癌春(がんばる)日記 by 花sakag

2008年と2011年の2回の大腸癌手術
   ・・・克服の先に広がる新たな春を生きがいに・・・

旭川市歴史探訪

2020年09月14日 | 街並み・歴史探訪・ドライブ

旧旭川偕行社(現中原悌次郎記念旭川市彫刻美術館)~旧陸軍第七師団将校の社交場だった。

 雨の中を「旭川市歴史探訪探訪マップ」や「旭川市ガイドマップ」をもとに、あちこち走り回った。

 まずは、道の駅の向かいにある「旭川市博物館」へ。非常に広々した博物館で、日本遺産に認定されている上川アイヌや屯田兵開拓、旭川市の自然的、発展の歴史など、充実した展示がされていて、見ごたえがある。

旭川兵村記念館~明治25年に旭川兵村に入植した屯田兵や家族の共闘の歴史と暮らしが展示されている。

 北鎮記念館~屯田兵や第七師団の資料館。しかし、休館日で見ることができなかった。昔の第七師団の広大な敷地がそのまま自衛隊の敷地になっている。

 川村カト子アイヌ記念館~旭川の歴史と自然の紹介、アイヌの人々の暮らしなどを展示している

 常盤公園~「日本の都市公園100選」に選ばれている旭川市で最古の公園。

 旭橋~昭和2年建設当時のまま残る、旭川を象徴する最古の橋。北海道遺産や土木遺産に選定されている。

上川倉庫群~国の重要文化財。1号館は大雪ビール館。

 上川地方に現存する最古の建物~明治19年8月道庁の農作試験所として建設。

 現あさでん春光整備工場(旧第七師団騎兵第七連隊覆馬場)~大正元年築。国の重要文化財。

 昭和2年築の西島倉庫。

 旭川最古の醤油屋、昭和19年創業の日本醤油工業「キッコーニホン」

 

 創業117年を迎える高砂明治酒蔵

 合同酒精旭川工場の敷地に建つ、大正3(1914)年建造の神谷酒造(後の合同酒精)の旧蒸留塔。

 旭川の酒蔵では、もう一社、有名な男山酒造もある。

 昼は、たまたま通った旭川ラーメン村へ

 ラーメン村で一番人気の「らうめん青葉」で、チャーシュー醤油ラーメンを食べた。美味しいのだろうけど、どうも旭川ラーメンは好みではない。

 まだ、時間がなくて回り切れないところもあった。また、他にもカメラに収めた建物もあったが省略。

 明日は、遠軽のコスモス園と網走能取湖のアッケシソウを見に行く予定。これから、そちらへ向かい、適当な道の駅でどこでもホテル。


滝沢町の由来となっている滝のある高宮大神

2020年09月09日 | 街並み・歴史探訪・ドライブ

 悪天候が続いた先週、家にこもりがちで、ネットサーフィンをしていたら、函館市内でまだ知らないところが見つかった。それは、滝沢町の奥にある高宮大神というところであった。見たことのない神社はたくさんあるが、ここには3段の滝があり、それが滝沢町という町名の由来となっているという。滝好きとしては、行かねばなるまい・・・。

 距離を測ったら往復15kmほどなので、ロングウォークで行きたかったが、朝からギラッと暑い中では歩く気がしない。つかの間の涼を求めに、車で行ってきた。

 香雪園の西側を流れる湯の川沿いの初めて走る未舗装の道を山の方に進むと、突き当りに赤い鳥居の神社が建っていた。

 もともとこの滝のそばには地図上に記載されている瀧乃澤神社があったようだ。そのそばに、新しく高宮大神という本格的な神社が建てられたということらしい。沿革などの説明はないが、いろいろ調べていたら、以前は弁天町にあった神道大教日天講社がここに神社を建てて移転したようだ。鳥居を見ると、平成10年代に建てられたようで、寄贈者の名前が書かれている。

 駐車場から本殿の方へ上がらないで、鳥居の前を川沿いに進むと、右手に滝が見えてきた。

 滝の手前に「旧御本殿跡」の標柱が立っている・・・最初は、ここに小さな本殿があったのだろう。

 暑い日なので、涼感に癒される。

 上にしめ縄が張られている。

 対岸に廃屋が・・・右の建物の玄関わきに「瀧乃澤神社」の表札が見えた。

 本殿の建つ境内

 本殿の裏に並ぶ社殿

 

 2月3日の節分の日に、御滝の水を浴び一年の無病息災を祈祷する寒修行が行われるようだ(他サイトから借用)。

 また、その時にでも行って、氷瀑や行の様子を見ようと思っている。

 今日も30℃超えになり、季節外れの残暑が続いているが、この暑さも、今日までのようだ。ところが、この後、 気象庁から低温に関する早期警戒情報が出されている。週間予報を見たら、土曜日以降の最高気温は20度以下が続く。一気に涼しくどころか寒くなるようだ。しかも、ずっと雨絡みの予報・・・


城岱ヒルクライム第4弾~七飯町・北斗市の庚申塚巡り

2020年07月20日 | 街並み・歴史探訪・ドライブ

 折り返し地点の「城岱牧場展望台」(560m)~薄いガスが懸かって、函館山は微かにしか見えなかった。カメラには写っていない。

 GPSトラックログと庚申塚(塔)等の所在地。走行距離56.8km。所要時間4時間30分。

 先週1週間は、アウトドアや登山の計画を組んだが、ことごとく悪天候に阻まれて計画倒れに終わった。運動不足感が否めない。幸い、今日は朝から青空が広がったので、MTBでの城岱スカイラインヒルクライムのあと、かねてから温めていた、七飯町と北斗市の庚申塔(塚)巡りサイクリングをした。

 本州の街道歩きでは、庚申塔(塚)は嫌というほど目にする石塔の一つである。本州でも江戸時代の建立のものが多かった。庚申信仰にはそれほど興味はないが、この北海道で、江戸時代の年号が刻まれた石塔や石仏を目にできるのはこの道南だけである。その歴史遺産の存在に興味がある・・・という次第である。

 七飯町の「古峠庚申塚」や北斗市の「千代田の庚申塔」は、これまでも目にしたことがある。いろいろ調べてみたら、そのほかに、七飯町の峠下と仁山に、北斗市にも本郷と文月にあることが分かったので、それをサイクリングがてら巡って、カメラに収めて来た。ネット検索でヒットするのは、北海道でここだけである。歴史の古い松前や函館でも聞いたことも目にしたこともない。

 庚申塚(搭)とは、中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔である。庚申塔の建立が広く行われるようになるのは、江戸時代初期頃とのこと。当初は青面金剛や三猿像のほか、阿弥陀、地蔵など主尊が定まっていない時期を経て、徐々に青面金剛像が主尊の主流となった。その後、江戸中期から後期にかけて「庚申塔」あるいは「庚申」と文字のみ彫り付ける形式が増加したらしい。

古峠庚申塚(七飯町)

