お休みをいただいている間は、余りブログを書かないようにしていますが、前の記事に後輩のKさんがコメントをくださったので少し書かせて頂こうと思います。
「これは名作ですね。
表装は確かに残念ですが、作品自体は世が世ならという感じがします。」
ありがとうございます。
栖鳳の絵のうまさには、もう何の文句の付けようがありません。
が、この頃私達は栖鳳の作品に少し疑問を抱いていました。
栖鳳の作品は、果たして良い絵なのか?
そんな時、佐橋がこの上の画像の本を読み始めたのですね。
この本は、以前、、もう亡くなられてしまいましたが、色々な意味で影響を与えてくださったお客様の紹介で津田青楓に初めて私が出会った時に求めた本です。その時は、私もザーッと流し読みをしましたが、すっかりその内容の事は忘れていました。
今回、津田の油絵を入手しましたので、佐橋が少し勉強をしようとこの本を読み始めたのです。
そして、京都の交換会に伺う前に、2人でこんな話をしていました。
「漱石も青楓も、栖鳳の作品を評価していないんだよ。精神性を感じないってね。絵は下手だけれど、大観の方が中身があると言っている。京都画壇の作品を扱う時、栖鳳は外せないけれど、いままで感じてきた栖鳳作品への違和感はそれだったかな?と思う」
「そう言われて気づいたけれど、私もこの本を読んだ時、なるほど!その通り!と思った記憶がある。確かに、晩年の水墨画でも、軽々しく感じる事があるし、栖鳳の絵には、情感が伝わってこないことが多い。だから、かなりの栖鳳作品を手放してきたけれど
手元に残った作品を見ていると本当に栖鳳は軽いのか?京都の人の心が関東人には伝わりにくいように、栖鳳の魂が見えにくいだけではないのかな?と思いはじめたところよ」
美術、音楽、全ての芸術に精神性は必要なのか?という根本の問いもあるでしょうけれど、精神性という言葉に、宗教的な意味だけでなく、愛や情というものも含めれば、少なくとも絵画においては、精神性のない作品は飽きがくると言えるように思います。それは、抽象、具象の境もなく、画家の人間としての魅力に関わるものだと思います。
絵のうまい画家の作品の選び方。
杉山寧も含め、これから私達には大きな課題になりそうです。
明日からの一週間もどうぞよろしくお願い致します。
そうですね。確かに栖鳳には「ドライ」な印象を受けることが少なくありません。
それはあまりにも筆力が高いが故の不幸というか、非常に器用な作家につきものの特性のような感じがします。
しかし、今回の作品はジトっとした湿潤な空気を、そしてそこに住む人の営みを、水墨で巧みに表現していて、尚且つスケールの大きさを感じさせます。
最近は芸術に対して「精神性」という言葉を使うことの危うさを感じるようになりました。
中国南宋あたりの宮廷画家の作家は、みなとても上手い人ばかりですが、それはそれは高く評価されています。仏教美術の仏画も然り。超絶技巧を凝らしたものですが、やはり「精神性がない」と言ってけなす人は少ないでしょう。
技巧が全てではありませんが、技巧を凝らした上で初めて表現できる世界というものもあるのではないでしょうか。
「技巧を凝らした上で、初めて表現できる世界」
まさに、そこが有るのか?無いのか?がとても大切だと思います。
扱わせていただくのなら、やはりその世界が見える作品、「もう一つ上の作品」を求めていきたいと思っています。
ご都合よろしければ、7月初めの展覧会もご覧くださいね。