吾妻橋のアサヒビールフラムドールで役所のOB会があったので参加してきました。ついでに本所あたりから周辺を散策しました。
ここは源光寺です。由緒書きは見つかりませんでした。
源光寺は、権大僧正光円法印(源頼光8代の子孫浅野四郎光俊)が慶長3年(1598)本所中之郷原庭町に創建、延享4年(1774)当地へ移転したということらしいです。
古地図にも載っています。
地図に書き込んだようなルートで散策しました。
本所新井町には「さらし井」があったようです。「荒井町五番地に有ったが今はない」源光寺のあるあたりは新井町になっています。
江戸名所図会より中之郷 さらし井「世の中は蝶々とまれかくもあれ 西山宗因」
源光寺の裏の華(花)厳寺を横目にみながら少し離れたところに
実相寺に着きました。
実相寺は、慶長2年(1597)日澄上人が創建し、越前朝倉義景に仕えていた熊谷安左衛門が熊谷家伝来の法華経の利益により白狐を助け、その縁により文殊菩薩を勧請したことから熊谷稲荷を祀っているということだそうです。
次は浅草通りを渡ったところに霊光寺がありました。
霊光寺は、開山は木食重譽上人靈光和尚で、初め草庵であつたが寛永三年寺院に列した。本尊の阿弥陀如来は増上寺中興の観智国師の時念佛でしたが、関東大震災で焼失したといいます。
ここから駒形橋に出ました。浅草側に見えるのが駒形堂fです。
『浅草寺縁起』によると、推古天皇36年(628)3月18日の早朝、檜前浜成(ひのくまのはまなり)・竹成(たけなり)の兄弟が江戸浦(現隅田川)にて漁撈中、1躰の仏像を感得した。郷司土師中知(はじのなかとも)はこれを拝して、聖観世音菩薩さまのご尊像と知り、自ら出家、屋敷を寺に改めて深く帰依したと伝えられる。
駒形堂は、観音さまが上陸された、浅草寺の草創ゆかりの地に建つお堂で、本尊は馬頭観世音菩薩。別名「こまんどう」とも呼ばれる。毎月19日にお開扉され、参拝できる。午前10時より法楽があり、4月19日は大祭。
はじめは川に面して東向きに建てられたが、たびたび焼失の憂き目にあった。寛保2年(1742)の再建から、川を背にして西向きに建てられるようになった。現在のお堂は平成15年(2003)11月に建立されたもので、境内は日ごろ、地元町会の方々の手で整備されている。とのことだそうです。
物語をたどると、江戸名所図会より
浅草寺観音大士の出現ありしは、推古天皇三十六年戌子三月十八日なり。土師臣中知をおび檜前浜成の主従三人、 ここの宮戸川に網を下ろして、この本尊を得奉りしよし、縁起の中に詳らかなり。
まず観音様を引き上げます。
次に安置します。往古(そのかみ)土師臣中知および桧前浜成・武成等の主従、浅草川に網して観音大士の霊感得せし頃、 この地の草刈り集まりて藜をもて仮の御堂を作り、その内にかの本尊かの本尊を安置し奉りけるといひ伝ふ。 その旧跡はいまの東谷一の権現の地なり。草刈りは後、神に奉じて十社権現といつきまつれり。
ここが駒形堂のはじまりでしょうか。
江戸名所図会より駒形堂「この碑では江をあはれまぬ蛍かな 其角」
この碑とはこれでしょうか。
駒形堂からの風景、アサヒビールの本社のと東京スカイツリーが並んでみえます。
雷門に向かいました。
江戸名所図会のこれは雷門でしょくうか。節分会です。
江戸名所図会大人の塗り絵より
雷門、外国のお客様がたくさん見えました。
駒形橋に戻って隅田川に移りました。今日の会場の近くに如意輪寺と太子堂があります。中郷江戸名所図会 如意輪寺 神明宮、太子堂
六面地蔵です。
OB会が終って外に出るとフラムドールの魂が光っていました。
スカイツリーも見えます。
帰りがけに真下を通りました。
歴史の小道散策が終りました。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます