男性と女性の両性に属する身体性を持つ例えばセメンヤさんの問題
日本 中国 台湾 の間にある尖閣諸島の領有権の問題
といったものは
何らかの交わりに位置する存在者に対する判断の難しさを投げかけるものとして我々に突き付けられる
本日私が目にしたのは
生殖補助医療が抱える倫理と法律上の問題である。
この問題の悩ましさはあまりにも深すぎる。
だが
過去の判例に見られる司法判断をそのまま受け入れるのも
相当に抵抗を感じた。それで自分なりに判断してみようとしたのだが
司法判断の妥当性を肯んじる結果になった。
不妊のため子を望む者が生殖補助に依存する現状を受け入れるならば
それによって誕生した子供には
自らアイデンティティーを形成できる余地を与える配慮が必要だろう。
代理母の場合 卵子を提供した女性も 懐妊して出産した女性も どちらも母としなければ
どちらかが不幸になる。
そうではあっても子を独占したくなるのも人情だ。
こうした境遇に生まれた子供は 両者を通って生きることを余儀なくさせられるだろう。
誕生した子供にも苦悶が突き付けられる。
不妊治療の限界を越えて
なぜ
他者の腹を痛める科学技術の適用が許されたのか
私はその経緯を知らない。
がしかし
生殖補助なる施術といった科学技術を淫らに 倫理を省みずして運用してしまったことがそもそもの原因であることは明白だ。
われわれは
あまりにも科学技術に依存してしまっている。
それが投げかける問題はあまりにも深刻である。