どうぶつ番外物語

手垢のつかないコトバと切り口で展開する短編小説、ポエム、コラム等を中心にブログ開設20年目を疾走中。

松谷みよ子の『現代民話考』から②

2022-04-29 01:10:46 | 名作いいとこ取り

 <第三章「神かくし考」より>

もう一つ、高知の郷土史家である寺石正路さんの「土佐郷土民俗譚」から、次の一章を取り上げている。

「かかる時は失せ人を捜す方にて近所隣並はいふまでもなく町内村中総出を以て昼は鉦太鼓夜は炬火(タイマツ)にて野山残る隈なく探す其の月暗く風寂しき夜半鉦鼓の音陰に響き失せ人の名を叫ぶ声幽かに聞ゆる時は物凄き思ありて婦人小児等は恐れて夜出する能はぬこともあり。・・・・」

あとをかいつまんで説明すると、失せ人を捜す方法は藩の決まりで三昼夜に限り許可され、捜索隊の人数すべての帯を解いて長い縄状にし、互いにつながってこれ以上神かくしにあわないように用心した。

先頭に立つのは必ず親族で、失せ人の名を唱えて一同それに和し「誰だれよ、戻れや帰れや」と呼びかけてまわり、最後は全員が1,2,3と順番に点呼をして無事を確認したらしい。

なにか人知を超えたものの存在を強く意識していたことがうかがえる。これに近い話は他にもあって、千葉の九十九里では晒(サラシ)一本に手をかけて離れぬように並んで捜し歩いたという。

また、鉦と太鼓を叩き、一生升や茶碗を叩く、呼び声も「太郎かやせ、子かやせ、次郎太郎かやせ、オラバオ、オラバオ、山の神様、〇〇さんを出したもれ」など全国で似たような風習があることから、民話になる素地が備わっている。

更に木樵の幼女が行方不明になり、探す声をこれも友人の小沢清子さんが聞いている。新潟の出来事で父母は狂気のように探し回り、狐の穴に赤飯を供えて歩いた。やがて探しつくした頃幼女は眠ったような姿で発見されたが少しもやつれた様子もなくまるまるとしていて、ただからだ中にかき傷があったという。

すでに繰り返し探しつくしたところに横たわっていた幼女が、行方不明になって何日も経つのに何故ふっくらと肥って肌もつやつやとした顔で死んでいたのか。町の人は「子をなくした狐が、あんまりその子が可愛げで、さらっていって養っていたんかねえ」といいあったという。

夕方カクレンボしているうちに一人の女の子がいなくなり、探し疲れた頃お堂の下で泣き声がした。そこは囲ってあって床下も低く人の入れるはずもない。周りをぐるぐるまわって叫んで、ひょいと見たら泥だらけのその子が泣いていた。どこから出て来たか判らない・・・・。

この話を語ってくれたのは群馬県藤原郷の浜名マサさんである。そのお堂までマサさんと行ってみた。畑の中にぽつんと建っているお堂はまことに小さく床下はふさがれ、もぐり込むことも這い出ることもできない。雀色に暮れていくたそがれ、カクレンボをしていた幼女がふっと姿をかくす。不吉な思いにとらわれて私はお堂の前にしばらくたたずんでいた。

その頃までは神かくしについて、どちらかといえば無心に聞いていたのだが、「現代民話考」で取り上げるようになってからは、進んでこちらから問う姿勢になった。つぎつぎと寄せられてくる話の中で、忘じ難いのは青梅の郷土史家、清水利氏から聞いた話である。

それは大正十二年七月のことという。土地の男衆が朝草刈りに山へ入りそこで五、六歳の女の子が泣いているのに出会った。言葉も判らず日向和田の駅まで連れてきて駅長に預けた。駅長はお手のものの鉄道電話で各地に照会をしたところ、その子は岩手の山村の子で前の日まで鬼ごっこして遊んでいたが行方不明になり神かくしとて捜していたことが判った。そこでたくさんの握り飯を与え、大きな名札を首からさげて送り返したという。

これが上野近辺ならば、何かの拍子に汽車にでももぐりこんだということもあるかもしれないが、岩手の在の子がなぜ次の朝、青梅のまだ先の御岳の山の中にいたのだろうか。子供の村では天狗にさらわれたといっていたという。

先に述べた大分、新潟、群馬の例とは異なって、岩手と東京という遠い土地での神かくしであるだけに、何とも不思議なことであった。握り飯をつくった駅長の養女は先年まで健在だったという。(かなり長生きした・・・・ということか)

 

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