新年になっても新型コロナウィルスの感染拡大が続くので市外への初もうでは止め、市
内のうちでも比較的自宅に近い寺社へ5日かけて、ウオーキングを兼ねての初もうでに出
かけた。
2021年1月2日(土)
所沢航空公園の日本庭園に入ると、茶室・彩翔邸(さいしょうてい)前の紅梅がかなり
花を増やしていた。
庭園の池は、年末からの寒波で凍っている。
航空発祥記念館前の芝生広場には、家族連れなど市民がたくさん訪れていた。
蝋梅園内のロウバイは100本前後あるかと思われるが、咲きだした木はわずか。
子ども広場でも、たくさんの子どもたちが元気に遊びまわっていた。
今日最初の初もうでは、航空記念公園の南側、西新井町にある熊野神社へ。
昨年暮れに来たときには形が崩れていた鳥居の大蛇は、新年を迎え新装されていた。
拝殿に参拝して、新型コロナウィルスに感染しないよう、そして早く終息するよう祈願
した。
拝殿前のテントでは、鳥居の大蛇に用いた稲ワラで作った御守りを新型コロナウィルス
などの疫病除けとして頒布していたので、ひとついただき(200円)、あわせて焼きた
ての暖かいサツマイモもサービスでいただいた。
境内南西端の西新井不動堂は普段閉じているが新年で開帳され、不動明王を拝顔できた。
木彫漆塗りの不動明王は、身の丈57㎝で江戸時代初期に建立されたといわれているよ
う。家内安全、無病息災、五穀豊穣、子孫繁栄、学業成就などに御利益があるという。
この後は、市内中心部を西から東に流れる東川(あずまがわ)沿いに西進して、自宅最
寄りの神社、六所(ろくしょ)神社に参拝する。
六所神社の創建年代は不詳のようだが、東京・府中市の大國魂神社を勧請して創建され
たよう。
本殿の左手には、明治43(1910)年に合祀したという2つの稲荷社が並ぶ。
1月3日(日)
今日の市内ウオーキングの後半で、所沢の総鎮守である所沢神明社に詣でる。
境内南東側中段には人形殿があり、男性用の兜が拝殿右手に、女性用のひな人形は左手
に奉納されている。
人形殿前には、いくつかの露店が出店していた。
所沢神明社は、日本武尊が東征の際、天照大神を祭り勝利を祈願したのが創始とされ、
古くから所沢村の鎮守だったようで、現在も所沢の総鎮守である。
南側正面の鳥居から上がった中段には、市内にある熊手や人形など縁起物製造業「面亀
(めんかめ)」が奉納した大きな熊手が飾られていた。
元旦などは参拝者が多くて拝殿前から階段下まで長い行列が出来るのだが、3日目にな
ると列は短くなっていて10分前後で参拝出来た。
拝殿の左手にある面亀のテントにはたくさんのだるまが並び、そばの狛犬にも奉納され
ていた。
境内の絵馬掛けには、合格やコロナ終息などを祈願する新しい絵馬が並ぶ。
御守り頒布所は2か所あり、その一方で私も例年同様に交通安全の御守りを分けていた
だいた。
境内中段から西に下る参道を下りて、大ケヤキの前を通過する。このケヤキは市の「ふ
るさとの樹(巨樹)」の第1号に指定されている。
西参道を出てふり返る所沢神明社。境内にはほかにもケヤキの巨木が何本かある。
西側の通りを南下するとすぐ、通りの西側に唐風の門の寺がある。新光寺で、この門は
普段は閉じていて、開いているのを見たのは初めて。
門前には「幸先詣(さいさきもうで)」ののぼりが立ち、傍らの掲示板にその説明があ
った。
新光寺は「馬の町の寺、所沢観音」として知られ、本尊の聖観音菩薩は行基菩薩の作と
伝えられ、慶安2(1649)年には幕府から6石の朱印が出されたとか。
武蔵野三十三観音霊場第10番、狭山三十三観音霊場第8番、奥多摩新四国霊場八十八
か所第24番霊場である。
この場所は旧鎌倉街道の傍らにあり、「新編武蔵風土記稿(しんぺんむさしふどきこう)」
や「吾妻鏡」「江戸名所図会」などの地誌に、建久4(1193)年に源頼朝が那須野へ
鷹狩りに行く途中でここで昼食をとった折に、そのときの幕舎の地を寄進したといわれて
いるよう。
