折り返し地点の「城岱牧場展望台」(560m)~薄いガスが懸かって、函館山は微かにしか見えなかった。カメラには写っていない。
GPSトラックログと庚申塚(塔)等の所在地。走行距離56.8km。所要時間4時間30分。
先週1週間は、アウトドアや登山の計画を組んだが、ことごとく悪天候に阻まれて計画倒れに終わった。運動不足感が否めない。幸い、今日は朝から青空が広がったので、MTBでの城岱スカイラインヒルクライムのあと、かねてから温めていた、七飯町と北斗市の庚申塔(塚)巡りサイクリングをした。
本州の街道歩きでは、庚申塔(塚)は嫌というほど目にする石塔の一つである。本州でも江戸時代の建立のものが多かった。庚申信仰にはそれほど興味はないが、この北海道で、江戸時代の年号が刻まれた石塔や石仏を目にできるのはこの道南だけである。その歴史遺産の存在に興味がある・・・という次第である。
七飯町の「古峠庚申塚」や北斗市の「千代田の庚申塔」は、これまでも目にしたことがある。いろいろ調べてみたら、そのほかに、七飯町の峠下と仁山に、北斗市にも本郷と文月にあることが分かったので、それをサイクリングがてら巡って、カメラに収めて来た。ネット検索でヒットするのは、北海道でここだけである。歴史の古い松前や函館でも聞いたことも目にしたこともない。
庚申塚(搭)とは、中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔である。庚申塔の建立が広く行われるようになるのは、江戸時代初期頃とのこと。当初は青面金剛や三猿像のほか、阿弥陀、地蔵など主尊が定まっていない時期を経て、徐々に青面金剛像が主尊の主流となった。その後、江戸中期から後期にかけて「庚申塔」あるいは「庚申」と文字のみ彫り付ける形式が増加したらしい。
古峠庚申塚(七飯町)
七飯町史跡「古峠庚申塚」の囲み塀と赤松の古木~この前の道は、昔の箱館から七重村を通って、古峠へ向かう旧道であった。
この場所には、計7基の庚申塔がまつられており、古いもので、天保14年(1843)、嘉永3年(1850)ものが建立されている。
箱館戦争(戊辰之役)関係の遺物
庚申塚の上に500mに渡って直線的に続く旧幕府軍が築いた「土塁跡」~下載の箱館戦争勃発の地の横を通って延びている。
箱館戦争勃発の地碑の入口に立つ、この付近の史跡案内地図
「箱館戦争戦死者墓碑群」~新政府軍5名の墓碑群
墓碑群の中にある「峠下戦跡戊辰役勃発之地」碑~森町鷲ノ木より上陸した旧幕府軍は、土方歳三と大鳥圭介の二手に分けて五稜郭を目指した。明治元年10月、峠下村の旅籠に宿営してしていた大鳥軍と、これを挟撃しようと計画した新政府軍がこのあたりで衝突、一発の銃砲を皮切りに箱館戦争が勃発する。
人見隊は巧みに移動しながら側面攻撃を加え、そこに大鳥隊も到着したため、夜を徹した銃撃戦は旧幕軍の勝利に終わった。装備の差に加え、旧幕軍は関東、奥羽、会津と転戦してきた歴戦の兵士であり、箱館府兵の敵う相手ではなかったという。
平成になってから、七飯町郷土史研究会の有志により石碑が建立された。
「峠下の庚申塔」(七飯町)
弘化2年(1845年)に建立された庚申塔。峠下公民館のそばにある。近隣の家で守られていて、庚申の日には猿田彦の掛け軸を掲げ、ロウソクをともし供物をささげているそうだ。
この前の道はかつての市渡村と峠下村を結ぶ旧道であった。松前方面から奥地へ向かうにはこの道を通って、古峠を越えて大沼方面へ抜けた。
このすぐ近くに15歳~20歳まで住んでいて、いつも通学時に通っていたが、興味がなかったためか、全く記憶にない。
「仁山の庚申塚」(七飯町)
ここもかつての市渡村と峠下村を結ぶ旧道であった。嘉永5年(1852年)、安政2年(1855年)、文久2年(1862年)、昭和18年(1943年)の4基の庚申塔が建っている。
これら、峠下地区に3ヶ所もの庚申塔(塚)が残っているところを見ると、江戸時代のこの辺りは庚申信仰が盛んだったことが伺える。当地には、近年まで寄り合い、互助の講の一つとして伝えられていたようだ。
「本郷の庚申塚」(北斗市)
鹿島神社境内に設置されている北斗市最古の庚申塚~「奉鎮祭庚申太祖猿田彦太神」と彫られている。庚申塚が建てられたのは寛政8年(1796年)で、文化2年の大開田より9年前のこと。この地が、文化年間(1804〜1818年)に箱館奉行の手で水田の開発が行われた頃は、「庚申塚」と称されていた。
鹿島神社が寛政年間(1789〜1800)の鎮座となっており、このころから人家も増えたものと考えられる。境内がミニなパークゴルフ場になっているお茶目な神社。
北斗市向野の「鈴木牧場牛乳」で、ソフトクリーム(320円)を食して休憩。
「文月の庚申塚」(北斗市)
文化9年(1812)建立。本郷の庚申塚と同じ「奉鎮祭庚申太祖猿彦太神」と彫られているが、本郷の庚申塚の16年あとに建立されている。建立当時はここに猿田彦神社があったようだ。
碑面には、文字が摩滅しかけているが頭取13人の名前が刻まれており、これが文月の人名を記した最古のものであり、大野では本郷の庚申塚に次いで2番目に古いものとされている。そばに生えるケヤキの巨木は、この庚申塚と同じ年数を刻んでいるようだ。
千代田の庚申塔(北斗市)
嘉永3年(1850年)建立。この場所は松前方面から奥地(道央)へ往来する役人や探検家も通過した道で、道中の安全と村に災いが入らないことを祈願したものと考えられる。碑面には名主以下の三役と千代田の重立人の6名の名が彫られている。