今朝の新聞に、亀田八幡宮に一市民の手で「箱館戦争降伏式之地」碑が建てられたとの記事が載っていたので、見に行ってきた。
確かに、八幡宮の旧社殿の前に、刀の形を模したという石碑が建っていた。八幡宮は松前藩の祈願所として文禄3年(1594年)に建立されたが、文久3年(1863年)に改築されている。この旧社殿が、その6年後に箱館戦争の降伏誓願の場になったのである。この旧社殿は、市内で最も古い木造建築だそうだ。
裏には、その史実の簡単な説明が彫られている。「降伏後冷酒で歓談」とも記されている。
少し詳しく書くと、明治2年5月15日に弁天台場降伏、5月16日には千代ヶ岡陣屋が陥落、残るは五稜郭のみとなった。ちなみに、土方歳三は5月11日に亡くなっている。5月16日、五稜郭の榎本総裁、松平副総裁のもとに新政府軍の最後通告がなされている。総裁榎本武揚、副総裁松平太郎、陸軍奉行大鳥圭介は、この通告を容れ、翌17日に、指定された亀田三軒家(現八幡町)の農家中村家に赴き、新政府軍の総参謀黒田清隆に降伏を申し出た。
こののち、榎本らは中村家から西南80メートルにある亀田八幡宮に詣で、降伏の旨を神前に誓約したと伝えられている。翌5月18日、五稜郭1000人余投降し、開城。榎本艦隊が品川沖を脱出して9ヶ月、ここに箱館戦争は終わった。鳥羽伏見の役に始まって 1年4ヶ月後、ここに戊辰の役の終焉をみたのである。
実は、最初に降伏を申し出に赴いたこの中村家は、自分が大学時代4年間家庭教師としてお世話になったお宅だ。家は建て替えられているが、今でも同じ場所にあり、家庭教師で教えた長男が住んでいる。
そのころ、家族から「箱館戦争の降伏の話し合いは、この家(当時の前の家)でやったんだよ。榎本武揚は隅っこに座って欠けた茶碗で冷酒を飲んでいたそうだ」と聞かされたものだ。このことからすると、降伏を神前で誓約したのは八幡宮だが、その後の冷酒での歓談は、中村家へ戻って行われたのではないかと思われる。
こちらは、旧社殿の奥に建つ現在の本殿
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