七飯町史跡「古峠庚申塚」の囲み塀と赤松の古木~この前の道は、昔の箱館から七重村を通って、古峠へ向かう旧道であった。

 この場所には、計7基の庚申塔がまつられており、古いもので、天保14年(1843)、嘉永3年(1850)ものが建立されている。

箱館戦争(戊辰之役)関係の遺物

 庚申塚の上に500mに渡って直線的に続く旧幕府軍が築いた「土塁跡」~下載の箱館戦争勃発の地の横を通って延びている。

 箱館戦争勃発の地碑の入口に立つ、この付近の史跡案内地図

「箱館戦争戦死者墓碑群」~新政府軍5名の墓碑群

 墓碑群の中にある「峠下戦跡戊辰役勃発之地」碑~森町鷲ノ木より上陸した旧幕府軍は、土方歳三と大鳥圭介の二手に分けて五稜郭を目指した。明治元年10月、峠下村の旅籠に宿営してしていた大鳥軍と、これを挟撃しようと計画した新政府軍がこのあたりで衝突、一発の銃砲を皮切りに箱館戦争が勃発する。

 人見隊は巧みに移動しながら側面攻撃を加え、そこに大鳥隊も到着したため、夜を徹した銃撃戦は旧幕軍の勝利に終わった。装備の差に加え、旧幕軍は関東、奥羽、会津と転戦してきた歴戦の兵士であり、箱館府兵の敵う相手ではなかったという。

 平成になってから、七飯町郷土史研究会の有志により石碑が建立された。

「峠下の庚申塔」(七飯町)

 弘化2年(1845年)に建立された庚申塔。峠下公民館のそばにある。近隣の家で守られていて、庚申の日には猿田彦の掛け軸を掲げ、ロウソクをともし供物をささげているそうだ。

 この前の道はかつての市渡村と峠下村を結ぶ旧道であった。松前方面から奥地へ向かうにはこの道を通って、古峠を越えて大沼方面へ抜けた。

 このすぐ近くに15歳~20歳まで住んでいて、いつも通学時に通っていたが、興味がなかったためか、全く記憶にない。

「仁山の庚申塚」(七飯町)

 ここもかつての市渡村と峠下村を結ぶ旧道であった。嘉永5年(1852年)、安政2年(1855年)、文久2年(1862年)、昭和18年(1943年)の4基の庚申塔が建っている。

 これら、峠下地区に3ヶ所もの庚申塔(塚)が残っているところを見ると、江戸時代のこの辺りは庚申信仰が盛んだったことが伺える。当地には、近年まで寄り合い、互助の講の一つとして伝えられていたようだ。

「本郷の庚申塚」(北斗市)

 鹿島神社境内に設置されている北斗市最古の庚申塚~「奉鎮祭庚申太祖猿田彦太神」と彫られている。庚申塚が建てられたのは寛政8年(1796年)で、文化2年の大開田より9年前のこと。この地が、文化年間(1804〜1818年)に箱館奉行の手で水田の開発が行われた頃は、「庚申塚」と称されていた。
 鹿島神社が寛政年間(1789〜1800)の鎮座となっており、このころから人家も増えたものと考えられる。境内がミニなパークゴルフ場になっているお茶目な神社。

北斗市向野の「鈴木牧場牛乳」で、ソフトクリーム(320円)を食して休憩。

「文月の庚申塚」(北斗市)

 文化9年(1812)建立。本郷の庚申塚と同じ「奉鎮祭庚申太祖猿彦太神」と彫られているが、本郷の庚申塚の16年あとに建立されている。建立当時はここに猿田彦神社があったようだ。

 碑面には、文字が摩滅しかけているが頭取13人の名前が刻まれており、これが文月の人名を記した最古のものであり、大野では本郷の庚申塚に次いで2番目に古いものとされている。そばに生えるケヤキの巨木は、この庚申塚と同じ年数を刻んでいるようだ。

千代田の庚申塔(北斗市)

 嘉永3年(1850年)建立。この場所は松前方面から奥地(道央)へ往来する役人や探検家も通過した道で、道中の安全と村に災いが入らないことを祈願したものと考えられる。碑面には名主以下の三役と千代田の重立人の6名の名が彫られている。


函館最古の漁村風景の面影を残す入舟町界隈探訪

2020年07月11日 | 街並み・歴史探訪・ドライブ

 昨日の厳島神社のあと、入舟町界隈もMTBで回ってみた。入舟町は、昭和40年7月に当時の山背泊町全部、旅籠、台場、大黒、天神、弁天町の各一部が合併され、新しくできた町名である。この界隈は、函館の歴史の中でも古くから居住地として拓け、最初に漁村集落が形成された地域である。

 特に旧山背泊町は、昔から山背泊と呼ばれ、函館で最も古い漁村で、函館漁港(入舟漁港)は函館最古の港である。昔は船入澗と呼ばれていたようだ。今でも函館山裾の狭い海岸沿いに軒を連ねた家並みに当時の面影が残る。いつ頃から住み着いたのかは不明だが、新潟県出身者が多いという。

 厳島神社の道路を挟んだところに建つ「弁天台場の説明版」~江戸幕府が安政3年(1856年)~文久3年(1863年)にかけて、外国船襲来に備えて、箱館湾沖に設営された台場。弁天岬台場、弁天砲台ともいう。設計者は五稜郭と同じ武田斐三郎。

 しかし実際に使用されたのは箱館戦争という内戦においてだった。箱館戦争終盤の函館湾海戦において、新選組が中心となった旧幕府軍はこの台場にたてこもり奮闘したが、箱館市内が新政府軍によって占領され孤立。明治2年(1869年)5月15日、本陣五稜郭に先立って弁天台場は新政府軍に降伏した。

 明治30年頃に取り壊され、現在は函館どつく入口前に碑が建つのみとなっている。なお使われていた石材は函館漁港(入舟漁港)の護岸に使用されている。

 そのそばに建つ「新選組最後の地」碑~新選組が中心となった旧幕府軍はこの弁天台場にたてこもり奮闘したが、新政府軍に降伏。

 旧町名碑「台場町」~「台場町は、明治32年(1899年)に設けられた町です。函館港の改良工事による埋め立てによってできた5町(小舟町、帆影町、仲町、台場町、新浜町)の一つで、弁天台場の跡地であったことにちなんで付けられた町名です」と彫られている。ほかの4町の旧町名碑はない。

 旧町名碑の向かい側は函館どつくの敷地となっている。古いレンガ造りの倉庫が目を引く。

 函館漁港(入舟漁港)~現代土木の父と呼ばれた広井勇氏が設計・監督した、明治29年の石積防波堤を修復・保全しながら改良し、防波堤が新しく生まれかわった。この石積防波堤の一部には、幕末の戦い・箱館戦争の拠点となった「弁天台場」の石が使用されている。

 函館でイカの水揚げは函館港とこの入舟漁港で行われているが、水質の良さから活イカは入舟漁港を中心に水揚げされている。

 「函館港改良工事紀念」碑~「明治29年6月起工、明治32年4月建立」と彫られている。これが、広井勇氏の設計・監督した工事である。

 平成25年に、どつくの方へ向かって、古い石積防波堤の上に嵩上げ工事がされいる。

 明治時代のままの石積防波堤と古い灯台。現在はこの先にも広い漁港が造られている。

 旧町名碑「山背泊町」~「江戸時代から山背泊と呼ばれていた所ですが、明治5年(1873年)に山背泊町になりました。「やませ」は「東風」、「とまり」は「泊」のことで、東風は服と船は港には入らず、ここの船入澗に仮泊下と言われています。」と彫られている。

 車1台がようやく通れるくらいの昔のままの狭い路地のような家並みが続く。

 この手前に、函館漁業協同組合入舟支所があるが、3年ほど前までは、漁協婦人部が「入舟番屋」という食堂を営業し、活イカのいか刺し定食を提供して評判だったが、昨年からは不漁のため、営業していないのが残念である。

 「てんこの坂」~ここを登れば、名前の由来となっている旧天光稲荷(現入舟稲荷神社)の前を通り、高龍寺の前に出る。

 いにしえの漁村風景が残る家並みで、個人的には、非常に好きな光景である。

 狭い家並みを抜けると海岸に出る。この辺りは前浜海水浴場となる。

 さらに進むと、行き止まりになっている。この先は穴澗へと続く。左は石切り場跡だが、ここから切り出された石は、五稜郭、弁天台場、函館山要塞の石垣に使われたらしい。

 この先の穴澗岬の陰には、昔は吊り橋があって、その奥に寒川があった。現在はその吊り橋はないので、跡へは、山を越えて裏側の寒川海岸へ下りるしか方法はない。その「寒川跡の探訪記録」は、下記でどうぞ!

