居住地の由緒を紹介をします。今住んでいる団地は日清紡績の工場跡地です。団地に隣接する浄水場の一角に碑が立っています。日清紡績株式会社が昭和46年5月建てた碑には、「日清紡績株式会社は明治40年1月創立後、東京府南葛飾郡亀戸町の当敷地2万余坪に、最新鋭設備を誇る本社工場を建設した。
最盛期には、紡機107,800錘、織機360台を擁した本工場は、昭和16年軍の要請により陸軍被服本廠が使用するに至るまで、45年に亘り主力工場として綿糸布を生産し、広く内外の需要に応えると共に、幾多の人材を輩出した。
この間明治43年、大正6年、昭和13年の三たび横十間川の洪水で浸水し、大正12年には関東大震災に逢ったが,従業員の献身的努力によりこの職場を守り得た。
昭和20年大戦下の空襲により焼土と化したが、運動場として整備し主として勤労青少年の体育に寄与してきた。偶々昭和42年東京都浄水場、日本住宅公団用地として提供するに至り、当社の手を離れた。
今般、この地に記念碑を建立し、会社創業関係者の遺徳と、生死苦楽を共にした多数従業員各位の功績を偲ぶものである。」と書かれています。
その前は銭座だったようです。
このモニュメントは、寛文8年に亀戸銭座で造られた「寛永通宝」をモデルに作成したものです。平成6年3月設置されました。寛文3年(1663年)から天和3年(1683年)まで、この付近で、寛永通宝銭が造られ、「亀戸銭座」と称していたそうで、 昭和41年に当時の日本住宅公団が住宅を建てる時に、多くの寛永通宝銭が発見されています。日清の工場跡地は野球場やバレーボールのコートができ、集団就職で東京の下町の工場に出てきた青年のスポーツの場所となっていたようです。当時の人に聞くと野球場は16面とか18面もあったようです。今は浄水場の上に野球場が2面とテニスコートが2面残っています。
ところで、昭和43年から入居が始まった公団の団地は1号棟から8号棟まではベランダがありません。高度成長に入る時期で、外国に追いつけ追い越せの時代、欧米並みにベランダでは洗濯物を干さないという考え方が反映されているようです。部屋の中にサンルームがあり、洗濯物はそこに干すようなっています。
6号棟から9号棟は分譲住宅になっています。分譲部分の庭は、居住者で組織されている植栽部の方々が手入れをしています。休日を惜しんで庭の手入れをしており、きれいに整備されています。努力の甲斐もあり、この庭園は、江東区の第1回「まちなみ景観賞」を受賞しています。
団地越しにスカイツリーも見ることができます。昔の幕府御用建の銭座が、明治時代は国策であった紡績工場になり、戦争中は陸軍被服本廠としてが使用され、戦後は集団就職で上京した青年の運動場となり、青年が結婚する頃は、住むための団地となるなど、国の政策に沿って用途が変化してきたことが伺えます。
そして今は、例にもれず、高齢者が多く住む住宅となっています。ただ最近は、築年数も経過し、15坪(51平米)ほどで狭い居住区ですが、JR錦糸町駅や亀戸駅から7~8分という便利な場所で、価格も手頃ということで、最近は若者も入居してきていただき、若干平均年齢を下げてもらっています。
最新の画像[もっと見る]
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます