癌春(がんばる)日記 by 花sakag

2008年と2011年の2回の大腸癌手術
   ・・・克服の先に広がる新たな春を生きがいに・・・

奥州街道(松前道)歩き旅・10日目

2018年11月25日 | 登山・旅行
《岩手川口駅入口~21渋民宿~22盛岡宿(30.8km)8時間〉
  
 いよいよラストウォーク。10日間で初めて晴れの天気に恵まれた。朝は放射冷却で-5℃まで下がった。周りは雪はなくなっていたが、霜が降りて真っ白。徐々に暖かくなり、気持ちよく歩くことができた。
 たいした疲れもなく、足はどこも痛いところや張りもない。まだいくらでも歩けそうで、ここで終わるのはもったいないくらいだ。

 盛岡駅のコインロッカーに不必要な荷物を預け、6:25の電車に乗り、岩手川口まで戻る。

岩手川口駅入口~21渋民宿

    
 7:00、県道158の岩手川口駅入口をスタート。すぐ右角にナマコ壁の土蔵があり、昨日の写真にアップした櫺子格子の建物があり街道筋の面影を感じた。
 昇ったばかりの朝日がまぶしい。

    
 3度登っている雪化粧した岩手山が朝日にくっきりとした姿を見せている。

 川口地区を抜けると、国道に合流。

    
 ラーメン屋の前に二ツ森一里塚跡。標識がないと、見過ごしてしまいそうな感じ。

    
 巻堀地区に入るとずっと奥州街道の標識が立っているのが嬉しい。

    
 国道沿いに無造作に置かれている江戸時代のものと思われる墓石。このあと、5ヶ所ほど目についたが、昨日までなかったものだ。

    
 才津沢の交差点の右手の一角に、一字一石一札供養塔が現れる。東北地方は昔からしばしば凶作や飢饉に見舞われてきた。その際の死者を供養するために法華経典を一石に一字ずつ書写して供養塔の下に多数埋めたものであり、1778年に明円寺の和尚によって建立されたものである。このあたりで大勢の死者が出たことからなのだろう。

 
 国道から左に別れる街道の入口に奥州街道の標識がおり、「アズキとぎ石」とその伝説についての案内板があった。この石の前を通るとザック、ザック、ザラー、ザラーという音が聞こえて恐れられ、その対策として近くに地蔵堂が建てられたと解説されている。今は車の音でそれどころではない。

    
 沢田地区を進んでいくと右に石碑群が現れる。その先には往時飛脚便の中継点があったとの案内がたっている。

    
 渋民宿の入口辺りに、新塚一里塚が現れる。右手の塚はない。多分車道を造ったときに消滅させてしまったのだろう。

    
 石川啄木記念館が現れる。一昨年の姫神山と岩手山に登ったときに訪れているのでパス。

 このあと、渋民宿になるが、街道筋の面影はまったくない。

21渋民宿~22盛岡宿

 やがて、国道から農村風景の広がる中の街道となる。

    
 昔の街道がそのまま舗装されたような道と家並みが続く。

    
 ずっと端正な頭部分しか見えなかったが、ようやく全容を現した姫神山。この山は2度登っている。

 このあと、渋民一里塚跡があったはずだが、カメラに写っていなかったところを見ると、見落としたらしい。

    
 今日も「明治天皇御小休史跡」が現れた。

 このあとは、北上川を右手に見ながらの歩きとなる。昔の街道がダムに没しているところもあるらしい。
 笹平一里塚も見落としたようだ。

   
 北上川がもっとも広くみえたところ。ダムで水位が上がっているからたろう。

 このあと、小野松地区で入り江の外側を回る入口を見落として、そのまま小野松橋を渡ってしまった。この辺りに小野松一里塚があるはずなので、もしや、通らなかった部分にあったのかもしれないと、そちらへ戻って1周してみたが、見つからなかった。諦めて先へ進んだ。25分のタイムロスだった。