 2019,1,3(穴澗神社参拝路~穴澗砲台跡~山背泊コース~寒川海岸~寒川跡~寒川コース~千畳敷コース~穴澗神社参拝路)

 2016,3,21(鴬谷コース~寒川コース~寒川跡~穴澗裏側~山背泊コース~入江山~旧登山道~汐見コース)


艶っぽい道祖神?に惹かれて厳島神社参り

2020年07月10日 | 街並み・歴史探訪・ドライブ

 市電の函館どつく前電停そばにある厳島神社・・・古くから海の守護神として、海上の安全を祈願する漁業者や商人から信頼を得ている。函館山七福神の神社で「弁財天・恵比寿堂」がある。

 この神社を訪ねる気になったのは、境内には寄進された古くて貴重な遺物が多いこと、特にその中で、興味を抱いたのは、歴史の浅い北海道ではほとんど見られない道祖神らしきものがあり、それも、珍しい形をしているということだった。

 天候も良いので、MTBに跨って、サイクリングがてらこの厳島神社と入舟町界隈を巡ってきた。

 この神社の創建は江戸時代前期といわれ、以前は弁天社と称されていた。弁天社は1871(明治4)年に市杵島(いちきしま)神社と改められ、のちに厳島神社と改称された。

 何度か場所を変え、一時は海中に島をつくって祀った時代もあるらしいが、幕末に現在地に移っている。現在の建物は1907(明治40)年の大火後、大正時代に建てられたもの。現在、目の前には道路があり、路面電車や多くの車が走っているが、古地図を見ると、神社の前は海だったようだ。海上の安全を祈願する船乗りたちのため、陸に背を向け海に向いて建っていたことがわかる。

 境内に入ってすぐ右手には、龍と鷹?が設置された手水石鉢・・・これは文政6(1823)年寄進と彫られている。願主 伊達氏 栖原氏とあり、当時の場所請負人の名前らしい。

 左手には、昔の錨と、なぜか92式7粍7機銃留式7.7mm機銃)が祀られている。台座には、「港祭記念昭和十年七月一日」とあり、寄進は、「函館西部共助会料理屋一同」となっている。

 鳥居手前の右にある、天保9年(1838年)寄進の手水石鉢・・・「大坂 昆布屋 回舩中」と彫られているところを見ると、大阪の昆布商人の廻船主が寄進したものであろう。

 1837(天保8)年に加賀の廻船主たちが寄進した鳥居

 鳥居の右横にある、1854(嘉永7)年、海上安全のため奉納された「方位石」~寄進者は「當所大町 米屋平松 金膳丸喜左衛門」となっている。

鳥居を潜ると、左側に、今回の一番の目的だった道祖神?~稲荷社~弁財天・恵比寿堂と3つの社が並ぶ。

 今回、この神社に来るきっかけとなったのは、この「道祖神?」だ。双胴体神の和合像もあるくらいだから、道祖神と言われても不思議はない。

 本州の旧街道歩きでは、いやというほど目にする道祖神だが、村境や辻に多く祀られ、疫病や悪霊の入り込むのを防ぎ、地域の人々を守る神様とされ、「道の神」として多くの旅人の信仰も厚かった。また、自然石のご神体から双胴体神の和合像などがあり、「縁結びの神」「生産の神」として崇められてきた。

 これが道祖神なら、妙に艶っぽいし、ピカソ的な?芸術的デフォルメが気になる。良く見ると、どちらも女性のようにも見えなくもないが・・・?

 そこで、社務所に入って、宮司さんに聞いてみた。「日吉町の人が、家を建てようとして、基礎を掘ったら、出てきたもので、形が神仏関係っぽい感じがしたので、捨てるわけにもいかず、この神社に持ってきたそうです。当初は境内の隅に転がしておいたが、ある時にスポーツ新聞にこれと似た感じの道祖神が掲載されていたので、もしかしたら、これもそうなのではないかと思って祀り直しました。これが出た辺りは、昔の湯の川村と函館市の境界付近なので、その付近に道があって、そこに祀られていたのかも知れませんね。」とのこと。この厳島神社では安産や縁結びの神として祀っているとのこと。

 なお、左のものは、動物や鳥が彫られているようだが、宮司さんも何か不明とのこと。

 弁財天・恵比寿堂の中の弁天さんと恵比寿さん

 あまり目にしたことのいない珍しいタイプの狛犬・・玉乗りタイプというらしい。慶応4(1968)年、北前船主の奉納。

 天水桶(雨水を貯める桶)・・・、「明治35年8月 寄進人 高岡市金屋町 金森・・・」とある。高岡は鋳物の産地なので、そこの鋳物師の作例であろうか?

 自分が一番見たかった道祖神以外の、これらの多くの遺物の寄進主や年号を見ても、古くから海の守護神として、地元漁業者のみならず、北前船関係の松前をはじめ、遠くは北陸、大阪などの商人の尊信を得ていたことがうかがえる。

※このあと巡った「入舟町界隈探訪」は後日紹介予定。


代車で松前半島ぐるっと・道の駅もぐもぐドライブ

2020年07月05日 | 街並み・歴史探訪・ドライブ

 次のX-TRAILの中古車が見つかるまでの代車は軽四のROOXという車である。思ったより中が広くて、走行感覚も悪くない。せっかくの日曜日なので、妻をエサで誘って、松前~江差をぐるっと回って「松前半島ぐるっと道の駅もぐもぐドライブ」に出た。

 今日のドライブのミッションは、途中の道の駅にすべて寄って、何かその町ならではのおやつを少し買って、食べながら・・・というつもりだった。すべての道の駅で、何か食べるものは買ったが、松前の道の駅で、昼食をしっかり食べたこともあり、食べきれずに、明日からのおやつとおかずになった。

 いつもは、何かのついでに寄る道の駅だったが、改めて、すべてに寄ってみたら、北斗市以外の町にはすべて道の駅(7ヶ所)があることが分かった。

道の駅みそぎの郷 きこない

ここで買ったのは、行列のできるパン屋・こっぺん道土(どっと)の「塩パンと明太子パン」、北島製パンの「北の豆あんぱん」・・・豆パンは食べずに持ち帰り。

 

道の駅 しりうち

 ここで買ったのは、「ニラクッキー」・・・これも食べずに持ち帰り。

 

道の駅 横綱の里ふくしま

 ここで買ったのは、「するめ」と「パリパリこんぶ」・・・するめは運転しながら食べたが、こんぶは持ち帰り。

 

道の駅 北前船 松前

 松前岩海苔は高くて買えなかったが、昼食に「松前海苔段々弁当」を食した・・・ボリュームがあり、腹いっぱいになった。

 

