電車で広島から西條へ移動。雨予報もあるので、宿は連泊なので、雨具をサブザツクに詰めた。雨は、折り畳み傘で間に合うような弱い雨だが、断続的に降られた。しかし、明日からは、またずっと好天が続くようだ。
今日もほとんどが旧道歩きになるはずだったが、大山峠が2年前の豪雨災害で流されていて、国道を迂回せざるを得なかった。
なお、直接関係ないことだが、走っている車をみると、マツダの車が圧倒的に多い。さすがに広島だ。
西條宿~28海田市宿
広島駅から西條駅まで移動して、6:40、駅前の街道をスタート。
駅前からも、大きな旧家が数軒目についた。上の建物は、「山陽鶴酒造」だったが、今は割烹になっていた。下の建物は、明らかに昔の商家であろう。
西條宿をぬけてしばらく行くと、飢坂(かつえざか)への登りとなる。
飢坂は途中から自然道となる。一番高いところに「飢坂の由来」が書かれていた。
飢坂の名前の由来は二つあり、江戸時代、飢饉の時に、ここで多くの人が飢えで力尽き亡くなったことからこの地名になったという伝説と、昔、牛を救って長者となった牛満長者は、助実の歌謡坂)から朝早く田植を始め、昼に浜田まで仕上げ、夕方に当地に達したところで、空腹となり飢坂の地名がおこったというもの。
飢坂を下っていくと、八本松の集落に出る。両側が石垣が積まれた道もある。八本松の駅前を通り、しばらく行くと、大山峠への登りとなる。
大山峠の入口には、西国街道や大山峠の標識もある。
5分も進まないうちに、街道が消えている。2年前に広島付近を襲った豪雨災害の痕跡である。すぐ上で砂防ダムの工事をしている人に聞いたら、とても通れる状態ではないし、向こう側の道も橋が落ちて通れないとのこと・・・戻って、国道を迂回することにした。
1時間弱で、反対側の出口に到着した。ところが、下りてくる道路が閉鎖されていて、「新しい道を作っています」と書かれた看板があった。
峠のこちらがわの道路も流されたということなのであろう。
国道から瀬野の旧道へと入っていくが、道沿いの川にも豪雨災害の爪痕が残っている。
「吉田松陰詩詠の地」の看板と「涼木一里塚跡」
「西国街道」の標識の「大山刀鍛治場跡・墓地」の説明板。これと同じ西国街道の標識は、瀬野地区には多く見られた。
瀬野の市街地に入るが、赤瓦が少なくなり、黒瓦の家が多くなってくる。
その集落の入口に「落合の一里塚跡」と古い道標が並んで立っている。その道標には、「右ハ四日市 左ハ志わ みち」と刻まれている。
瀬野駅前で昼になったので、寿司屋さんへ入って、天ぷらうどんを食べた。汁が抜群に美味しくて、全部飲み干した。
中野地区に入っていくと、公的な道路標識では珍しい「安芸山陽道」と書かれたものがあちこちにあった。
やがて、海田町に入っていく。峠を越えてからは、広島市安芸区だったので、安芸区の海田町かと思っていた。
「出迎えの松」~旧街道の街道松の名残である。名前の由来は、参勤交代の責を果たした安芸国の藩主の帰りを家来や有志の村人がこの辺りまで出迎えたことによる。
いよいよ、今日のゴールである海田市宿へ入っていく。豪華な由緒ありそうな旧家も目につく。
ところが「海田町役場」が現れて、びっくり。そばにいた方に聞いたら、広島市安芸区は分断された感じで、境界が微妙に入り組んでいるらしい。駅名と昔の宿場名は「海田市(かいたいち)」とのこと。
このあと、本陣茶屋跡と脇本陣茶屋跡の標識はあったが、間違って消してしまった。どちらも建物は残っていなかった。
しかし、重要文化財に指定されている「伊藤家」(江戸時代中期)と「三宅家」(江戸時代後期)が残っていた。
宿番の後ろの高台に建っている「月光山大師堂」(1830年天保元年築)
「梅田市の一里塚跡」~ここが駅に一番近いところなので、ここを今日のゴールとして、海田市駅へ向かう。
駅前には大きな看板が・・・ここは織田幹雄氏の生誕の地だった。
すぐに広島行きの電車が来たので、連泊となる広島のホテルへ移動。
これから、夕食を食べに行くが、昨日は、広島お好み焼きを食べた。今日は何を食べよう?地域クーポンが使える店にしたい。