本来なら「蓄積された過去群」ジャンルの日記なのだが,私なりには音楽系に行きつくもので...
さて,今回,私が編曲したのは以下の曲,10/13(祝)の初めての「十曲コンサート」に書き下ろしたのだが,版元の酒田青年会議所からの要請で既に一度歌ったが...
酒田は本当に北西風強い街で,特に拓けた江戸時代あたりからでも,表のようにとんでもない回数の大火を経験してきた。もしも,J.バッハなら5回,L.ベートーヴェンなら6回も酒田の大火を経験したことに...
昭和51年10月29日,私の父が亡くなった10ヶ月半後,夕刻に,全国初とも言われた洋画中心の映画館「グリーンハウス」から出火,鉄筋コンクリだった隣の大沼デパート酒田店でとまると思われたが,風速41m強と言われる例年より早い西風で,中心街である中町アーケードがトンネルのように作用し,消防も誰も成すすべなく市内東部の「新井田川」で防御するほかなかった。
素早く判断した者たちは重要な物だけを持って親類に避難したり,逆に避難を手伝ったりしていた。
判断遅いものは,自宅の屋根や壁に飛来する火の粉(というか塊)をバケツで消そうと抗ったりしていたが,土壇場になり諦め,手荷物だけで避難したそうだ。
参考までだが,私の妻の実家は「あと数十度」強風の方角が違っていれば,間違いなく消失したと思われる地域だ。
さらに,その母の実家は,焼けた火元やデパートから百mそこそこの距離であり,普通なら類焼してもおかしくないのだが,実際にはそうならず,あまりの強風がそこを守ってくれたというか,強風の「意のままに」焼けてしまったとも言えるだろう。
さて,初コンサートでこの曲を歌うこととしたのは,東日本大震災関連で,一人の少年を支援したい思いからったが,結果「酒田大火のことが忘れ去られている」という現実があったからなのだ。
酒田大火で1700戸も失われてから約二年で区画整理も決まり,この歌とともに市民全体で復興を実感した。
より大災害だった阪神淡路大震災でも,酒田の区画整理の話が参考に出された。
全ての住民がなけなしの土地を供出し合って,拡幅道路や公園・緑地のスペースを決めたからである。
そんな,人の良い地域,江戸時代には西回り航路の廻船問屋で賑わった酒田の人々も,こと大火に関しては記憶が薄れてしまっている。
動画に使用した写真の3/4枚目のモニュメントは「防災の塔『はばたき』」と言い,アーケードを突き抜けたすぐ先にあり,大火から復活して未来へはばたく象徴なのだが,本来は「明日に生きる酒田」のチャイムが大火発生定刻に流れていた(その奥の建物は「酒田市資料館であり,酒田大火について常設展示している」)
ところが,日に一度流れるだけでも,役所やらへの「うるさい」「騒音」「迷惑」との声が多くなり,今は全く流れなくなった。大火発生の10/29ですら。
だから,私は歌おうとしているのである。
さて,今回,私が編曲したのは以下の曲,10/13(祝)の初めての「十曲コンサート」に書き下ろしたのだが,版元の酒田青年会議所からの要請で既に一度歌ったが...
酒田は本当に北西風強い街で,特に拓けた江戸時代あたりからでも,表のようにとんでもない回数の大火を経験してきた。もしも,J.バッハなら5回,L.ベートーヴェンなら6回も酒田の大火を経験したことに...