道の駅 上ノ国もんじゅ

 ここで買ったのは、安かった「高リコピントマト」2袋、かみのくに特産「こうれん」、アスパラとさやえんどう・・・すべて、持ち帰り。

 

道の駅 江差

 ここで買ったのは「五勝手屋羊羹」ミニサイズ・・・これもお持ちかえり。

 

道の駅 あっさぶ

 ここで買ったのは、「ココアソフトクリーム」・・・2人で1個食べただけ。

 家を10時に出て、帰宅したのは17時前・・・7時間ののんびりドライブを楽しんだ。

 今日は、2つの記事をアップ~「車検の見積もりにびっくり!・・・中古車への乗り換えへ」(この下にアップ済み)


戸井地区の産業遺産探訪

2020年06月14日 | 街並み・歴史探訪・ドライブ

 函館市旧戸井地区には、産業遺産や近代土木遺産に指定されている遺構として、「コンクリートアーチ橋」、「鰯袋澗」、「汐首崎砲台遺構」があるという。コンクリートアーチ橋はいつも見ているが、汐首崎砲台のことは知ってはいたが見たことがないし、鰯袋澗に至っては、初めて知った次第・・・ということで、カメラに収めに行ってきた。

コンクリートアーチ橋

 これはいつも目にしている旧戸井線の遺構である。津軽要塞の一部をなす汐首岬第一・第二要塞へ兵員物資の輸送目的で昭和11年(1936)着工。しかし戦局の悪化とそれに伴う資材不足から、昭和18年(1943)に全線29.2キロ中、2.8キロを残して工事は中断。したがって廃線ではなく幻の鉄路と言われている。

 敗戦によって戸井線の必要性も失せたことから、戦後は工事が再開されることも施設が維持管理されることも無く放置されたままになり、昭和46年になって戸井線全線は土地を含めて国鉄から自治体に無償譲渡されている。

 しかし、鉄が不足していた戦時中に建設されたために、橋脚や陸橋のコンクリートは鉄筋の換わりに木材や竹が使われていたり、コンクリート自体も粗悪なうえ長年風雨と潮風に晒されてきたため非常に脆くなっていて、専門家からは崩壊の危険性が指摘されている。

 なお、これらのアーチ橋の上は今でも歩けるし、自分も、湯の川から終点駅の予定だった戸井支所まで、この旧戸井線の上を歩いている。↓↓↓

旧戸井線探訪ウォーク②「湯の川~戸井間」の( 23km)」の記録 (2015,3,26)

旧戸井線探訪ウォーク①「五稜郭~湯川間」の記録(2013,12,11) 

 

鰯袋澗

 「袋澗」は2006年(平成18年)2月17日に水産庁が発表した「未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選」に選ばれているが、ここ以外の北海道の袋澗は、日本海側に多く残るニシンの袋澗である。それだけにこのイワシの袋澗は非常に貴重なものらしい。

 町史によると戸井町の鰯漁は、文政年間から始まり明治33年から昭和14年まで40年間も大漁が続いたそうだ。しかし現代のように設備が整っていなかった時代の事、海がシケて鰯を沖揚げ出来なくて海に棄てる事があったそう。そのような事態を避けるために網元によって造られたのが、この「袋澗(鰯をつめた袋網を入れた澗)」。

 町史によると、戸井町で最初に「袋澗」を造ったのは、小柳吉太郎氏で明治42年(1909)で、氏が若い頃に鰯漁の出稼ぎに出た後志地方で見たものを、地元に帰ってから見よう見まねで造ったらしい。以後、汐首岬周辺には石田玉蔵氏が明治44年、吉崎吉松氏が大正5年、境氏(名不詳)が大正6年、西崎吉太郎氏が対象7年、吉崎岩吉氏が大正12年に「袋澗」を造ったとのこと。


 写真に撮った「袋澗」は、「北海道~本州最短の地」の看板のすぐ下にある。これは、大正12年に吉崎岩吉が造ったもののようで、「吉崎の袋澗」と呼ばれている。

 

汐首崎第一砲台跡

迷彩色が印象的な旧戸井高校グランド手前の砲台遺構

 函館要塞は、明治29年頃から函館港と函館湾を守備することを目的に要塞設置が計画され、函館山全体が要塞となった。昭和に入り、守備範囲を広げる為に竜飛崎砲台及び汐首崎砲台及び大間崎砲台を完成させて、昭和2年名称を津軽要塞と変えている。
 昭和4年(1929)6月に工事が始まり、同8年に竣工。これにより、要塞は函館だけではなく津軽海峡全体を守ることとなった

 函館市史によるとこの周辺には全部で30cm榴弾砲が4門配備されていた。当初の予定では、汐首崎第一砲台には7年式30cm長榴弾砲計8門が配備される予定だった。しかし、刻々と変わる国際情勢により計画も再検討され、「汐首崎第二砲台」が昭和13年に起工し、途中で備砲を45式15cmカノン砲(改造固定式)2門から 96式15cmカノン砲4門に変更し、15年6月に竣工。逆に同年7月、汐首崎第一砲台の30センチ榴弾砲は撤去されている。

 最初は、旧戸井高校の前を通って奥へ進み、右手にあるグランドへの道路を入った。そのグランドの手前にあったのが、トップ画像の遺構である。この画像の右に写っている遺構は、トップ画像の裏側である。

 トップ画像の右手にある遺構は一段低いところに続いているようなので、道路を戻って、古い市営住宅の奥に見える方へ入ってみた。

グランドの右手に見えた遺構で、下の2枚の写真と半円状に繋がっている。

その右に続く中央部。木が植えられているところは円形になっているので、台座の跡か?

右翼部

 左翼部の内部は写真のようになっている。以前は付近の住民の物置となっていたようだが、今は整理されていて、中へ入れないようになっている。今日お会いした近所の方の話では、第二次世界大戦時には、砲台としての機能は終わっていて、住民の防空壕として利用していたとのこと。

 ちなみに、この敷地は旧戸井高校の奥にある古い市営住宅やグランドに接しているので、所有者は北海道もしくは函館市と思われる。付近にはこの遺構を伝える看板や標識などのものは一切ない。

 個人的には、非常に疑問が残る。汐首崎砲台というのに、海岸から1kmほど奥まった谷あいにあり、津軽海峡は見えないところである。このような海も見えないところに砲台を造った意味がが全く分からない。函館山要塞跡でも砲台は海が見える突き出たところや高いところに造られている。

 なお、汐首岬第二砲台、砲弾倉庫、観測所、地下火薬庫などは戦後、GHQの手によって爆破され、その痕跡はほとんど残っていないという。しかし、検索していたら、場所等の説明はないが、第二砲台跡の探訪写真中心のページが見つかった。今日お会いした近所の方の話では、「日新中学校の上の険しいところに砲台があったと聞いている」とのこと。これが第二砲台なら、高いところで海も見える。

 また、自分が、ここから直線距離で3kmほど東の、日浦岬の上の日浦御殿山(219m)に登った時に、やはり津軽要塞跡の遺構と思われるものを目にしている。

 であれば、もっと近く(直線距離で1.5km)の武井ノ島展望台に砲台か監視所(観測所)などがあっても不思議ではないと思い、帰りにそこにも寄ってみたが、それらしい遺構は見当たらなかった。しかし、今は展望台と東屋が建っているところにそれらがあったのかもしれない?

