リハビリ病院の帰りに荒川区側に回り台東区を散策してきました。
古地図の隅田村から水神大橋を渡り明神・真崎稲荷(石浜神社)に寄って、
大祓の茅の輪が飾ってありました。6月30日に夏の大祓を行うそうです。
総泉寺跡の平賀源内の墓と
お化け地蔵
に寄って浅茅ヶ原跡を辿って
長昌寺に出合いました。ここからら山谷掘今川(今は暗渠で隅田川の出口は白いコンクリートの所です)、に出てエックス橋の桜橋を渡って(三囲神社)墨田区側に戻りました。古地図にあるように今戸川の隅田側は三囲神社になっています。川と神社は高速道路で遮断されていますが。
こちらがこの日のメイン長昌寺です。
山門です。
★ランドマーク正漢音長昌寺:当山は御府内日蓮宗の古跡にして延山に属せり。開山日寂上人は、始め浅草寺の住職にて、上古は天台の法流を汲んで寂海法印と号せしが弘安2年この所に於いて、日蓮上人の弟子日常承認と宗議を討論す。後に日蓮の宗風に帰し、弟子の礼を執れり、名を日寂と改め、後浅草に帰り、金竜を辞して庵を結び、妙昌寺(長昌寺)と号けて、ここに隠る。
このおり浅草寺より一寸八分閻浮檀金正観世音菩薩を移し安置す。
山門の脇に由緒書きがありました。
一寸八分の観音菩薩と書かれています。
本堂です。
日蓮宗寺院の長昌寺は、深栄山と号するそうです。元和年間(1615-1624)江戸幕府の有力な譜代大名酒井忠勝によって中興され、江戸時代には正観世音像が庶民の信仰を集めていたということだそうです。こちらが正観世音堂です。
毎月18日、一寸八分観音様のご縁日(ご開帳・ご祈祷・法話)があるようです。
この一寸八分の観音様お寺さんのHPより
銅鐘
★ランドマーク長昌寺銅鐘:台東区のHPより、長昌寺の銅鐘は、総高147センチメートル。享保5年(1720)に小幡内匠(たくみ)勝行という鋳物師が制作しました。小幡内匠(たくみ)勝行は、他に39点の金工製品にもその名を遺しており、中には旧増上寺徳川家霊廟の6代将軍家宣廟・7代家継廟・9代家重廟に造立された銅灯籠などもあります。しかし、長昌寺銅鐘を含め40点の制作年代は正徳2年(1712)から明和6年(1769)にかかる57年間にも及び、同一人物の遺品と断定することはできません。あるいは、親子2代など、複数の人物の制作とも考えられます。いずれにしても、小幡内匠勝行の名は、将軍家霊廟の灯籠を制作するほどに、当時を代表する鋳物師の一人として知られていたことは間違いありません。
また、銅鐘には長昌寺の歴史を刻んでいますが、その中には次のような伝説もあります。
鎌倉時代後期頃、この寺にはすでに銅鐘がありましたが、隅田川の洪水によってこの銅鐘は河中に沈んでしまい、以来銅鐘が水没したあたりを「鐘が淵」と呼んだというものです。こうした伝説を「沈鐘(ちんしょう)伝説」といい、全国各地に語り伝えられています。現在、墨田区に遺る「鐘が淵」との関係はともかく、この銅鐘の銘文は、江戸時代にはこの付近にも「沈鐘伝説」が存在したことを教えてくれます。
長昌寺銅鐘は、江戸時代中期の代表的鋳物師の遺品であるとともに、長昌寺の歴史や沈鐘伝説を刻んでおり、今戸付近の歴史を知る上で貴重な文化財です。平成9年度登載
境内にある錢洗辨財天
「長昌寺の銭洗弁財天は、白龍弁財天といわれています白蛇のご尊像です。観世音菩薩が衆生を救済するために白蛇のお姿であらわれたのです。
御利益は、長寿と財福・蓄財であり、当山の弁財天で紙幣や硬貨をお洗いになり、合掌礼拝をし、願いごとをしてください。」とお寺さんの案内に書いてあります。
恵みの観音様 製造年 文化年間。青銅製。
墓地
動物のお墓もありました。
木槿が咲いていました。
江戸名所図会大人の塗り絵より
長昌寺 宗輪芝と書いてあります。
境内に宗輪芝の書いてありましたが、写真を撮りませんでした。
下の所に煙が上がっているのは今戸焼の窯の煙です。
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