西光寺の散策を終え、一度行ったことのある木下川薬師に向かいました。途中でこんな標札があり、寄り道しました。
小学校の校庭の隣に社がありました。
鳥居です。
こちらは神楽殿
社殿
古い建物でなかなか趣がありました。
裏にはこんな碑もありました。
狛犬も欠けていあした。
神楽殿のところに黒猫さんがいたので、写真を撮ろうしたら隣の駐車場に逃げられてしました。
★ランドマーク王子白髭神社:『東京府志料』上木下川村の条に、「王子神社 社地三十六坪」とのみある。社伝によれば、清和天皇の第七皇子貞辰親王が東国遊行の途次、元慶元年 (九三八)この地に薨じた。たまたま浄光寺に留錫中の比叡山慈覚大師は良本阿闍梨に命じて、親王の遺骸を葬り、王子権現として慰霊を行って以来、浄光寺がその古塚を管理したという。記録類は明治二十九年の洪水で流失したが、もと上木下川村にあり、その地が荒川放水路の敷地となり、大正八年、浄光寺とともに現在地に移った。
葛飾区神社調査報告 (葛飾区教育委員会) より
大正8年にこの神社と一緒に移転させられた浄光寺(木下川薬師)がすぐそばにあります。
この地図は荒川放水路ができる前のものです。西光寺と木下川薬師が載っています。
昔の荒川(隅田川)は江戸時代に頻繁に洪水が発生していましたが、明治時代になっても洪水が頻発しました。
明治43年の大雨で都内が甚大な洪水被害を契機として、荒川の洪水対応能力を向上させるために荒川放水路の基本計画が策定されました。
綾瀬川に沿って木下川薬師のところを荒川放水路が掘られました。地図では読み取れませんが白髭神社も木下川薬師の近くにあったようです。今は綾瀬川と中川交差するところにあります。荒川放水路の工事中には、風水害の発生によって工事の予定が遅れることも少なくありませんでした。また、大正12年(1923) には関東大震災が発生して工事に影響を与えました。荒川放水路事業は明治44年(1911) に着手され昭和5年(1930)に完成しました。
荒川放水路の開削工事は、必要な用地も広大なもので、工事で移転を余儀なくされた住民は1,300世帯にのぼりました。また、移転対象地域には、民家や田畑をはじめ、鉄道や寺社も含まれた大規模なものでした。た。。
明治の地図では薬師道も左右に延びています。こんな道しるべがあったようです。
浄光寺山門
脇に高札が
★ランドマーク青龍山浄光寺:浄光寺の歴史は平安時代の嘉祥二年(849)にさかのぼりる。延暦七年(788)に伝教大師が比叡山に一乗止観院(延暦寺)を開き、自ら彫刻された薬師如来像を安置すると、さらに東国教化を願い再び薬師如来像を彫られました。 途中まで彫り進めたところ神霊のお告げがあり、下野国に帰国する大慈寺の廣智菩薩に託されました。廣智菩薩は下総国木下川で唱翁に出会い請われるままに薬師像を唱翁の草庵に安置しました。その後浅草寺に滞在していた慈覚大師円仁はこの話を知り貞観二年(860)、弟子の慶寛に命じてその草庵に一寺を建立し浄光寺と名づけました。以来当山は木下川薬師として七堂伽藍を備え人々の信仰を集めることになりました。それから中世の戦乱の中でしばしば荒廃しますが、そのつど復興され近世を迎えます。
江戸時代の薬師寺
キャプション『江戸名所記』に、「いにしへより毎月八日ならびに元三の朝(あした)にして、かならず本尊の御前に竜灯のあがるを、 はいする人少なからず」とあり。されどこのこと、いまは絶えたるにや、土人もしらずといへり。
江戸時代に入り徳川家康公は当山に薬師如来供養料として朱印地を寄進され、当山は浅草寺の末寺筆頭の寺格を保つことになりました。家康公亡き後、江戸城紅葉山の霊屋の別当職に浄光寺が任ぜられ将軍家がたびたび当山へ訪れました。享保五年(1720)には将軍家御鷹狩りの御膳所ともなり、鎮護国家の道場として長く将軍家の祈願所とされました。江戸時代が最も花開いたとされる文化文政(1804~1830)のころになると寺運はますます隆昌し、寺域も広く、本堂、東照宮、観音堂、鐘楼、仁王門、大客殿、講堂、太神宮殿、山王権現、弁天堂、白髭社などの諸堂宇が甍を並べました。幕臣勝海舟も浄光寺を愛した一人で海舟の書簡なども当山に残されています。また明治十二年(1879)七月、西郷隆盛(南洲)の死を悼んだ海舟が南洲の留魂祠、留魂祠の碑を浄光寺境内に造立しましたが、現在は、洗足池公園に移転されています。
伝教大師童形御尊像と書いてあります。
キャプション木下薬師如来の霊像は延暦年間伝教大師叡山に在せし頃、東国化益のために彫造せられやや半ばなる頃一夜この本尊の霊示あるをもって、 つひにその像腰を刻さずして錦繍をもてこれを纏い、下野国大慈寺の広智といへる沙門の東国に帰らんとするに付属ありしかば、 本尊有縁の地なるをもって木下川に安置なし奉りしこと浄光寺縁起に詳らかなり。
阿形吽形で両方合わせて阿吽(あうん)ということですか
門を入った右手にある庚申塔です。青面金剛と、見ざる、聞かざる、言わざるの謹慎態度を示す三猿が刻されています。庚申の信仰は、 庚申の夜は眠らずに言行を慎み、健康長寿を祈念するという信仰です。
これは馬頭観音明治38年と書かれています。
水屋
大イチョウ
薬師堂・釈迦殿
太子堂
不動明王像
大正8年に移転してきて建てられたようです。大正八年(1919)荒川放水路の開削工事のため浄光寺は南東600メートルの現在地に移転しました。釈迦堂の再建、仁王尊・仁王門の修復再建を経て平成十年には新薬師堂を再建し、明治維新より130年振りの秘仏本尊薬師如来の開帳大法会を行いました。その後12年ごとに秘仏本尊薬師如来の開帳法会を行うというとです。
綾瀬川と中川が交差しているところの堤防から中川の上流を見ています。
こちらが綾瀬川です。
下流を見ています。
綾瀬川と荒川放水路に架かる木下川橋です。
手前が綾瀬川先が荒川放水路です。
橋を渡って少し下流にこんな社がありました。
白髭神社と書いてあります。
社殿です。
由緒や経緯が書いた石碑がありました。
★ランドマーク東墨田白髭神社
延暦七年(七八八)伝教大師半体作の薬師像を下野国の広智という僧が背負って武州にきたところ中川の辺にて不思議な老翁にあった。翁は名を唱翁といい、願わくは像を草庵に安置すべしといわれ、像を草庵に安置して広智は本国に帰った。その後、慈覚大師が東国に下った時に不思議な告げにより、その草庵を修理じて一寺とした。さきに出た唱翁とは白髭明神であったといわれる。
貞観二年(八〇六)に堂宇が完成した時、薬師の守神として祀った。のちに霊験あらたかのために、近郷の人たちも信仰して下木下川村の鎮守となった。現在の荒川放水路中央に鎮座していたが、荒川改修工事のため大正四年現在地に移転鎮座した。(東京都神社名鑑より)
荒川放水路の真ん中にあったものが王子白髭神社と東墨田の白髭神社に分割されたようです。
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