また、元弘3(1333)年に新田義貞が鎌倉攻めの途上で必勝を祈願し、北条氏を平
らげた帰途に再び立ち寄り、前にかすめ取られた土地を寄進したとも伝えられるという。
いつもは山門の左手から入っていたのだが、今日は初めて門をくぐる。正面には観音像
が立ち、その奥には六角堂がある。
この観音様は昨年春紹介したが、新型コロナウィルスの感染拡大が一向に治まらないの
で、依然としてマスクを付けたまま。
六角堂の右手に観音堂が祭られており、いつものように新型コロナウィルスに感染しな
いよう、あわせて早期終息も祈り参拝した。
新光寺のそばも東川が流れており、上流の西に向かって進むと、民家の庭先の紅梅がか
なり開花していた。
1月4日(月)
午前中は、年末に故障した冷蔵庫の買い換えのため近くの量販店ノジマに出かけたので、
市内ウオーキングはいつもと違って午後になり、西武新宿線の新所沢駅周辺を巡り、日が
傾き始めた15時30分過ぎに愛宕大権現を祭る愛宕神社へ。
周辺は緑町3丁目の旧日本住宅公団、URの中層住宅が多いところ。その中に残された
緑の一角に拝殿は西向きに立つている。
もとは、近くの通称愛宕山と呼ばれたところにに享保14(1729)年に建立された
ようだが、昭和34(1959)年からの日本住宅公団の新都市計画により移転を余儀な
くされ、現在地には昭和40(1965)年11月に遷座されたという。
境内には、市立向陽中美術部の皆さんが描いて昨年11月29日(日)に奉納したとい
う、今年の干支・牛の大きな絵馬が奉納されていた。
南に進んで西武池袋線の線路を越える。線路の南側斜面の通称「くぬぎ山」と呼ぶ市の
保存樹林の多くを占めるクヌギが夕日に染まっていた。
1月5日(火)
昨日までは、いつも巡っている市内ウオーキングのエリアだが、今日は久しぶりに少し
離れた西方の北野地区に足を向けることにした。
国道463号線バイパスの大六天交差点の少し先からから裏道を西進し、小手指(こて
さし)小近くまで進むと、民家の庭先にかなり大きなシダレザクラが見えた。
小手指小や小手指中の裏手を進み、小手指中の南側の森に祭られた北野天神社に西側の
鳥居から入る。
北野天神社は、景行天皇の時代、日本武尊が東征の折に当地に2神を祭ったのが初めの
よう。武蔵国の延喜式内社(えんぎしきないしゃ)入間郡5社のひとつに数えられた由緒
ある古社という。
その後、長徳5(995)年には菅原道真5世の孫修成が武蔵守となって武蔵国に下向
し、この地に京都の北野天満宮を祭り、以後北野天神と呼ばれるようになったとか。
武家の信仰も厚く、源義家や頼朝、足利尊氏、前田利家などによりしばしば社殿が造営
され、現在の社殿は安永年間(1770年代)の建築で、拝殿、幣殿は平成6(1994)
年の改築という。
拝殿に参拝し、今日も新型コロナウィルスに感染しないようなど祈願する。正月にこの
ように何か所かに参拝すれば、新型コロナウィルスにもとりつかれないのではないかと期
待するが、あわせて3密を避けるなど日々の予防対策もしっかりしなくては・・
拝殿近くにある、令和の御大典記念事業への奉賛を求める掲示には、「江戸名所図会
(えどめいしょずえ)」に描かれた当社の絵が。
境内にはいくつかの摂社があり、西側のひとつは養蚕や糸繰・裁縫・機織など女性の美
徳を備えた「多治比文子」と呼ぶ女神を祭るという文子天神社(はた神様)。
西側中央部には小手指神社が。
日清・日露の両戦役から第二次大戦に至るまでの戦に参戦して英霊となった方々を祭っ
た社で、毎年4月15日には慰霊祭が行われるという。
拝殿前には「航空神社跡」の標柱もあり、その当時奉納されたらしい航空関係ゆかりの
人が奉納したことを記した木札が拝殿内に並んでいた。
ちなみに徳川好敏は、明治43(1910)年12月に国内初の飛行機により空を飛び、
のち昭和19(1944)年3月~終戦直後の昭和20(1945)年9月まで陸軍航空