武井ノ島展望台から武井ノ島を眺める

展望台に咲いていたハマナス

展望台への遊歩道に咲いていたシュロソウとエゾキスゲ(エゾカンゾウ・エゾゼンテイカ)


寿都町探訪

2020年04月13日 | 街並み・歴史探訪・ドライブ

 島牧村はあまり見るところないので、今日は寿都町を探訪することにして、寿都道の駅で朝を迎えた。

 寿都はニシン漁で栄えた町だが、1669年(寛文9年) の頃、和人が集落を形成し、商場所(寿都場所)で交易が盛んに行われる。(寿都町の開基はこの年である)。1668年の婦女子通行禁止令により、江差追分で「忍路高島市およびもないが、せめて歌棄磯谷まで」 と謡われるように、神威岬から北への婦女子の通行が禁止された。このため寿都地方に土着する者が増えたという。ちなみに、磯谷と歌棄は寿都町である。

 まずは、北へ向かい、蘭越町との境界手前にある磯谷高原からスタートした。

 昔の磯谷牧場跡の磯谷高原から、寿都湾と狩場山塊を望む。

 

 磯谷高原から雷電山~ニセコ連峰~羊蹄山の連なり

 

 昔からあるインパクトの強い日本海食堂

 

 美谷神社~文政6年(1823)5月、場所請負人の柳谷庄兵衛が祀ったことに始まる。

 

 カクジュウ佐藤家~明治初期に建てられた典型的な漁場建築。洋風と和風が折衷されているのが珍しい。この佐藤家は北前船を3艘も持っていたそうだ。

 

 両側に当時の倉などを復元して整備中の「鰊御殿」。

 

 鰊御殿の国道を挟んで向かい側に建つ「江差追分」の碑と小さな神社。
 
 
 2棟の煉瓦造りの倉庫跡の間に移転してきたカキ小屋
 
 
 寿都湾に並ぶ町のカントリーサインにもなっている風力発電群と狩場山塊の連なり(左端は黒松内岳)
 
 
 町営「ゆべつの湯」
 
 
 寿都神社~寛永4年4月、北海道に向かう筑紫国の弁天丸という船が折からの暴風により遭難し漂流の後、寿都湾で座礁大破した際、幸いにも乗組員は神の御加護と地元住民の御陰で無事救助されたことに感謝し、船中に祀っていた弁天神を岩崎村の祠に奉祀、神鏡を納めて海上安全の主神として奉斎したことに始まる。
 
 道の駅でゆっくりしたいので、先に弁慶岬へ
 弁慶岬に建つ弁慶像の弁慶岬灯台。
 
 
 岬近くの岩礁の端に群れをなす釣り人。今はホッケが狙いとのこと。
 
 
 寿都道の駅みなとま~れ。
 
 
 道の駅の裏が寿都漁港。
 
 
 道の駅裏に展示されている昔のニシン漁に使用された船。
 
 
 道の駅で早めの昼食に食べた寿都のNo.1グルメ「ホッケめし」(1280円)~熱い鉄板に盛られたご飯とホッケの蒲焼き。初めて食べたホッケの蒲焼きだが、鰻の蒲焼きのたれよりややしょっぱめのたれと合い、とても美味しかった。町内のいくつかの店でも提供されている。
 
 午後からは、島牧村に移動し、明日のフモンナイ岳への九助林道を偵察。林道を3kmほど入った標高230m地点まで車で入れて、その先は雪も続いていることが分かった。昨日に数人が登っていたようで、スキーのトレースもあった。明日はスキーを使う予定。
 その帰りにギョウジヤニンニク畑のような所を見つけてたくさん採ったが帰宅は明後日なので、それまで持つかな? その後は道の駅で本を読んで過ごした。

江差「いにしえ街道」の街並み

2020年02月20日 | 街並み・歴史探訪・ドライブ

 江差は17世紀以降、日本海航路の北前船の基地として繁栄した。明治初期まで盛んに行われた檜材とニシン取引に関連した問屋、蔵、商家、町屋、それに社寺などの歴史的建造物や史跡、旧跡が数多く残されている中歌、姥神町一帯の1.1kmを歴まち地区『いにしえ街道』として整備、平成16年11月に街路事業が完成し、街なみが大きく変化した。

 『景観に配慮した街なみづくり』を推進し、建物修景・案内板・電線地中化・下水道・公園整備などがほぼ終了し、今後は地区に新たな息吹を吹き込むさまざまな事業を地域と一体となって進めていくことになっている。

いにしえ街道マップ

中歌地区(東)の入口

 

電線が地中に埋められ、すっきりとした街並み

 

「いにしえ街道」の拠点となる無料休憩所「江差町会所会館」(旧江差町役場本庁舎)~北前船で繁栄する江差の町民が拠出した財源で、1845(弘化2)年に町会所(町役所)として創始したもの。平成13年に江戸末期に建設された当時の外観に復元。

 

旧中村家住宅~「主屋」「文庫倉」「下ノ倉」「ハネダシ」という4棟が一列に連なっている。国の重要文化財
「主屋」と「文庫倉」は明治20年ごろ、「下ノ倉」は江戸時代末の建物、「ハネダシ」は昭和56年に完成した修復建物。

 

 旧中村家住宅の隣にある「茶房せき川」~大正時代から営業してきた酒屋をリノベーションした店で、抹茶やコーヒーなどが楽しめる。

 

 鎌倉時代に創建されたと伝えられる姥神大神宮。神社の由来は、江差にニシンを招いた折居様という老女、つまり姥を祀ったのが始まりだとか。毎年8月には豊作・豊漁・無病息災を祈るための盛大なお祭りが行われ、たくさんの人でにぎわう。その歴史は370年余り。見どころは13台もの豪華絢爛な山車が練り歩く巡行。

 

臨時休業中の「横山家」~160年前の建物。横山家は現在まで200年以上続いている旧家で、ニシン漁全盛期の網元、公家御用商家で、北海道指定文化財として、江差の姿を今に伝える貴重な建物。

 

 

 

 

 

 ガラス越しにひな飾りが見える。

 

 蔵を改造した「ぱんやベッキー」

 

「いにしえ街道」の西の入口

 

 いにしえ街道の下の国道に面した「北のひな語り」の拠点となっているCafe&Sweets「壱番蔵」~明治期以降移入された木造トラス構造の屋根をもった蔵と、それ以前の和風の屋根組構造をもった蔵の二つが合併してできている。

 

 いにしえ街道中央部から高台へ上がる地点にある「江差町郷土資料館」(旧檜山爾志郡役所)。道有形文化財。1996年から1年をかけて当時の姿に修復・復元。注目なのは壁や天井の布クロス。ペイズリーや菊華文の美しい柄や桃太郎といった珍しい柄。また、当時は役所以外にも警察として利用されており、取調室や留置場が再現されている。
 建物正面にはコブのある歪んだ松は「土方歳三嘆きの松」。これは沈んだ開陽丸をここから眺めた土方歳三が涙を流しながら叩いたからコブができたのだそう。


函館坂道紹介~19の坂以外の名前のある5坂(入舟町と青柳町)

2019年10月17日 | 街並み・歴史探訪・ドライブ

 入舟町の地獄坂とテンコの坂

◎地獄坂(80m)

 地獄坂(下から)~入舟町(昔の山背泊)の道路から函館市船見町の外人墓地まで
上るのも下るのも難儀な坂なので地獄坂と呼ばれた。(「函館歴史散歩」より)


