あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

塩の道 千国街道を歩く(信濃木崎から白馬)(2002年)〈続き〉

2009-07-28 22:47:34 | 塩の道を歩く
 相変わらず首都圏も天気がぐずつき気味で、夏風邪に襲われたので、
午後、かかりつけの病院へ行って来ました。

 本日も、7年前の2002年7月下旬に歩いた、塩の道レポートの後半
です。

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 =仁科三湖を経て白馬村へ=

 2002年7月21日(日)〈続き〉



 すぐ先が佐野集落。最初の三差路に、姫川源流への表示があったので
回ってみた。国道を越えた東側の林に柵の着いた遊歩道があり、その一
帯が姫川源流。木々の下から清涼な水が流れ出ている。

 姫川は、白馬連峰からの平川、松川と合して小谷(おたり)の渓谷を下
って新潟県に入り、糸魚川で日本海に注ぐ全長158㎞の清流。日本名水
百選の碑の先で林を出た流れは、ゆるいカーブを描いて佐野集落東側の
田んぼを潤している。

 源流一帯は、春になると一面福寿草の大群落が花を開くという。

 流れに沿った遊歩道は、北側が開けた気持ちよい田園地帯へ。最初の
橋を渡って佐野集落に入り、西側の高台へ上がって塩の道に戻ると、す
ぐ先に東徳寺があった。

 本堂は小さく無住だが、苔むした観音像など、趣ある石像が並ぶ。明治
7年(1874)には佐野学校が置かれたところとも記されていた。

 佐野集落にも、かやぶき屋根の民家が幾つか残っている。



 次の十字路には古い石仏が50体くらいあり、近くにも立派な大黒天や
双体道祖神などが立ち、この辺り、古くからの信仰が根付いていることが
うかがえる。


 これも、佐野集落に残る家。


 南神城(みなみかみしろ)駅の東を過ぎ、護岸された川を渡ると沢渡集
落。暑さで疲れが出てきたが、線路を越えて西側の山すそにある貞麟寺
(ていりんじ)に回る。

 弘治2年(1556)、仁科氏の支族、沢渡兵部盛賢の母、貞麟尼の開基
という古寺。境内の樹齢500年というイトザクラが見事な枝振りを見せる。


 満開のオカトラノオに、たくさんのヒョウモンチョウが止まって蜜を吸って
いた。


 このようなかやぶきの納屋も、いつまで残るであろうか…


 増築中の小学校の先で一旦国道に出て、すぐ線路際の草の道に入る。
線路が国道に近づいた辺りに道の駅白馬があったので立ち寄り、冷たい
牛乳でのどを潤した。

 神城駅入口の先まで国道を、少し先で右から左へと国道を横切って塩の
道は進む。

 飯田集落の民家。かやぶき屋根の家を見ると、貴重な民俗文化財と思い、
皆撮りたくなる。


 飯田北原庚申塚石仏群の説明板の近くに、大きな地蔵座像と7体の地
蔵立像があった。

 座像は延享元年(1744)の造立。おだやかなたたずまいで周囲の緑に
とけこんでいた。


 「炭火焼白馬茶屋」の看板があるかやぶきの家(上)の横で、大糸線の
西に出て、飯森集落に入る。ここも五竜とおみスキー場を控えて、民宿の
看板が多い。

 昨日の朝寄ったので今日は通過したが、一夜山(いちやさん)の山麓に
ある長谷寺(ちょうこくじ)は、明徳2年(1391)建立の曹洞宗の古寺。

 天和2年(1682)再建の本堂を中心に、庫裏、衆寮、かやぶきの山門
など重厚で落ち着いた建造物が並ぶ。参道の馬頭観音や整った庭園も
必見だ(写真は前日朝撮影)。

 集落を出て、展望が広がる田んぼの中に、飯森神社の森がある。神社
は、飯森氏により南北朝時代の承徳年間(1097~9)に創建、雨乞い、
水乞いの社として知られる。


 南側の流れのそばに、大きな庚申塔や石橋供養塔、馬頭観音などが並
び、きれいな流れには「ホタルの里」の表示がある。


 広々とした田んぼが終わるとKさんの別荘がある林。別荘地の入口にな
っているオリンピック道路でKさんに電話して、2日間の御礼と、時間がな
いので寄らずに、白馬(はくば)駅に向かうことなどを告げる。

 塩の道は、平川橋を渡ってY字路でオリンピック道路に分かれる。深空
(みそら)や、白馬町の角にある庚申塚や百番巡礼供養塔(下)などの石
仏群を見ながら道を急ぎ、16時15分白馬駅に着いた。


(天気 晴、距離 22㎞、歩行地 大町市、白馬町、地図(1/2.5万) 大町、
 神城、白馬町)
コメント
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