約半世紀前に台東区にある事業所に勤めていたこともあり、待乳山は何と読むのかななどと思いながら通過していました。最近でもリハビリサイクリングとして、自宅から3kmほどで適当な距離にあるので季節ごと程度にはこの辺りに来ています。今回は江戸名所図会めぐりとして慶養寺、今戸橋、山谷堀の続きで、
ついでに待乳山聖天に来てしまいました。
江戸名所図会では手前の右手に今戸橋があるのでしょうか。
前回までは正面からのみ見ていたのですが、今戸橋から来てみると下から見上げる状態だったので、つい散策してしまいました。
こちらが山谷掘り側からの入り口です。駐車場になっています。階段がありますが、一般客は入れないようになっていました。周辺をちょっと覗いてみました。階段の左手です。階段があって右手にはちょっと面白い石塔があるので近づいてみました。浪曲相輪塔と書いてあります。
★ランドマーク浪曲相輪塔: 昭和18年浪曲協会が建てたもので浪曲は明治の末に大阪から浪花亭駒吉が関東節として広め、更に桃中軒雲右エ門によって隆盛をもたらし、今日も庶民に広く親しまれている。というものだそうです。
ここからのスカイツリーです。表に回りました。
階段を昇る途中に石像があります。
これはようやく覚えましたが「見ざる言わざる聞かざる」の庚申塔です。さらに階段を昇ると「浴油祈祷の勧め」というのがありました。
およそ、人間の浴には際限というものがありません。この「むさぼり」「あがく」心が、いろいろの罪や災いを招く原因ともなっています。そこで聖天様は、日常さまざまな願いごとを悉く叶えて下さることで、私達の「むさぼり」の心を取り除こうとされておられるのであります。
ここの道理をもとに組み立てられたのが聖天様の浴油祈祷で、密教の行法の中でも秘法の一つとして重んじられています。速やかな心願成就を望まれる方は、この浴油祈祷を御依頼になるとをお勧めいたします。
当山では1年をとおして休むことなく修法いたしております。尚、ご依頼の日から7日間、修法いたした後、御礼が授与されます。
聖天様の案内板です。
★ランドマーク待乳山聖天;待乳山聖天は、金龍山浅草寺の支院で正しくは、待乳山本龍院という。その創建は縁起によれば、推古天皇9年(601)夏、早魃のため人が苦しみ喘いでいたとき、11面観音が大聖尊歓喜天に化身してこの地に姿を現し、人々を救ったため、「聖天さま」として祀ったといわれる。
ここは隅田川に臨み、かっての竹屋の渡しにほど近い小丘で、江戸時代には東都随一の眺望の名所と称され、多くの浮世絵や詩歌などの題材ともなっている。とくに、江戸初期の歌人“戸田茂睡”の作、
あはれとは 夕越えてゆうく 人もみよ まつちの山に 残すことの葉
の歌は著名で、境内にはその歌碑(昭和30年再建)のほか、石造出世観音立像、トーキー渡来の碑、浪曲双輪塔などが現存する。また、境内各所にほどこされた大根・巾着の意匠は、当寺の御利益を示すもので、大根は健康で一家和合、巾着は商売繁盛を表すという。1月7日大般若講大根祭には多くの信者で賑う。
なお、震災・戦災により、本堂などの建築物が焼失、現在の本堂は昭和36年に再建されたものである。
案内板のところにトーキー渡来の碑があります。
★ランドマークトーキー渡来記: リ・デ・フォーレスト博士は明治6年米国アイオワ州に生まれ無線電信の開拓者として三百有余の特許権を得ラジオの父と仰がる。大正12年更にトーキーを発明、紐育市に於けて上映世人を驚かせたり。大正13年故高峰譲吉博士令息エヴエン氏来朝の際、親しくその詳細を聴きて将来に着目す、翌年渡米、博士の好意により東洋におけるトーキーの製作および配給権を獲得したり、依て米人技師を帯同帰国。大正14年7月9日宮中に於天皇皇后両陛下の天覧に供し、各宮殿下の御覧を仰ぎ足る後一般の公開せり。・・・