 (上)坂上にある外人墓地の1つのシャルトル聖パウロ修道女会墓地
 (下)登り口の入舟町(旧山背泊)の家並み


 地獄坂(上から)

◎テンコの坂(80m)

 テンコの坂~急な石段になっているが、途中から少し向きが変わり緩やかになる。映画「海炭市叙景」にも登場しているらしい。
 坂の途中に山背泊稲荷神社があり江戸末期には天光稲荷と言った。天光をテンコと呼んだところからテンコの坂と言った。(「函館歴史散歩」より) 


(左上)登り口の入舟町(旧山背泊)の家並み  (右上)途中で少し向きが変わって緩くなる
(左下)坂名の由来となった旧天光稲荷(現入舟稲荷神社) (右下)坂上の高龍寺


 テンコの坂(上から)
 右下の古民家然とした「真言寺」には、函館市が指定した有形文化財の不動明王立像が安置されている。
 真言寺は、文久年間(1861年~1864年)、僧 寛純により創立されたといわれており、この寺の主仏となっている不動明王は、普段開帳されていない。


青柳町のすりばち坂、みやま坂、さくら坂

◎すりばち坂(100m)

 すりばち坂(下から)~函館公園北側の坂道。坂下手前の電柱根元に手作りの坂標が設置。
 函館公園の北脇を公園に沿って西に上る坂道。公園の中に「すりばち山」と呼ばれる小山があり、その横の坂ということから「すりばち坂」と呼ばれる。


 (上)すりばち坂からの函館公園入口
 (下)名前の由来となった「すりばち山(摺鉢山」


 すりばち坂(上から)

◎みやま坂(100m)

 みやま坂(下から)~「すりばち坂」と平行する坂で「青柳坂」の坂上に続く。
 美山坂とも書くらしいが、由来は不明。


 坂の途中に建つツタの絡まる土蔵


 みやま坂(上から)

◎さくら坂(220m)

 さくら坂(函館公園入口前から)~函館公園の東側の坂
 函館公園側は桜の古木の並木になっているので、坂名はそれに由来するのではないか。
 数年前まで,電柱に住民の手で「さくら坂」と書かれた木片が縛り付けてあったらしいが、現在はなくなっている。



(左上)通り沿いにある喫茶店「JBハウス」   (右上)通りに建つ蔵持ちの民家
(下)通りからの函館公園入口~門柱に「市立函館圖書館」の表札


 さくら坂~(下から)

 以上で、函館山ふもとの名前のある坂道の紹介は終わりますが、谷地頭町や住吉町にまだ気になる急な坂道がたくさんあります。
 どなたか、その坂の名前や由来が分かりましたら、教えてください。

 

函館坂道紹介~その4 ⑮姿見坂 ⑯幸坂 ⑰千歳坂 ⑱船見坂 ⑲魚見坂

2019年10月16日 | 街並み・歴史探訪・ドライブ

⑮姿見坂(500m)<上から下へ>

 姿見坂(上から)
 かって、坂の上にあった遊郭に因む名で、遊女達のあで姿が見られたことからこの名がついた。遊郭は江戸の吉原を模し、付近は茶屋町と呼ばれて賑わいを見せたが、明治4年(1871年)の大火で焼失し、蓬莱町(現宝来町)へ移った。(坂標より)


 途中の主な建物等~(上)姿見坂から眺める北側の大黒通り 
(左下)姿見坂から眺めるバス通りの歴史を感じる住宅 (右下)旧大黒湯


姿見坂(下から)

⑯幸坂(650m)<下から上へ>

 幸坂(下から)
 昔、坂の中ほどに神社があり、これを神明社といったので、この坂も「神明坂」と呼ばれた。
神明社は明治7年(1874年)山上(やまのうえ)大神宮と現在名に改め、のち坂の最上部に移転した。
明治8年、坂下の海岸が埋め立てられ、幸多かれと幸町(現弁天町)ができたので町名に従い「幸坂」となった。(坂標より)



 途中の主な建物等(その1)~(左上)妻の叔父の骨とう品倉庫兼店舗「大正館」 (右上)中腹にある幸小学校跡地の碑
 (左下)中腹に立つ坂標 (右下)幸坂から眺める大谷派別院船見支院


 途中の主な建物等(その2)~(左上)旧ロシア領事館 (右上)突き当たりに建つ山上大神宮 
(左下)と旧常盤小学校跡地の公園 (右下)旧常盤小学校記念碑


幸坂(下から)

⑰千歳坂(400m)<上から下へ>

 明治12年(1879年)の大火以後にできた坂で、昔、坂の東側に神社があり、ここに松の木があったので、千歳の松に因んでこの名が付いた。「松蔭坂」とも呼んだ。それ以前は、東側に短い坂があって「神楽坂」と呼んでいた。これは神社の神楽殿に由来したものであった。(坂標より)


 途中の主な建物等~(左上)上の坂標 (右上)鯨族供養塔 
(左下)旧西中学校 (右下)伴田米穀店~大正5年ころに開業医の住居兼診察所として建てられたもの。


 千歳坂(下から)

⑱船見坂(400m)<下から上へ>

 船見坂(下から)
 港に出入りする船舶がよく見えることから、明治6年(1873年)坂上を船見町と名付け、
その町に通じる坂なので「船見坂」と呼んだ。
また、称名寺の下の坂なので「称名寺坂」とも呼ばれた。戦後、上が校地となり坂は途中までとなった。(坂標より)



 途中の交差点に建つまだ現役の「大正湯」~これ以外目に付く建物はなかった。


 船見坂(上から)

⑲魚見坂(400m)<上から下へ>

 坂の上から湾岸に押し寄せてくる魚群の発見に便利なところだってのでこの名が付いたと言われている。
この坂の上の方は昭和40年まで台町という町名だったので、最近まで「台町の坂」とも呼ばれていた。(坂標より)
 『新編函館町物語』(元木省吾著・玄洋社刊)は、「(坂は)明治以前からあったが、狭くて交通も不便であるし、火防上もまずいので、台町遊郭の営業者が、土地の買収費や家の立退料など出して、明治18年(1885)2月21日開通させたものである。」と述べている。



 途中にある主な建物等~(左上)魚見坂の上へ続く道~上には高龍寺があり、その先は外人墓地へ続く。 (右上)上にある旧西小学校
 (左下)下にある「新撰組最後の地碑」「魚見坂の下の坂標」「弁天台場跡説明板」 (右下)下にある厳島神社


 魚見坂(下から)

 次回は、坂道紹介~19坂以外の名前のある坂道

函館坂道紹介~その3 ⑩日和坂 ⑪基坂 ⑫東坂 ⑬弥生坂 ⑭常盤坂

2019年10月13日 | 街並み・歴史探訪・ドライブ


⑩日和坂(ひよりざか)(300m)<下から上へ>

日和坂(下から)
 坂の上から港の景色を一望でき、空模様をよく判断できるということからこの名が付いた。
また、坂の上にある船魂神社辺りからはトビの飛ぶ姿がよく見えたことから、坂の上の方を「トビ坂」と呼んだ。
日和もトビも共に天気に関係がある。(坂標より)



 途中の主な建物~(左上)日和坂から眺めるバス通りの古民家 (右上)ここで少し鍵形になっている。
(左下)右の建物は日和館(大正10年築、函館市伝統的建造物) (右下)船魂神社(北海道最古の神社といわれ、源義経にまつわる伝説もある