士官学校長だった人。
拝殿近くにはこんな人形などが。
奉納された絵馬は、天神様にちなみ合格祈願が多い。
テントの中に、初めて見た木とわらで作った神馬が立っていた。令和の幕開けを祝い氏
子の有志により奉納されたよう。
昔は境内に馬場もあり、流鏑馬(やぶさめ)も行われたという。
境内には、前田利家が天正18(1590)年に小田原攻めの際に立ち寄り献栽したと
いう大納言梅があるが、まだ花は数輪のみ。
また、日本武尊が東征の折にお手植えしたという、尊桜(みことざくら)の4度目のひ
こばえという桜の古木もある。
木の下には、市内では最古の歌碑で享和2(1802)年建立の「尊桜の歌碑」も立っ
ていた。
別の場所には、「常道の芸では さきがしれてる されば 道遠き苦難の みちを求め
ん」と芸道を詠んだ、地元三ヶ島出身で当社の神官を務めた家系だったという昭和の喜劇
俳優、左卜全(ひだりぼくぜん)の歌碑も。
新年5日目だが、境内には露店のテントもひとつだけ出店している。
南側正面の2つの鳥居を抜けて、北野天神社を後にした。
1月6日(水)
最後は、所沢中心街に最も近い有楽町の薬王寺へ。ここも市内ウオーキングで良く通過
するルートのひとつ。最近改築された新しい山門を入る。
薬王寺は、新田武蔵守義宗が戦に敗れた後、再起の時を待つために密かに隠れ住んだと
ころとか。
ところがその後、足利市が勢いを増して南北朝も統一され戦乱も収まったとの話を聞き、
義宗は髪を落として衣を着て今までの隠れ家をお堂に改め、薬師如来を彫刻して一族や部
下の菩提を弔ったのが始まりとされるよう。
境内で目につくのが2本の大イチョウ。近年伐採されて枝張りは短いが、幹の太さと幾
つもの乳注(気根)や幹の太さから樹齢の多さが感じられ、市の保存樹木になっている。
本堂はコンクリート造りの堂々たるもの。いつものように拝礼して新年初もうでのひと
区切りとした。
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内のうちでも比較的自宅に近い寺社へ5日かけて、ウオーキングを兼ねての初もうでに出
かけた。
2021年1月2日(土)
所沢航空公園の日本庭園に入ると、茶室・彩翔邸(さいしょうてい)前の紅梅がかなり
花を増やしていた。
庭園の池は、年末からの寒波で凍っている。
航空発祥記念館前の芝生広場には、家族連れなど市民がたくさん訪れていた。
蝋梅園内のロウバイは100本前後あるかと思われるが、咲きだした木はわずか。
子ども広場でも、たくさんの子どもたちが元気に遊びまわっていた。
今日最初の初もうでは、航空記念公園の南側、西新井町にある熊野神社へ。
昨年暮れに来たときには形が崩れていた鳥居の大蛇は、新年を迎え新装されていた。
拝殿に参拝して、新型コロナウィルスに感染しないよう、そして早く終息するよう祈願
した。
拝殿前のテントでは、鳥居の大蛇に用いた稲ワラで作った御守りを新型コロナウィルス
などの疫病除けとして頒布していたので、ひとついただき(200円)、あわせて焼きた
ての暖かいサツマイモもサービスでいただいた。
境内南西端の西新井不動堂は普段閉じているが新年で開帳され、不動明王を拝顔できた。
木彫漆塗りの不動明王は、身の丈57㎝で江戸時代初期に建立されたといわれているよ
う。家内安全、無病息災、五穀豊穣、子孫繁栄、学業成就などに御利益があるという。
この後は、市内中心部を西から東に流れる東川(あずまがわ)沿いに西進して、自宅最
寄りの神社、六所(ろくしょ)神社に参拝する。
六所神社の創建年代は不詳のようだが、東京・府中市の大國魂神社を勧請して創建され
たよう。
本殿の左手には、明治43(1910)年に合祀したという2つの稲荷社が並ぶ。
1月3日(日)
今日の市内ウオーキングの後半で、所沢の総鎮守である所沢神明社に詣でる。
境内南東側中段には人形殿があり、男性用の兜が拝殿右手に、女性用のひな人形は左手
