洲崎橋跡や洲崎神社を撮ったので、少し洲崎について調べてみました。洲崎は、歌川広重「江戸名所百景」の「深川洲崎十万坪」の舞台です。
(写真はウイキベディアより)海岸がここまであって、海を望む景観がすばらしかったと言います。明治期から1958年(昭和33年)の売春防止法成立まで吉原と並ぶ都内の代表的な遊廓が設置され、特に戦後は「洲崎パラダイス」の名で遊客に親しまれた歓楽街であったそうです。大門通りというのがありました。
洲崎大門(すさきおおもん)は、現在の永代通り「東陽三丁目」交差点から東陽1丁目方向へ入ったところにあった洲崎橋に設置されていた外門で洲崎遊郭への正面玄関。吉原の吉原大門と同じ類のもので、戦前は鉄の門柱であったが戦後の隆盛時は「洲崎パラダイス」の名が掲げられた大きなアーチ形の門が設置された。昭和33年の洲崎パラダイス廃止に伴い門は撤去された。とのことです。大門(おおもん)通りは、 洲崎遊廓の正面玄関だった洲崎大門から、吉原遊郭の吉原大門がある土手通りを繋ぐ一本道。遊郭の大門と大門を繋ぐ街道として発展し、現在もバス通りとしてその名が残っています。華やかなりし時代には、遊郭へ遊びにやってくる男たちで賑わった。そうです。
この道は、錦糸町から有明のテニスコートに行く時に、バスでいつも通っていたところです。
洲崎神社の近くにこんな橋もありました。新田橋です。橋の説明には「大正時代に、岐阜から上京し木場5丁目に医院を開いた新田清三郎は、町の相談役なども務め人望の厚い医師だった。しかし、昭和7年(1932年)、不慮の事故で夫人を亡くしてしまう。新田医師は、最愛の妻の慰霊のために橋を架けることを決める。そのとき、多くの町人たちが労を惜しまず建設に携わった。当初は『新船橋』と名づけられていたが、新田医師が亡くなったあと、地域の人々から慕われていた〝木場の赤ひげ〟を忍び、『新田橋』に改名された。初代の橋は今も、『八幡堀遊歩道』に保存されている。」とあります。下の川は大島川( 現在は名称が変わり大横川の一部)です。洲崎川ともつながっていました。かつての海岸線であったところに造成された川です。下流に平木橋がありました。平木橋から新田橋を見ています。
木場公園の方を見たらスカイツリーが遠くに見えました。
最新の画像[もっと見る]
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます