今日は17次目の坂本宿まで歩くつもりだった。しかし、寝る前に投稿者名不明の方(内容からすると、舞鶴なにわやさん?)から、「坂本には宿がなかったはず」とのコメントがあった。気になったが酔った勢いで寝てしまった。3時前に目が覚めたら気になって眠られず。調べようとしたら、箱館人さんから、坂本宿の2kmほど手前の横川駅近くの宿の紹介のコメントが入っていた。
予約はネット対応をしてないので、朝になって電話してダメだったら、手前の松井田宿ででもと調べたが、ここにも宿がない。そこで、横川から電車で戻って磯部温泉か高崎でもと考えた。
しかし、朝になって電話したら、箱館人さんご紹介の「碓日の宿東京屋」が予約できた。少し高かったが、背に腹は変えられない。安心してスタートできた。コメントを下さったお二人に感謝!
朝食付きだったので、しっかり食べてホテルを出た。
7:00に中山道へ戻り、まずは、漆喰彫刻が施されたあら町諏訪神社へ。城下の名所の1つで、昔から街道を行く人の目を楽しませていたという。
10分ほど歩くと、群馬県内の宿場が描かれた中仙道街道絵巻が壁に描かれていた。
歴史を感じる岡醤油醸造。創業は江戸時代だが、この建物は明治30年代のものらしい。覗いていたら、店主が玄関を開けて中に入れてくれた。映画のロケにも何度か使われたとのこと。
明治天皇行幸を記念して命名された君が代橋から霞ながらも見える、三百名山巡りで登り歩いた赤城・榛名の山々が懐かしい。
上豊岡の通りにはだるま工房が多い。高崎の名物らしい。
やがて、烏川の堤防の上のサイクリングロードへ。ウォーキンクの男性と一緒に歩き、この辺りの歴史を教えたもらう。群馬県で唯一現存の藤塚一里塚跡の写真も撮ったが、間違ってけしてしまった。
堤防から国道18号線を歩くと、板鼻宿へ入って行く。板鼻宿は、碓氷川の徒歩(かち)渡しで有名だった。増水すると川止めになり、ここに逗留しなければならず、多いときで、54軒の旅籠があったそうた。
今回の歩きで初めて目にした道祖神。双体道祖神。
板橋公民館前の海音寺潮五郎揮毫の板鼻宿本陣跡の石碑
この公民館の一画に、文久元年(1861年)、徳川家茂に降嫁する皇女和宮が宿泊した本陣付属の書院のみが残されていた。
板鼻宿からわずか3.3kmで安中宿へ。安中宿は、戦国時代に安中氏が築いた城下町だった。城下町らしい蔵造りなどの店など古い佇まいを残している。
商店街の旧街道の1本上の大手坂を上がったら、明治44年に再建された碓氷郡郡役所があった。
その並びに、かつて安中藩士の家が並んでいたことから大名小路と名付けられていた。そこには、旧安中藩郡奉行役宅と旧安中藩武家長屋(画像)が現存し公開されている。
商店街へ下りて歩いていたら「新島襄旧宅」の案内板があった。街道沿いのから離れるので、ガイドブックにも載っていなかった。函館からアメリカへ渡航したことは有名だが、恥ずかしながら安中藩士ということは知らなかった。
遠回りにはなるが寄らずばなるまい。実は明治になって江戸勤めから戻った両親と姉が住んだ住宅で、新島襄がここで暮らしたのは、アメリカから戻って10年ぶりの両親との再会を果たすために滞在した3週間だけとのこと。
安中原市の杉並木。天保年間には730本もあったらしい。
松井田宿の入口付近から望む妙義山。三百名山巡りで、栃木の岳友の女性二人と妻と4人で登ったのが懐かしい。
12:15、ようやく見つけた松井田宿への入口のレストランで昼食を摂った。
松井田宿は、戦国時代の城下町でもあっようだ。碓氷関所を控えて、物資の中継地点として賑わったらしい。旧街道らしい町並みも残っている。
洒落た感じの松井田商工会議所
松井田宿と坂本宿の中間の五料茶屋本陣。ここには、お西とお東の2軒が並んで建っている。画像は、お西。
夜泣き地蔵と茶釜石。手前の石を石で叩いたら本当に金属を叩いた音がした。
この辺りは、国道を何度も横切って山に上がったり、川の方へ下ったりを繰り返した。あとゴールまで1kmくらいの所で迷ってしまい、1kmほど遠回りをしてしまった。
今日のゴール、横川駅前。
15:00に、ちょうど8時間で、余裕のゴール。
夕食前にブログのメドがたったので、妙義山がすぐ目の前に見える食堂で、値段以上の豪華なメニューにつられて、生ビール2杯も飲んでのんびり夕食。
食べ終わってからは、隣のテーブルに連泊で妙義山を登り歩いているグループと山談義で盛り上がった。
【歩数計】45364歩
【諸経費】ドリンク類260円、コピー30円、昼食1230円、観覧料210円、缶ビール250円、生ビール1200円、宿泊代9720円 〈計12860円〉
予約はネット対応をしてないので、朝になって電話してダメだったら、手前の松井田宿ででもと調べたが、ここにも宿がない。そこで、横川から電車で戻って磯部温泉か高崎でもと考えた。
しかし、朝になって電話したら、箱館人さんご紹介の「碓日の宿東京屋」が予約できた。少し高かったが、背に腹は変えられない。安心してスタートできた。コメントを下さったお二人に感謝!
