城へ向け、池上本門寺内「松濤園」で勝海舟・西郷隆盛会談が行われることになる。
大雄寺境内で
全生庵にある北村西望作(長崎平和記念像の作者)観音像
全生庵で。彼の残したもので有名な曲は数知れない。
全生寺の鉄舟墓の前では梅が咲いていた。
「鉄」という字は「金を失う」ので、本人は旧漢字、「金の王なるかな」を使ったのだと、ボランティア氏に聞いた。
全生庵の近くの大円寺には、御茶屋の看板娘・お仙と、それを美人画にした鈴木春信の碑がある。