あちらこちらに大根と巾着が飾られています。
階段の手すりのところにも描かれています。
この階段を昇った左側に地蔵さんと地蔵堂があります。歓喜地蔵尊、子育てのお地蔵様です。
右側には出世観音です。学問、芸能、立身出世、商売繁盛の観音様だそうです。
出世観音像: 昭和11年境内整地のおり御頭のみが出土され足利末期(1600年頃)の作と鑑定された学業芸道に志すものの尊信を集めている。
金龍山大聖歓喜廟碑と書いてるのでしょうか。
正面に本堂です。
この左手に神楽傳、正月3が日、大根まつり、節分、毎月のご縁日に、駒崎社中による神楽が奏され、 大きめの行事には舞も入るとのことです。
大根の碑がありました。
あまり気にしませんでしたがこの大根は二股大根で、巾着は砂金袋のことで商売繁盛を、二股大根は無病息災、夫婦和合、子孫繁栄をそれぞれ意味し、大聖歓喜天の福徳を示しているということだそうです。大根よくみるとそんな風に見えます。
心願成就の碑があります。
心願成就とは:心の中で神仏に念じた願いが叶うこと。「心願」は神仏に心から願うこと。「成就」は願ったとおりに願いが叶うことだそうです。
右手には築地塀です。広重の錦絵ですが、
建物の周りを囲っているのがこの塀でしょうか。あまり土塀のようには見えませんが。
土塀(築地=ついじ) 右側石段より延長25間(45m)残っています。江戸時代の名残をとどめる唯一の文化財ということだそうです。
本堂を左回りに巡ってみます。巾着初めて気が付きましたが半鐘がありました。
こちらはいつも見ている
銅造宝篋印塔です。天明元年(1781)建立の塔で、区の文化財に指定されています。信徒千余人が一石一字集めて陀羅尼稽15巻分納められている。とのことです。
お稲荷さん稲荷尊です。本堂守護、および商売繁盛のお稲荷様です。
この所から山谷堀越しに慶養寺が見えます。裏側にお百度石が1対あります。
こちらは糸塚
糸塚
この糸塚は元治元年11世紀杵屋六左衛門が父10世杵屋六左衛門の遺志に依り供養のため建立せるものにして
16世六左衛門、3世勘五郎共に長唄三法の名人といわれた人である。
戸田茂睡歌碑: 茂睡は元禄の頃活躍した歌人で歌道の革新を唱えた江戸最古の歌碑と称されてが、戦災にあい昭和30年拓本をもとに再建された。78歳で歿した。ということらしいです。
碑には「紫の一もとをもれしてゆかり深き江戸の名勝をたたへ梨本集を著した近代歌学び魁所なしし元禄の歌人戸田茂睡翁は浅草に住みこの待乳山の風光をめで出御堂の傍○歌碑を建てたりきその石○にそこなはれし寛政9年姪孫櫛分規貞石室をつくり三面を覆ひたりしが昭和20年3月戦災にあひて殆ど煙滅に及びぬここ本龍院住職平田真徳師先住の息横田真精師等発起して再興をはかり今年翁の250年忌に刻石再び新たに成れりかくれ○翁かかりせにして喜びほほゑみてあらむ
とこしへよかれじくせじ霊ごもるまつちの山のやまと言う葉
昭和30年4月10日 日本芸術院会員 佐々木信綱 と書かれているようです。
広重
この絵のようになっていようです。
今は坂の下は駐車場で、隅田川越しにスカイツリーが見えます。本殿の左側は大根、こちらは巾着の水瓶です。以前使っていたもののようです。天狗坂から上ってきた所にも手水場がりました。
そろそろお正月の用意でしょうか。
階段を下りて社務所の脇から入って庭園を上から見ます。お地蔵さんがあります。築地塀の裏(表)側になります。
最後にこんな写真を見つけました。明治中期のものだそうです。ウイキペディアより 橋は今戸橋、下を流れているが山谷堀です。
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