 日和坂(上・古民家カフェ「花かんろ」の横から)

⑪基坂(もといさか)(300m)<上から下へ>

基坂(上・元町公園下から)~真下は海上自衛隊函館基地隊(昔の函館税関)
 かっては、函館から札幌へ向かう函館本道の起点で、坂下に里数を計る元標が建てられていたので
「基坂」といった。坂の上は函館奉行所があった中心地で、江戸時代には「お役所坂」、「御殿坂」とも呼ばれた。(坂標より)



 途中の主な建物等~(上)上の坂標と基坂 (左下)旧イギリス領事館 

基坂(下から)~突当たりが元町公園

⑫東坂(あずまざか)(400m)<下から上へ>

 東坂(下から)
 明治12年(1879年)の大火までは弥生小学校の東半分に浄玄寺(現東本願寺別院)があり、
その下に坂が二本あった。西側の坂を「浄玄寺坂」。東側の坂を「東の坂」または「白鳥坂」ともいった。
大火後、坂は一本になり上まで通された。いまの「東坂」はその名残である。(坂標より)



 途中の主な建物等~(上)バス通りから東坂を見上げる (左下)中華会館 
(右下)旧小林写真館( 明治40年築・現存する写真館として北海道最古の洋風建築。2009年全面改装)


東坂(上から)

⑬弥生坂(500m)<上から下へ>

 弥生坂(上から)
 明治12年(1879年)の大火後改良された坂で、それまでは浄玄寺(現東本願寺別院)、
称名寺、実行寺が並び、「寺町の坂」といわれた。「弥生」とは、「春」を意味し、発展を祈念して付けられたといわれている。
明治15年(1882年)、坂の横に小学校ができ、坂名に因んで弥生小学校と名付けられた。(坂標より)



 途中の主な建物等~(左上)咬菜園跡~箱館戦争時、旧幕府軍総裁の榎本武揚は、幹部6人と共に、
今宵最後と一夜の清遊をここで試みたといわれている。現在は私有地となっている。
(右上)函館聖マリア教会~荘厳なゴシック様式のウエディングチャペル。 
(左下)旧愛宕中学校跡~グランドは弥生坂のずっと上にあった。 (右下)弥生小学校


 弥生坂(下から)

 弥生坂は聖マリア教会から下となっているが、この上に細くて急な路が続いている。突き当たりは老人ホームが建っている。
途中右手には、箱館戦争ゆかりの地として、己巳役(きしのえき)海軍戦死碑がある。

 この上に続く細くて急な坂は、昔は「薬師坂」または「七面坂」と呼ばれたようだ。
この道は、要塞になる前の薬師山参拝道だったようで、山腹に鳥居の遺構があるとのことでそれを探しに行ったことがある。
老人ホームの上に旧愛宕中学校のグランド跡地が残っていた。
http://sakag.web.fc2.com/hako13p-1.htm

 また、七面山だが、調べてみたら、古地図を見ると御経石がある山の一角が「七面山」と記されている。
この道からそこへの参拝道があったのだろう。実行時の境内にも「七面山」の石碑がある。
  
⑭常盤坂(500m)<下から上へ>

 常盤坂(下から)~ナナカマドの並木が印象的


 突き当たりの下にある古民家カフェ「ごはん おやつ シプル」(6月撮影)~これ以外特に目に付く建物等はなかった。


 常盤坂(上から)

 次回は、⑮姿見坂 ⑯幸坂 ⑰千歳坂 ⑱船見坂 ⑲魚見坂

函館坂道紹介~その2 ⑤南部坂 ⑥二十間坂 ⑦大三坂 ⑧チャチャ登り ⑨八幡坂

2019年10月12日 | 街並み・歴史探訪・ドライブ

⑤南部坂(450m)<下から上へ>

 南部坂(下から)
 幕府は、外国船の蝦夷地(北海道)近海への出没や、ロシアの南下など多難になってきたため、寛政11年(1799年)蝦夷地を直轄し、防衛のため奥羽諸藩に警備を命じた。日高海岸以東の警備にあたった南部藩の元陣屋がこの坂上にあったので「南部坂」と呼ばれた。(坂標より)


 途中の主な建物~(左上)函館まちづくり交流センター(旧丸井今井デパート) (右上)洋風居酒屋南部坂 (左下)坂道の名前の由来となった南部藩屋敷跡・旧NHK放送局跡(※学生時代にはまだここにNHK放送局があり、ここでアルバイトしたことがある) (右下)函館山ロープウェイ山麓駅


 南部坂(上から)~上の方は非常に急な坂道である。

⑥二十間坂(400m)<上から下へ>

 二十間坂(上から)
 かって、坂上に大工や工人が多く住んでいたことから「大工町坂」とも呼ばれた。函館は大火が多く、明治12年(1879年)の大火後、防火帯としてできた坂で、路幅が二十間(約36m)あるので「二十間坂」と呼ばれた。(坂標より)
 『新編函館町物語』(元木省吾著・玄洋社刊)には「道幅が二十間あるからついた名だが、昔は緑坂といった。それも明治11年頃までの地図にはどれにも出ていない。明治10年代の終りにできたものであろう」とある。



 途中の主な建物等~(左上)上の坂標識 (右上)全国最初の鉄筋コンクリート造りの東本願寺函館別院 (左下)創業1879年(明治12年)の五島軒 (右下)下の坂標識


 二十間坂(下から)

⑦大三坂(300m)<下から上へ>

 大三坂(下から)
 昔、坂の入口に大三という家印の郷宿があったのでこの名が付いた。郷宿というのは、地方から公用で出てくる村民が泊まった宿である。それ以前は、木下という人の家があったので「木下の坂」といった。昭和62年「日本の道百選」に選ばれた。(坂標より)


 途中の主な建物~(左上)数年前にリノベーションされた大三ビルヂング (右上)「日本の道百選」の石碑 (左下)亀井勝一郎生誕の家 (右下)函館カトリック教会


 大三坂(上から)

⑧チャチャ登り(100m)<下から上へ>

 チャチャ登り(下から)~大三坂から続くハリストス正教会と聖ヨハネ教会の間の細くて急な坂。
 函館では珍しいアイヌ語の坂名で、幕末頃ついた名前らしい。チャチャとはおじいさんのことで、この坂が急なため、前かがみに腰を曲げて登る姿が老人に似ていたことから「チャチャ登り」と呼ばれた。(坂標より)


 途中の主な建物~(上)ハリストス正教会 (下)聖ヨハネ教会


 チャチャ登り(上から)

⑨八幡坂(300m)<上から下へ>

 八幡坂(上・函館西高校の階段から)~観光客に一番人気の坂。CMやドラマのロケ地や観光ポスターにも良く利用されている。かつて、CMで年配の夫婦が手をつなぎながらスキップするシーンのロケ地として評判となり、「チャーミーグリーンの坂」と呼ばれることもある。

 基坂上の函館奉行所付近にあった八幡宮が、文化元年(1804年)奉行所の拡張工事に伴い、この坂の上に移されたことからこの名が付いた。八幡宮は明治11年(1878年)の火災によって焼失し、明治13年に現在の谷地頭町に移った。(坂標より)


 途中の主な建物等~(左上)上の坂標識 (右上)上は専修学校ロシア極東大函館校・下は北海道国際交流センター(旧函館白百合高校校舎) (左下)街灯に設置されている吊り花壇 (右下)レストラン 函館八幡坂Story


 八幡坂(下から)

 次回は、⑩日和坂 ⑪基坂 ⑫東坂 ⑬弥生坂 ⑭常盤坂

◎超強烈な台風19号接近


 台風19号の勢力の強さが分かる衝撃的な画像

 過去最大級の大型で非常に強い台風19号の接近で、昨夜から東海・関東には激しい雨が降り続き、厳重警戒を呼び掛け避難勧告が出されている。
 今朝の段階ですでに道路の冠水等の被害も出て、早急な避難の呼び掛けを
いる。交通機関もほとんど運休となっていて、店舗も臨時休業のところが多い。
 今日の夕方から夜にかけて東海・関東に上陸する見通しである。特に台風15号で甚大な被害を受けた千葉県はダブルパンチである。



 NHKはずっと台風関連のニュース放映を続けて、関係地域の住人に速やかな避難を呼び掛けている。昼過ぎには、多くの河川が氾濫危険水位を超えている映像や避難場が映されている。

 北海道も深夜から明朝までは大荒れになりそうだが、幸いそれほど大きな影響はなさそうな感じだが…?

