特別展のポスター
下の写真は、「北海道写真の父」と言われる函館の田本研造の弟子井田幸吉が撮った千島アイヌの写真。
撮影は、1884(明治17年)年のシュムシュ島から色丹島への強制移住時。服装は明らかにロシア風
7月11日から市立函館博物館で開催されている、平成27年度特別展「千島樺太交換条約とアイヌ」と、本日、函館公民館で開催された、関連企画講演会「時旅 写真で辿る千島アイヌの歩み」に出掛けてきた。
アイヌ民族には、大きく分けて北海道アイヌと樺太アイヌと千島アイヌがいる。1875(明治8)年に日本とロシアの間で締結された千島樺太交換条約は、千島と樺太における日露の国境を画定しただけでなく、樺太や千島に居住していたアイヌの強制移住や本格的な同化政策の端緒となり、その後の民族文化に大きな影響を与えることになった。
樺太アイヌは、841名が宗谷に移住させられ、翌年6月には対雁(現江別市)に移された。さらに、1884年(明治17年)の千島列島の日本領北端のシュムシュ(占守島)に住んでいた97名の千島アイヌ(クリルアイヌ)は、半ば強制的に色丹島へ移住させられ、漁撈から離れ、狩猟牧畜・農業に従事させてられている。どちらも、日本政府の同化政策や生活基盤の変化に馴染めなかったり、伝染病などに罹ったりして、数年後には半減している。
当時のロシアとの繋がりが強かったこの二つのアイヌの文化や歴史の展示を見た後、公民館に移動し、講演会に参加した。
講師は、写真家で箱館写真伝習舎代表の谷杉アキラ氏である。氏は、開拓使函館支庁記録外事係でロシア語通訳官となり、開拓使廃止後もそのまま函館県に勤務し、千島アイヌのシュムシュ島から色丹島への強制的移住に通訳として立ち会った小島倉太郎の残している写真から、千島アイヌの移住後の歴史に興味を持ち、根室、釧路、中標津まで出掛けてその子孫の足取りを調べながら辿っている。
色丹島へ移住させられた千島アイヌは、同化政策により、言語もロシア語から日本語への転換だけでなく、衣食住すべてが変えられた。しかし、ロシア正教の信仰だけは認められてきたという。
戦後、その子孫は、色丹島から根室管内へ引き上げている。谷杉氏は、色丹島から引き揚げたロシア正教信者の中にその子孫がいるはずとの仮説に基づいて、現地でいろいろ情報を集めたとのこと。その結果、中標津町上武佐にあるロシア正教の小さな教会へ辿りついた。数年前に亡くなったその信者の中に、最後の千島アイヌと思われる女性がいたことを突きとめた。
実は、この教会、中標津や知床方面への山旅で3回ほどその前を通っている。「このような奥深い農村になぜロシア正教の教会が?」と思ったものだ。それだけに印象が強かった。その教会が千島アイヌの歴史に翻弄された悲惨な運命の末路だったことが分かって、感慨深いものがあった。