に奉納されている。
人形殿前には、いくつかの露店が出店していた。
所沢神明社は、日本武尊が東征の際、天照大神を祭り勝利を祈願したのが創始とされ、
古くから所沢村の鎮守だったようで、現在も所沢の総鎮守である。
南側正面の鳥居から上がった中段には、市内にある熊手や人形など縁起物製造業「面亀
(めんかめ)」が奉納した大きな熊手が飾られていた。
元旦などは参拝者が多くて拝殿前から階段下まで長い行列が出来るのだが、3日目にな
ると列は短くなっていて10分前後で参拝出来た。
拝殿の左手にある面亀のテントにはたくさんのだるまが並び、そばの狛犬にも奉納され
ていた。
境内の絵馬掛けには、合格やコロナ終息などを祈願する新しい絵馬が並ぶ。
御守り頒布所は2か所あり、その一方で私も例年同様に交通安全の御守りを分けていた
だいた。
境内中段から西に下る参道を下りて、大ケヤキの前を通過する。このケヤキは市の「ふ
るさとの樹(巨樹)」の第1号に指定されている。
西参道を出てふり返る所沢神明社。境内にはほかにもケヤキの巨木が何本かある。
西側の通りを南下するとすぐ、通りの西側に唐風の門の寺がある。新光寺で、この門は
普段は閉じていて、開いているのを見たのは初めて。
門前には「幸先詣(さいさきもうで)」ののぼりが立ち、傍らの掲示板にその説明があ
った。
新光寺は「馬の町の寺、所沢観音」として知られ、本尊の聖観音菩薩は行基菩薩の作と
伝えられ、慶安2(1649)年には幕府から6石の朱印が出されたとか。
武蔵野三十三観音霊場第10番、狭山三十三観音霊場第8番、奥多摩新四国霊場八十八
か所第24番霊場である。
この場所は旧鎌倉街道の傍らにあり、「新編武蔵風土記稿(しんぺんむさしふどきこう)」
や「吾妻鏡」「江戸名所図会」などの地誌に、建久4(1193)年に源頼朝が那須野へ
鷹狩りに行く途中でここで昼食をとった折に、そのときの幕舎の地を寄進したといわれて
いるよう。
また、元弘3(1333)年に新田義貞が鎌倉攻めの途上で必勝を祈願し、北条氏を平
らげた帰途に再び立ち寄り、前にかすめ取られた土地を寄進したとも伝えられるという。
いつもは山門の左手から入っていたのだが、今日は初めて門をくぐる。正面には観音像
が立ち、その奥には六角堂がある。
この観音様は昨年春紹介したが、新型コロナウィルスの感染拡大が一向に治まらないの
で、依然としてマスクを付けたまま。
六角堂の右手に観音堂が祭られており、いつものように新型コロナウィルスに感染しな
いよう、あわせて早期終息も祈り参拝した。
新光寺のそばも東川が流れており、上流の西に向かって進むと、民家の庭先の紅梅がか
なり開花していた。
1月4日(月)
午前中は、年末に故障した冷蔵庫の買い換えのため近くの量販店ノジマに出かけたので、
市内ウオーキングはいつもと違って午後になり、西武新宿線の新所沢駅周辺を巡り、日が
傾き始めた15時30分過ぎに愛宕大権現を祭る愛宕神社へ。
周辺は緑町3丁目の旧日本住宅公団、URの中層住宅が多いところ。その中に残された
緑の一角に拝殿は西向きに立つている。
もとは、近くの通称愛宕山と呼ばれたところにに享保14(1729)年に建立された
ようだが、昭和34(1959)年からの日本住宅公団の新都市計画により移転を余儀な
くされ、現在地には昭和40(1965)年11月に遷座されたという。
境内には、市立向陽中美術部の皆さんが描いて昨年11月29日(日)に奉納したとい
う、今年の干支・牛の大きな絵馬が奉納されていた。
南に進んで西武池袋線の線路を越える。線路の南側斜面の通称「くぬぎ山」と呼ぶ市の
保存樹林の多くを占めるクヌギが夕日に染まっていた。
1月5日(火)
昨日までは、いつも巡っている市内ウオーキングのエリアだが、今日は久しぶりに少し
離れた西方の北野地区に足を向けることにした。
国道463号線バイパスの大六天交差点の少し先からから裏道を西進し、小手指(こて
