19日は目白の施設と雑司ヶ谷の施設の訪問でしたので、目白通りを歩いてみました。学習院大学のあるところは木々が高く陽を遮っていたのですが、中等学校のところは気が低く日陰になりませんでした。そこを通り過ぎると橋に出合いました。千歳世橋でした。橋というので下は川かと思いきや明治通りと都電が走っていました。
千登世橋(ちとせばし)は、橋上に目白通りを通し、明治通りとの立体交差になっており、東側に連続する千登世小橋で都電荒川線を跨ぐ。目白駅・学習院大学方向の西詰めに明治通りへの斜路も構築されている。
周辺は目白台地と関口台地の境目になり、都電の軌道付近には湧水の流路があった。また高台のため付近にはのぞき坂などの急坂も多く、これらの高低差ある地形を活かした設計となっている。
戦前の完成で、幹線道路同士の立体交差としては都内で最初期のものであり、今なお現役であるため土木技術的価値も高く「東京都の著名橋」の一つでもある。 平成2年(1990年)には町の美観と調和させるため親柱や高欄の意匠が改修された。と、ウイキペディアに書いてありました。
こちらは大鳥神社です。「元は雑司ヶ谷鬼子母神(威光山法明寺の境外仏堂・鬼子母神堂)の境内に鷺明神として祀られていた。
『新編武蔵風土記稿』などによると、正徳2年(1712)松江藩主松平公の嫡男が天然痘にかかった。託宣によって鷺明神に祈願したところ、霊験を得て快癒したため、雑司ヶ谷鬼子母神の境内に祀ったのが始まりであるという。鷺様とも呼ばれ、疱瘡除けの守り神として信仰を集めたという。
もともと雑司ヶ谷の鎮守は鬼子母神であった。しかし、明治の神仏分離により、鬼子母神を氏神とすることはできなくなったので、鷺明神を大鳥神社と改称して分離し、氏神とすることになった。とはいえ、鎮座地を確保することも難しく、40坪の借地に祠がある程度であった。
明治20年(1887)これを見かねた旧幕臣の矢嶋昌郁は、200坪の自宅を寄進するとともに、自ら祠主となって神社の復興に努めた。その後、近隣の発展とともに社運も興隆し、氏子崇敬者の協力を得て境内を拡張整備し、現在に至る。
境内社の三杉稲荷神社は大鳥神社の兼務社であったが、首都高速五号線開設のため、大鳥神社境内に移転鎮座した。
11月の酉の市は多くの参拝者が参拝し、東京を代表する酉の市の一つとなっている。」とお寺のPHに書いてありました。
西宮神社の恵比寿さんが祀ってありました。
近くに毘沙門天を祀ったところがありました。雨乞いの松です。
その昔清龍院は、今をさかのぼること780年ほど前より、御嶽山清龍院と呼ばれ、境内に雨乞いの松があり、日照りのたびに人々が集まり、緑を潤す雨を願い雑司ヶ谷に雨を恵むと言われていました。
また、門前にある「かさもり、薬王菩薩安置」という石碑は皮膚病に霊験あらたかであるとして、当時参拝人で大いに賑わったことの名残です。と紹介されていました。
これはペット霊廟です。
お寺さんは清龍院というようですが、看板には清立院と書いてありました。なんだかよく分からないですね。
最新の画像[もっと見る]
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます