昨日の朝、目が覚めるなり
唱歌 めだかの学校
が心に浮かんだ。
そこから何分かベッドの中で半分寝ぼけながら
めだかの学校は川の中、、
と歌詞を繰り返し歌ってた。
、、客観的にみたら、かなり面白い情景ではないか。
めだかの学校のあとは、トンボの👓めがね、、が、続けて、ぞうさん、、。次から次へと幼い頃から聞いたり歌ったりした歌が思い出されて、、なんでー❔、、って。
起きて杜への道を行ながら考えた。
童謡の詞を考える人は、本当に子供の気持ちにならなければ、、と言うか、子供の気持ちを持っていなければ、、作れないよな、、。
めだかを、ぞうさんを、とんぼをみて、普通は、あの童謡の詞のようなことは考えない。めだか→小さいな。トンボ→指に止まらないかな。ぞうさん→でかいな。、、こんな事くらいしか思わないぞ
それが、、何と!学校になってしまい、トンボが水色めがねをかけて、ぞうさんの鼻の長さが母さんと同じだという。、、こんな風にどんなものでも、純粋な透き通った気持ちで見ることができたら、さぞかし毎日の楽しいだろうなーあ。
で、めだかの学校の話だが、
実は、もう五十年(まではいかないが)くらい前に、
じぶんちの近くを流れる、小川で、 めだかの群れを観察しようとして、大失敗した事がある。
⤵
今朝、童謡を思い出した事で、数十年ぶりに心に甦ってきた。
思えば、ジブンがまだ子供の頃は、本当に「自然」があちこちに残っていた。小さな田ンボや畑が点在し、ジブンの遊び場所は、近所の教会⛪か、田んぼ、畑と決まっていた。
教会はいつも誰かしら人がいたので、神様の紙芝居をみたり讃美歌を歌ったりの複数での遊びだったが、畑、田んぼで遊ぶときは、何故か一人が断然多かった。今でも、目を閉じれば、、小さな木の切れ端を片手に、田んぼや畑の畦道を何かないかな、と探しながらキョロキョロし、歩いてるジブンの姿を思い浮かべることができる。
その畦道のそばに、小さな小川があって、、これがまた驚くほど透明で美しい水が流れている川だったのだ。
そして、、そこにはいつも、めだか、がいた。気持ち良さそうにスイスイと泳いでいた。まさに、めだかの学校状態。 今、めだかがスイスイ泳いでいる川が日本の中に何ヵ所くらいあるのかしら。多分、ほんとうに少ないのではないかしら、、。
ワタシはその川を覗くのがとにかく大好きで、毎日のように土の上に跪いて、顔と上半身をできるだけ伸ばし川の中を眺めた。
飽きることなんかない。めだか以外の魚の名前はわからないが、とにかくあの頃、川には、様々な魚がスーイスイスイと泳いでいたのだ。
いつだったか、いつものように跪き、川を覗くと、めだかが、いつもとは違う感じで泳いでいた。美しく丸い形を作り、集合しているように見え、まさに「めだかの学校」状態。
ワクワクが止まらない。もっとよく見たい、近づいてみたい、、水面ギリギリまで、、と思い、腰を上げた途端バランスを崩し、顔だけ川に突っ込むような形になった。
、、何が起こったのかわからず、バタバタした記憶があるけれど、端からみたら、これは、かなり異様な姿だったろう。浅い川だから頭をすぐに上げれば済む話なのだが、そうはせず、目を開けて川の中を見つめ、ものすごく大きな、ざーざーと言う水の音を聞いていたような記憶がある。自分では結構長い時間と思ったが、、そんなに長く顔を突っ込んでいたら死んでしまうので、多分、数十秒のことだったんだろう。今やれと言われても、絶対にできない、、面白い体験だった。
肩先から髪までずぶ濡れになりながら家に帰った私の姿をみて、母は何と言ったっけ、、❔、、確か、ものすごい声で「○○子💣!!、どこで何してきた❔!カッパだ!」と叫んだような、、。
めだか見に行って、ジブンがカッパになってしまったわけです、、。
こんな思い出が大量にあるジブンは、もしかしたら幸せかもしれません。
写真は、全く関係のない、市内の畑です。