国際フォーラムで公開審査をするので見に来て下さいと新建築社のツイッターでお誘いがあったので、先輩たちと後学のために、見学してきました。
今回の審査委員長は山本理顕さん。委員は岡本賢、櫻井潔、芦原太郎、内藤廣、隈研吾、高橋邦人。(敬称略)
お題は都市環境に寄与する集合住宅。
国際コンペなので、23の国から500点を超える応募がありました。
1次審査で残った7点について13:30から17:00まで審査が行われ、最優秀は中国の天秋(ティエン・チョウ)さん。優秀は香港のツイ・チュン・シンさんと芝浦工大と乃村工藝社の4人組(池田、木曽川、中出、吉田)。
全体的に、香港と韓国の二人は高層と低層を組み合わせた具体的な建築の提案。中国の方は建築というには微妙だけれど、領域の意識をテクスチャーで表現して住む人の環境への意識を改革しようと言う、心理学的アプローチ。芝浦工大は月島のもんじゃ焼き通りの裏の木造密集地域を、路地的なものを再生して再構築する案。理科大と京都工芸繊維大と九州大は、いずれも住宅を室ごとにバラバラに分解して、それを因数分解して集合住宅にするというような案。このタイプが500の応募の約10%を占めていたらしい。今の若者の「気分」なのだろうか?理顕さんがこれに対して激しく拒絶反応を示し、「リアリティーがない」とぼろくそに言っていた。
そもそもアイディアコンペにリアリティーは必要なのか?
法規的なリアリティーや、経済的なリアリティー(月島に低層住宅を誰が建てるのか?ペイするのか?というような)は考慮する必要はないのではないか?実施コンペじゃないのだから。理顕さんがいうリアリティーというのはおそらく、経済的に見合わないとしても低層にするべき月島が持つ独自性、敷地をそこに選定した理由付をはっきりと言って欲しい、という意味なのかな?
審査委員が全員50歳以上の男性だけだったので、日本の若者の、家族はすでに崩壊した。コミュニティーは幻想だ。という前提に立ったような提案に拒否反応がでたのかもしれない。もし、藤本壮介さんとか、若い世代が審査委員だったら、また違っていたのかも?
私が感じたのは、どの案も建築から形が抜け落ちて行っているという感覚。もはや建築というのは物質的な形ではなく、概念になっているのだろうか。
圧倒的なマッスの力で訴えるいわゆる建築は安藤忠雄で終わったのか。
その後伊東豊男や妹島和世が追い求めた限りなく薄くて透明な世界は、いかに建築の存在感をなくしていくかという作業だった。
それとは別に隈研吾や石井和紘が取り組んだのはカモフラージュすることによって存在感を消す方法。
いずれにしてもいかに建築のマッスの力を消去していくかに腐心していたと思う。
そして、その後の世代は、それすら拒否して、形は単純な四角でいい、行為をダイアグラムすることこそが建築であるというような。まさにバーチャルな感覚に移行しているようだ。
九州大の作品は凡庸な戸建て住宅を拡大して行って、という一見アイロニカルな作品。内藤廣さんが「これはアイロニーなの?マジなの?」という助け舟を出したのに「マジです」と答えたために、評価が落ちてしまったのだが、この人たちに至ってはすでに形をデザインすることには何も意味がないので放棄した、というように受け止められる。おそらく無意識の中でそうなっていったのかもしれないが。
そういう、失われていく形、失われていく家族、失われていくコミュニティに対して、50代、60代の大先生方は拒絶反応があるのだろう。
今の若者の雰囲気を感じ、また、先生方の反応を間近に見れて、大変面白かった。