SATB instrumental 混声合唱曲 防災の歌「明日に生きる酒田」
昭和51年10月29日,私の父が亡くなった10ヶ月半後,夕刻に,全国初とも言われた洋画中心の映画館「グリーンハウス」から出火,鉄筋コンクリだった隣の大沼デパート酒田店でとまると思われたが,風速41m強と言われる例年より早い西風で,中心街である中町アーケードがトンネルのように作用し,消防も誰も成すすべなく市内東部の「新井田川」で防御するほかなかった。
素早く判断した者たちは重要な物だけを持って親類に避難したり,逆に避難を手伝ったりしていた。
判断遅いものは,自宅の屋根や壁に飛来する火の粉(というか塊)をバケツで消そうと抗ったりしていたが,土壇場になり諦め,手荷物だけで避難したそうだ。
参考までだが,私の妻の実家は「あと数十度」強風の方角が違っていれば,間違いなく消失したと思われる地域だ。
さらに,その母の実家は,焼けた火元やデパートから百mそこそこの距離であり,普通なら類焼してもおかしくないのだが,実際にはそうならず,あまりの強風がそこを守ってくれたというか,強風の「意のままに」焼けてしまったとも言えるだろう。
さて,初コンサートでこの曲を歌うこととしたのは,東日本大震災関連で,一人の少年を支援したい思いからったが,結果「酒田大火のことが忘れ去られている」という現実があったからなのだ。
酒田大火で1700戸も失われてから約二年で区画整理も決まり,この歌とともに市民全体で復興を実感した。
より大災害だった阪神淡路大震災でも,酒田の区画整理の話が参考に出された。
全ての住民がなけなしの土地を供出し合って,拡幅道路や公園・緑地のスペースを決めたからである。
そんな,人の良い地域,江戸時代には西回り航路の廻船問屋で賑わった酒田の人々も,こと大火に関しては記憶が薄れてしまっている。
動画に使用した写真の3/4枚目のモニュメントは「防災の塔『はばたき』」と言い,アーケードを突き抜けたすぐ先にあり,大火から復活して未来へはばたく象徴なのだが,本来は「明日に生きる酒田」のチャイムが大火発生定刻に流れていた(その奥の建物は「酒田市資料館であり,酒田大火について常設展示している」)
混声合唱曲 防災の歌「明日に生きる酒田」チャイム風verF Dur
ところが,日に一度流れるだけでも,役所やらへの「うるさい」「騒音」「迷惑」との声が多くなり,今は全く流れなくなった。大火発生の10/29ですら。
だから,私は歌おうとしているのである。
東北の方でも,生徒たちの詩を拾って歌にした教員がおられましたが,いずれもそういう「想い」なのでしょうね?
どんな仕事をしておられるかはわかりませんが,素晴らしいことですね。
心のおもむくままに,すべきことをする感じでしょうか。
震災直後,語りつくせぬ惨状に「ああ、私の愛した仙台が壊れていく。善良な人々が..」すぐに涙が出ました。
さらに,東電の発電所がイカレてしまい,業界人として非常に大きな苦痛をあじわいました。
半月して女川一小でラジオ体操のピアノを弾く「まさき君」に心打たれ号泣していました。
そして仙台市立八軒中の生徒の「あすという日が」を聴き,また心を揺さぶられました。
でも,商業主義は怖いもので,中学生を華やかな場所に押し出していきます。
私は「あすという日が」の詩人の山本瓔子さんとやり取りしてましたので「チャリティ」でCDも購入しましたが,避難所で無垢に歌われた最初のものにはかないません。
話がずれましたが,結局,私は「まさき君」を支援すべく,10月のコンサートに向けて必死です。
神戸の小学生たちが歌っている曲はご存知ですか?
神戸の教師が作詞作曲したものですが、
震災の日に神戸の小学生は忘れないように歌うんですって。
メディア発信の「花は咲く」とは違い、そのような形で残していくしかないのかもしれませんね。
仕事で被災地に通ってますが(被災する前から行ってました)、本当に心の復興って難しいと思います。
被災地の仕事は断りません。何とか手配します。足を運ぶことを心がけてますね。
どのような苦情だったかは,現在の「危機管理課」のご担当では存じ上げないようでした。
>カリヨンとかにすれば、そんなことない気も…。
実質,カリヨンよりはシンプルで問題ない気がします。
我が家からもサイレン風の「ウーーーーッ」って正時のものやエーデル・ワイスの変な音色のとか聞こえますが「うるせー!ヤメロー!」な感じはしません。
トラウマとか精神的なものがあるのでしょうか!?
大震災と言えば,記憶を残す意味でビルの上の船を残す・残さない,と言うようなデリケートな感じ?
>今回のコンサートで、曲が復権することを祈ってますね。
理解いただけてありがとう。
これを青年会議所と,あとは四十年近い付合いの先輩が「ぜひやるべき」と言ってくれています。
防災無線の確認のために、自治体って朝晩音楽流しますよね。私の街は某特撮ヒーローたちの主題歌ですが…。
うるさいっていう話は聞きませんねぇ。
当時のことを思い出してしまうから?
編曲の問題?
oyaji。さんのUPしているものを聞く限り、邪魔だとは思いませんでしたよ。
カリヨンとかにすれば、そんなことない気も…。
今回のコンサートで、曲が復権することを祈ってますね。