せっかく田町まで行ったので、ちょうど開催中の第1回ホームカミングデイに、行ってみようと、友人と待ち合わせをして、母校を訪れました。
まずは学食で腹ごしらえ。
まずくはないですが、399円なりのお味でした。笑。
お目当ては、卒論指導教授だった佐藤保先生の特別講義。
母校の学長をなさった後、なんと今は二松学舎の理事長をなさっているとか。全くお変わりなくお若くお元気なお姿にびっくりです。
お題は「中国版〈学問のすすめ〉」
元の時代に編纂されたといわれる「古文真宝」から3つの詩文を紹介して解説してくださいました。
福沢諭吉の「学問のすすめ」は、当時の日本人44人に1人が読んだという大ベストセラーだったらしいのですが、中国ではその遥か昔から、学問のすすめ、勧学の文章や詩がたくさんあったということです。
まずは真宗皇帝勧学という詩。北宋の第3代皇帝が、息子が9才の時に、勉強しなさいよ、本を読みなさいよ、ということを教える為に作った詩。
次が柳屯田勧学文。これはちょっと面白いので引用します。
(解釈は崎田流)
父母養其子而不教、 両親が子どもを育てているのに教育しないというのは、
是不愛其子也。 その子どもを愛していないということになります。
雖教而不厳、 教育していても、厳しくなければ、
是亦不愛其子也。 それもまた、その子を愛していないということになります。
父母教而不学、 両親が教育しているのに、勉強しないというのは、
是子不愛其身也。 それは子ども自身が自分を大事に思っていないということです。
雖学而不勤、 勉強してはいても、一生懸命にやらないというのは、
是亦不愛其身也。 それもまた、自分を大事に思っていないということです。
是故養子必教、 ですから、子どもを育てる人は必ず教育をし、
教則必厳。 教育する時には厳しくしなければなりません。
厳則必勤、 厳しくすれば、必ず一生懸命にやるし、
勤則必成。 一生懸命にやれば、必ず大成します。
学則庶人之子為公卿、 勉強すれば普通の人もリッチになれるし、
不学則公卿之子為庶人。 勉強しなければ、リッチな家の子も、貧乏になります。
千年近く昔に書かれた文章ですが、今もそのまま使えそうです。
でもね、
厳則必勤、 厳しくすれば、必ず一生懸命にやるし、
勤則必成。 一生懸命にやれば、必ず大成します。
ってところは、どうでしょうねえ?
今の子どもに厳しくすると、逆切れしちゃうんですよねえ。。
「勉強したって別にえらくなれるわけじゃないし」
と冷めてるしね。扱いづらいです。。
まあ、それでも、時々読み返して、
厳しく勉強しろ勉強しろという私は間違っていない!!
と自己肯定するのに、いいと思います。
もうひとつは、朱子の朱文公勧学文。
こちらは耳の痛い文です。(解釈は崎田流)
勿謂今日不学而有来日 今日勉強しなくたって明日があるさといいなさんな
勿謂今年不学而有来年 今年勉強しなくたって来年があるさといいなさんな
日月逝矣 歳不我延 月日は過ぎゆき 歳とるばかり
嗚呼老矣 是誰之愆 ああ、もうこんなに歳とってしまった
これはだれのせいでしょう?
これによく似ている詩で、有名なものに「偶成」というものがあります。
こちらも朱子が作ったとされていますが、本家中国にはそれが見当たらず、日本人による贋作ではないか、と言われているそうです。へえ!
少年易老学難成 少年老い易く学成り難し
一寸光陰不 可 軽
一寸の光陰軽んずべからず
未覚池塘春草夢
未だ覚めず池塘春草(ちとうしゅんそう)の夢
階前梧葉已秋声
階前の梧葉(ごよう)已(すで)に秋声
またこのような勧学文のもので最古のものは論語の勧学篇だということです。
君子曰、
「学不可以已。」
青、取之於藍、而青於藍、
氷、水為之、而寒於水。
木直中縄、輮以為輪、
其曲中規、雖有槁暴不復挺者、
輮使之然也。
故木受縄則直、金就礪則利、
君子博学而日参省乎己、
則智明而行無過矣。
故不登高山、不知天之高也、
不臨深谿、不知地之厚也、
不聞先王之遺言、不知学問之大也。
干越夷貉之子、生而同声、
長而異俗、教使之然也。
詩曰、
「嗟、爾君子、無恒安息。
靖共爾位、好是正直、
神之聴之、介爾景福。」
神莫大於化道、福莫長於無禍。
昔の君子が言っている、
「学問は途中でやめてはならない。」と。
青は、藍草から取ってできるものだが、藍草より青く、
氷は、水が変化してできるものだが、水より冷たい。
木がまっすぐで定規にぴったり合うようでも、
湾曲させて輪にすれば、其の曲がりようはコンパスにぴったり合うようになり、
枯れて乾燥しても二度とまっすぐにならないのは、湾曲させることがそうさせたのである。
同様に木は定規に当てられれば、まっすぐになり、金属は砥石で磨かれれば鋭くなり、
君子は幅広く学んで一日に我が身を何度も振り返るならば、物事に通じ行動を誤らなくなるものである。
ところで、高い山に登ってみなければ天の高さを知ることはできず、
深い渓谷を間近に見てみなければ大地の厚さを知ることはできず、
古代に聖王の残した言葉を聞いてみなければ、学問の重大さを知ることはできないものである。
干や越、夷や貉といった異民族の子供らは、生まれたときは同じように産声を上げるが、
成長すれば異なった風俗を身に付ける、これは教育がそうさせているのである。
詩経にこうある、
「ああ、おまえたち君子よ、常に安逸をむさぼることがあってはならぬ。
自らの職責を全うし、その正しく嘘のないところを好み、
神的なものを畏敬してこれに従い、自分の大いなる幸いをさらに大きなものにせよ。」と。
ここにいう「神的なものを畏敬する」とは、聖人の学問に感化されることより重要でなく、
ここにいう「幸い」とは、災いのないことより良いものはないものなのだ。
孔子さんは2500年前の方ですけど、いいことおっしゃってますね。
安きに流されがちな日々、、たまにはこんな教養あるお話しを聞いて、自分を見つめ直すのもいいですね。。(三日坊主なんですけどね)