    
 ところが、その先に小野松一里塚が現れた。反対側を見ると西の塚も健在である。県道の両側にあり、ほかの一里塚より幅が広いので、2つとも残ったのだろう。

 昼を過ぎたのに、食堂もコンビニもない。今日は盛岡に近いので、行動食は持参しなかった。
 そんな中で今日一番の感動が昼食だった。

    
 12:30、ようやく小泉うどんの看板と幟が現れた。車がたくさん停まっている。ところがそれらしい建物が見当たらない。

    
 まさか?と思う普通の民家に暖簾だけが下がっている。恐る恐る戸を開けたら、普通の民家の玄関に靴棚があるだけ。しかし、メニューが置かれていた。面白そうな創作メニューもある。満席の場合名前を書く紙もある。そんなに混むのだろうか?と思って上がり込んだ。
 3部屋を通した和室に4人用のテーブルが7つ。ほとんどか塞がっていた。サイン色紙などがあり、かなりの人気店のようだ。
 
    
 注文したのは、野菜あんかけうどん。あんの下には1.5玉ほどのうどんが隠れていた。そのうどんも美味しかったが、あんが抜群の味だった。今回の旅で食べたものの中でトップだった。汗だくになって食べた。
 近いところならほかのメニューも食べてみたい。店構えとのギャップもあり、人気店のわけも納得。

 やがて、市街地へと入っていく。片側2車線の広い現代的な商店街が続く。

    
 松並木が現れ、その先のショッピングセンター・カワトクの前に上田一里塚が現れる。逆光なので、通りすぎてから一里塚と松並木を一緒に撮った。
 この一里塚は江戸から140番目になる塚だが、東側の塚は消失し西側だけ残っている。
    
 広い道から、昔の街道の面影を残す家並みの続く道を進む。

    
 信号のある交差点に右手に「是よりは小本街道 牛追のみち」と刻まれた石碑が現れる。小本街道は内陸の盛岡と沿岸の小本を結ぶ塩の道であり、早坂峠の難所を牛を追って塩を運んでいたとのことである。そしてあの有名な南部牛追唄の生まれたところでもある。

    
 上ノ橋を渡る。木製の欄干と青銅擬宝珠が往時を忍ばせてくれる。この擬宝珠は1609年当時の現物だとのことである。
 この上ノ橋と中ノ橋の間が、盛岡城下の街道の中心地で、豪商が豪華な店を連ねていたという。

    
 街道の雰囲気を残す建物も多い。

    
 マンションの前に鍛冶町一里塚跡碑を見つけた。もともと昔も市街地だったので塚は造らず、石の碑杭を立てたが、それも明治9年に撤去したそうだ。

    
 その先に、今も営業している菊の司酒造の建物。

    
 さらに進むと大正時代に建てられた洋風木造建築の紺屋町番屋(市消防団番屋)が現れる。

    
 そのカーブの左手に茣蓙九という店が現れる。江戸末期の建物だそうだ。灯明の芯や藁製品を商っていた豪商・沢井屋九兵衛の店で、往時の風情を残している。

    
 15:00ちょうど、中ノ橋の交差点に旧盛岡銀行本店の赤煉瓦の建物が現れる。
 ここから中ノ橋を渡ると盛岡城址公園なので、ここを今回の奥州街道(松前道)のゴールとした。

    
 このあと、中の橋を渡り、盛岡城址公園へ。明治9年に建物は解体されたとのこと。日本百名城に選ばれているのに、建物がまったく残っていないのは残念。戊辰戦争で、幕府側についた悲哀か?
 
    
 この橋を渡ると本丸なのだが…。

    
 本丸には、銅像のない台座が現れる。この上に馬に跨がった南部家42代南部利祥の像は戦時中に供出され消失したと説明がある。

 その寂しい台座をバックに、今回の歩き旅ゴールの姿を、若い二人連れの女性たちに撮ってもらった。
 
 このあと、駅まで歩き、コインロッカーから荷物を引き取る。西口にある今年の4月にオープンしたばかりのユニゾ イン エクスプレス 盛岡へ。素泊まり3980円と安いが、繁華街は駅の反対側なので、周りは寂しい。

 最後のブログも書き終えたので、これから駅を抜けて、打ち上げに盛岡冷麺を食べに行くつもり。

 昨日のブログに、「奥州街道最高点」を載せ忘れたので、書き加えておいた。

    
 駅前のちょっと高級そうな盛楼閣で、打ち上げの盛岡冷麺。これもこれまで食べた冷麺で一番美味かった。