グリンベルト巡りで説明された歴史的なこと

2019年09月03日 | 街並み・歴史探訪・ドライブ

東川広路に設置されている「函館市民憲章」
市内のあちこちに設置されているが。このように立体的なものはここだけ。
自分が若いころ10年間勤めていた東川小学校時代はここに市電が通っていて、歩道橋があった。
市電が廃線になり、その歩道橋が撤去されたあとに、この市民憲章が建てられた。


牛の善光寺
明治32年、場に引かれて行く1頭の牛が逃げ込んだ。哀れに思った住職が買い取って、境内に住ませた。
牛舎建立のために住職が牛を連れて樺太や小樽へ、続いて長野の善光寺にも参拝し、「牛王麿」の称号や背がけ衣装などを賜る数々の厚遇を受けた。18年間も生きた。



石川啄木の家族が住んでいた家がここにあった。
妻節子の姉が宮崎郁雨の奥さんで、ここに郁雨の借家があり、そこに入居していたそうだ。
啄木が函館を離れたあともここに住んでいたらしい。このことは初めて知ったことだった。


栄餅~1900年(明治33年)創業の函館市内でもっとも古い和菓子屋
昔、東川小学校へ勤めたときに寄ったら、奥さんが子供のころ近くの友達の家に同居していた叔母さんだった。


昭和9年の大火で焼けた函館市役所があった場所。前に「函館市役所址」の石碑が立っている。
ここは相馬鉄平が自分の敷地を提供し、多額の寄付もしている。


国際ホテル~ここはニチロビルの1号館の跡地。隣今でも残る2,3号館。
ニチロビルの過去記事


殺生釘~函館に3軒残っている。
目的としては、「魔除け・装飾」「鳥避け対策」「財力誇示」「避雷針」などが考えられる。
函館の場合は大火が多かったため 「火避け」として取り付けられたものだとも考えられている。


東雲広路に立つ「白雲桜」の碑~故函館市長坂本森一嗣子坂本遵寄贈。
白雲は故人の號に因んだもの。昭和23年春植樹。函館市長 宗藤大陸題竝書。


樺太引揚者上陸記念碑~同市に引き揚げた約31万人の上陸を記念するとともに、
船中や上陸後に病院で亡くなった1079人を慰霊するために建立。


大門広小路の角に建つ水天宮~安産と子授かりの神様。1812年高田屋嘉兵衛が分祀したのが始まり


水天宮に残っている箱館戦争の時、旧幕府軍の軍艦「蟠竜」に積載されていたうちのひとつ。
長さ1m36cm、口径8cmのベルギー製の大砲。


昭和9年の大火で焼けて黒くなったと言われている水天宮の狛犬

今日の夕焼け

窓から見たらきれいな夕焼けが広がっていた。明日は良い天気だろう。

今日の夕食はいかめし

今年もイカは獲れてなくて、まだ高くてイカ刺しは食べれていない。
小さめのイカが売られていたので買ってきたという。

第36回函館ぶら探訪「昭和9年大火の復興シンボル・グリーンベルト巡り」

2019年09月01日 | 街並み・歴史探訪・ドライブ

銀座通りでの説明~ここは大正10年の大火後に整備された通り

 「函館ぶら探訪」は、過去何度も参加したことのある函館歴史散歩の会の日曜版である。講師は同じ函館歴史散歩の会主催の中尾仁彦氏。
 「函館ぶら探訪」になってからは参加する機会が少なくなったが、36回を数える今回は、「昭和9年大火の復興シンボル・グリーンベルト(防火緑樹帯)巡り」だった。予定もなかったし、興味があったので久しぶりに参加してみた。

 10時に集合場所の函館市地域交流まちづくりセンターをスタートし、銀座通り~高田屋通り~東川広路~1キロ通~二十間坂通り(開港通り)~東雲広路~旭広路~広小路を回った。
 
 昭和9年の大火後、火に強いまちづくりを進めるため、道路幅55m(30間)の豊川広路、東川広路、東雲広路、旭広路、若松広路など9広路、幅36m(20間)の栄通、高田屋通、二十間坂通など6広路が造られた。
 なお、55m(30間)幅の道路は「広路」と名付け、36m(20間)幅の道路は「通」と名付けられた。

 これらの多くに、大きな道路中央分離帯が設けられ、樹木が植栽され、防火緑樹帯(グリーンベルト)となった。さらに、広路と広路(通り)が交差する地点には、延焼を防ぐ耐火建築の公共建物をおき、大森浜側には風避けと避難場所の役割を持つ鉄筋3階建ての小学校も設置された。

 それぞれの「広路」や「通」は通ってはいるが、その名前と場所がようやくはっきりした。


スタート前に、函館市地域交流まちづくりセンターでのレクチャーを受けて出発。


歩いたコース


まず最初は、銀座通り。ここは昭和9年の大火以前の大正10年の大火後に整備された。
耐火建築として、鉄筋コンクリート造り3階建ての建物が並んだ。民間主導で復活した歓楽街。
昭和9年の大火で焼けた建物もあり、現在当時の姿で残っているのは10軒ほど。


大正11年当時から残っている建物


高田屋嘉兵衛の屋敷跡と昭和9年の大火後に整備された「高田屋通り」


銀座通りとの交差点の高田屋通りから護国神社の坂道を眺める。護国神社の坂も同時期に整備。


高田屋通りを東へ向かって歩く。西別院までが「高田屋通り」で、西別院から市役所までが「栄通り」


西別院から大森浜までの「東川広路」。突き当たりに昔の東川小学校があった。
この反対側の西別院から港側の豊川稲荷までが「豊川広路」である。


「1キロ通り」~この通りは大火とは関係なく、大森浜から港までで一番短い道路。
現在は1キロだが、両側の海岸線が埋め立てられているので、昔は500mしかなかった。


西別院から市役所までの「栄通り」


「二十間坂通り」へ続く現在の「開港通り」~昔は埋め立て地の間を流れる運河だった。


開港通りから市役所までの「東雲広路」


市役所から連なる「大門広小路」(現在のグリンプラザ)
電車通りを越えた突き当たりには昔の新川小学校があった。昭和9年の大火で内部は焼けたが再建。
その手前にロータリーがあり、共愛会館があった。現在は中央郵便局になっている。

 このグリンベルト巡りの途中で説明を受けた歴史的建造物や史跡等については、後日掲載予定。