朝食付きだったので、しっかり食べてホテルを出た。
7:00に中山道へ戻り、まずは、漆喰彫刻が施されたあら町諏訪神社へ。城下の名所の1つで、昔から街道を行く人の目を楽しませていたという。
10分ほど歩くと、群馬県内の宿場が描かれた中仙道街道絵巻が壁に描かれていた。
歴史を感じる岡醤油醸造。創業は江戸時代だが、この建物は明治30年代のものらしい。覗いていたら、店主が玄関を開けて中に入れてくれた。映画のロケにも何度か使われたとのこと。
明治天皇行幸を記念して命名された君が代橋から霞ながらも見える、三百名山巡りで登り歩いた赤城・榛名の山々が懐かしい。
上豊岡の通りにはだるま工房が多い。高崎の名物らしい。
やがて、烏川の堤防の上のサイクリングロードへ。ウォーキンクの男性と一緒に歩き、この辺りの歴史を教えたもらう。群馬県で唯一現存の藤塚一里塚跡の写真も撮ったが、間違ってけしてしまった。
堤防から国道18号線を歩くと、板鼻宿へ入って行く。板鼻宿は、碓氷川の徒歩(かち)渡しで有名だった。増水すると川止めになり、ここに逗留しなければならず、多いときで、54軒の旅籠があったそうた。
今回の歩きで初めて目にした道祖神。双体道祖神。
板橋公民館前の海音寺潮五郎揮毫の板鼻宿本陣跡の石碑
この公民館の一画に、文久元年(1861年)、徳川家茂に降嫁する皇女和宮が宿泊した本陣付属の書院のみが残されていた。
板鼻宿からわずか3.3kmで安中宿へ。安中宿は、戦国時代に安中氏が築いた城下町だった。城下町らしい蔵造りなどの店など古い佇まいを残している。
商店街の旧街道の1本上の大手坂を上がったら、明治44年に再建された碓氷郡郡役所があった。
その並びに、かつて安中藩士の家が並んでいたことから大名小路と名付けられていた。そこには、旧安中藩郡奉行役宅と旧安中藩武家長屋(画像)が現存し公開されている。
商店街へ下りて歩いていたら「新島襄旧宅」の案内板があった。街道沿いのから離れるので、ガイドブックにも載っていなかった。函館からアメリカへ渡航したことは有名だが、恥ずかしながら安中藩士ということは知らなかった。
遠回りにはなるが寄らずばなるまい。実は明治になって江戸勤めから戻った両親と姉が住んだ住宅で、新島襄がここで暮らしたのは、アメリカから戻って10年ぶりの両親との再会を果たすために滞在した3週間だけとのこと。
安中原市の杉並木。天保年間には730本もあったらしい。
松井田宿の入口付近から望む妙義山。三百名山巡りで、栃木の岳友の女性二人と妻と4人で登ったのが懐かしい。
12:15、ようやく見つけた松井田宿への入口のレストランで昼食を摂った。
松井田宿は、戦国時代の城下町でもあっようだ。碓氷関所を控えて、物資の中継地点として賑わったらしい。旧街道らしい町並みも残っている。
洒落た感じの松井田商工会議所
松井田宿と坂本宿の中間の五料茶屋本陣。ここには、お西とお東の2軒が並んで建っている。画像は、お西。
夜泣き地蔵と茶釜石。手前の石を石で叩いたら本当に金属を叩いた音がした。
この辺りは、国道を何度も横切って山に上がったり、川の方へ下ったりを繰り返した。あとゴールまで1kmくらいの所で迷ってしまい、1kmほど遠回りをしてしまった。
今日のゴール、横川駅前。
15:00に、ちょうど8時間で、余裕のゴール。
夕食前にブログのメドがたったので、妙義山がすぐ目の前に見える食堂で、値段以上の豪華なメニューにつられて、生ビール2杯も飲んでのんびり夕食。
食べ終わってからは、隣のテーブルに連泊で妙義山を登り歩いているグループと山談義で盛り上がった。
【歩数計】45364歩
【諸経費】ドリンク類260円、コピー30円、昼食1230円、観覧料210円、缶ビール250円、生ビール1200円、宿泊代9720円 〈計12860円〉
6日目へ
そこから、メタボ対策で、私の登山人生は始まったのです。そのころメタボなんていう言葉はなかったです。
お陰さまで、大変助かりました。
料理も美味しくて、チェックイン時間前だったのに、着いたら直ぐに風呂の用意をしてくれるなど、対応も最高でした。
いよいよ楽しみな最初の峠ごえです。
そのあとの、「中山道らしい楽しみ」も楽しみです。
今後ともよろしくお願いいたします。
明日は初めての峠「碓氷峠」、熊が出ると言われていたので、鈴や笛など鳴らしながらほとんど休まず一気に頂上まで歩いた記憶が鮮明(生来の臆病なので)。下りは軽井沢の立派な別荘地を見ながらあっという間に「北軽井沢」の雑踏。軽井沢を過ぎると今日までの街中ウオークと違い、いよいよ中山道らしい楽しみが少しづつ現れてきます。