さし)小近くまで進むと、民家の庭先にかなり大きなシダレザクラが見えた。
小手指小や小手指中の裏手を進み、小手指中の南側の森に祭られた北野天神社に西側の
鳥居から入る。
北野天神社は、景行天皇の時代、日本武尊が東征の折に当地に2神を祭ったのが初めの
よう。武蔵国の延喜式内社(えんぎしきないしゃ)入間郡5社のひとつに数えられた由緒
ある古社という。
その後、長徳5(995)年には菅原道真5世の孫修成が武蔵守となって武蔵国に下向
し、この地に京都の北野天満宮を祭り、以後北野天神と呼ばれるようになったとか。
武家の信仰も厚く、源義家や頼朝、足利尊氏、前田利家などによりしばしば社殿が造営
され、現在の社殿は安永年間(1770年代)の建築で、拝殿、幣殿は平成6(1994)
年の改築という。
拝殿に参拝し、今日も新型コロナウィルスに感染しないようなど祈願する。正月にこの
ように何か所かに参拝すれば、新型コロナウィルスにもとりつかれないのではないかと期
待するが、あわせて3密を避けるなど日々の予防対策もしっかりしなくては・・
拝殿近くにある、令和の御大典記念事業への奉賛を求める掲示には、「江戸名所図会
(えどめいしょずえ)」に描かれた当社の絵が。
境内にはいくつかの摂社があり、西側のひとつは養蚕や糸繰・裁縫・機織など女性の美
徳を備えた「多治比文子」と呼ぶ女神を祭るという文子天神社(はた神様)。
西側中央部には小手指神社が。
日清・日露の両戦役から第二次大戦に至るまでの戦に参戦して英霊となった方々を祭っ
た社で、毎年4月15日には慰霊祭が行われるという。
拝殿前には「航空神社跡」の標柱もあり、その当時奉納されたらしい航空関係ゆかりの
人が奉納したことを記した木札が拝殿内に並んでいた。
ちなみに徳川好敏は、明治43(1910)年12月に国内初の飛行機により空を飛び、
のち昭和19(1944)年3月~終戦直後の昭和20(1945)年9月まで陸軍航空
士官学校長だった人。
拝殿近くにはこんな人形などが。
奉納された絵馬は、天神様にちなみ合格祈願が多い。
テントの中に、初めて見た木とわらで作った神馬が立っていた。令和の幕開けを祝い氏
子の有志により奉納されたよう。
昔は境内に馬場もあり、流鏑馬(やぶさめ)も行われたという。
境内には、前田利家が天正18(1590)年に小田原攻めの際に立ち寄り献栽したと
いう大納言梅があるが、まだ花は数輪のみ。
また、日本武尊が東征の折にお手植えしたという、尊桜(みことざくら)の4度目のひ
こばえという桜の古木もある。
木の下には、市内では最古の歌碑で享和2(1802)年建立の「尊桜の歌碑」も立っ
ていた。
別の場所には、「常道の芸では さきがしれてる されば 道遠き苦難の みちを求め
ん」と芸道を詠んだ、地元三ヶ島出身で当社の神官を務めた家系だったという昭和の喜劇
俳優、左卜全(ひだりぼくぜん)の歌碑も。
新年5日目だが、境内には露店のテントもひとつだけ出店している。
南側正面の2つの鳥居を抜けて、北野天神社を後にした。
1月6日(水)
最後は、所沢中心街に最も近い有楽町の薬王寺へ。ここも市内ウオーキングで良く通過
するルートのひとつ。最近改築された新しい山門を入る。
薬王寺は、新田武蔵守義宗が戦に敗れた後、再起の時を待つために密かに隠れ住んだと
ころとか。
ところがその後、足利市が勢いを増して南北朝も統一され戦乱も収まったとの話を聞き、
義宗は髪を落として衣を着て今までの隠れ家をお堂に改め、薬師如来を彫刻して一族や部
下の菩提を弔ったのが始まりとされるよう。
境内で目につくのが2本の大イチョウ。近年伐採されて枝張りは短いが、幹の太さと幾
つもの乳注(気根)や幹の太さから樹齢の多さが感じられ、市の保存樹木になっている。
本堂はコンクリート造りの堂々たるもの。いつものように拝礼して新年初もうでのひと
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