池袋暴走事故で写真から見てもいかにも年老いている飯塚被告人は
事故の直前の一瞬に
足元を見てアクセルが貼り付いているように見えた
と証言したようだが
被告人がブレーキを踏んだのならば
自らの右足元の右側にあるアクセルペダルを姿勢を崩さずに
被告人の証言のような
状態であることを確認できるものだろうか???
また
アクセルペダルから足を離さなかったとしても
そのような状態を目視することはできない。
被告人実験を
するべきだろう。
被告人に
実際に当該事故車両にエンジンをかけず乗車させて
ブレーキを踏ませ
アクセルを確認させること
および
アクセルも
ブレーキも
踏まず
アクセルを確認させること
この2つを実験するとよいだろう。
ただし
アクセルペダルには
色紙を貼っておいて
アクセルペダルはどのようになっていましたか
というような問を投げかけることもしたらよいだろう。
車の運転に相当技能を積んだ私でさえ
明らかに異常な走りになっていると感知した
この場合にはブレーキが効かないなどの
咄嗟の瞬間に前から目を離して
足元を目視し
アクセルの状態を確認することなどのような神業はまったくできないことである。
足元を見ている場合ではない !
前を見て何を今すべきかを素早く判断して必死になってできうる操作をするだろう。
また
たとえ
目視できたとしても
アクセルの状態を確認しようとしたら
上体をかなり前に折り曲げなければならないだろう。
これができたとしても
そのような運転は危険極まりない。
前を見ることから目を離し
さらに上体を折り曲げて運転するなどということは
とても恐ろしいことである。
被告人がこれを平然と主張しているのは
被告人が常軌を逸しているか
自らを守ろうとして
詭弁を弄しているか
のどちらかでしかないと考えられる。
明くる今日
軽自動車を回送中に
ゆっくり走っているとき
ブレーキを踏みながら姿勢を変えずに足元に目をやり
アクセルが見えるか試してみたら
今日運転したミライースでは
簡単に見ることができた。
しかし
アクセルが床に貼り付いているかは
そのままでは分かりづらく
それが確認できるようにするには
身体を折り曲げて
目をアクセルに近づける必要があることは理解できた。
飯塚被告人の証言は
やはり自然性がない
無理な強弁と言えるものでしかない。
私は飯塚被告人が
起こした暴走事故は
身体能力と認知感知能力の衰えに因り引き起こったパニック事故であると考える。
端から言われているようなアクセルとブレーキの踏み間違えというものではなく
右へと曲がるカーブにスピードを落とさず入ったために
ふらつきを伴うオーバーステア気味になり
ある程度そのまま
直進して
左側の人や物にヒットするのを身体能力と認知判断力の衰えにより避けられず
ヒットしてしまったことが元になって
パニックに陥り
ブレーキに足を動かせず
アクセルを踏んだまま
あちこちにヒットしては
慌ててハンドルを切ったりするふらつき走行を繰り返して
車がぶつかって進行できなくなるまで
終始パニックに陥ったままの事故であったと考える。
事故の形跡様相からそれが十分に窺えるものと確信する。
私は今年66歳だが
65歳だった去年の初秋
4輪ともスタッドレスタイヤを履いていた
マニュアル軽トラックを
雨中の中
深夜
国道6号線を石巻市に向かって
すっ飛ばしていた。
日立市に入ったばかりのところに大きなカーブがある。
ノーマルタイヤなら
雨中でも
100キロほどのスピードで
十分に余裕で曲がり切る。
私はそのとき4輪とも
スタッドレスを履いていることを軽視していた。
雨中でグリッド力がさらに弱まることを計算に入れるのを
怠ってしまった。
カーブの始め辺りで
ハンドル操作が不能となる
ハイドロプレーニング現象が起り
初めての経験でパニックに陥ったが
瞬時に気を取り直し
ハンドルを前進方向へ固定すべくしっかり握り
急ブレーキをかけ続けた。
車はハイドロプレーニングにより
アンダーステアの方向に突進し右側縁石にヒットした後
クルクルと急スピンしながら前方へと進行した。
私は目が回るほどの感覚を伴いながら
いつ車が倒れるかもしれないという恐怖に駆られながら
ハンドルを必死に固定し
急ブレーキをかけ続けた。
車は4回転ほどして
ほぼ前方に向くようにして
正立して停車した。
私は九死に一生を得た。
深夜だったから
交通量が少なかった
ことも幸いした。
後方でことの次第を
停車させて見守っている車が見えた。
私はすぐに車をゆっくり走らせ
カーブの先の
左側の歩道に乗り上げて停車させた。
車は右にハンドルを切れない状態だった。
回送を依頼した会社にすぐに報告し
レッカー車を依頼し
110通報して警察官に現場検証をしてもらった。
検証した警察官は生還できたのは奇跡だと言った。
私はすぐ近くに東京行きの高速バスの始点バス営業所があった
ため歩いてそこに行き
午前三時ころ始発のバスが出るまで
寒さに凍えながら
三時間ほど待った。
何もかもがこのときはついていた。
また、
この単独交通事故を起こした
半年ほど前の三月始めころ
広島市から浜田市の美又国民保養センターへ
レンタカーのデミオを借りて
走行していたとき
グーグルマップが
車1台しか通れない
路面が土で
左側が山の斜面、右側が断崖絶壁のクネクネ曲がる県道を案内した。
1度だけ走ったことがあったので
そのときも大丈夫と思い意を強くして入っていった。
数キロほど走って
倒木が道を塞いでいた。
降りて倒木を退けようとしたが
一人ではどうにもならなかった。
私はパニックった。
携帯が通じる場所でもなかった。車を放置する訳にも行かない。
必死に落ち着け落ち着けと心に呼びかけながら
最大限に車を左側に寄せながら
クネクネ曲がり道を
ゆっくりとバックさせ
比較的幅の広いところを求めていった。
バックしてもなかなか
転回できる道幅に出会えなかった。
運転席のすぐ窓越しに見える右側の断崖絶壁の淵をかすめながら募る恐怖と焦る気持ちを必死に抑え
ゆっくりゆっくり後退させていった。
数百メートルほどバックしてようやくやや幅の広い部分に
出た。
それでも
車の全長分ほどの道幅しかない。
恐怖を募らせるバックをするには限界に来ていた。
私は意を決して転回を試みた。
車の全部が崖の淵にかかること六度ほどの必死の切り返しで
ようやく反対方向に車が向き
その県道から逃げおおせることができた。
コンバクトカーだからできたことで
それより大きな車だったらと思うとゾッとした。
広い県道に戻ると携帯は繋がり
すぐに110番通報した。
バトカーで進入したら
危険であることを告げて。
パニックに陥っても
危険から最大限逃げようとする
走行に対応しようとできる身体能力と認知判断力を持ち合わせていなければ
私は走る凶器を
持たせるべきではないと考える。
私自身もそのような状態に陥ったら
怖くて車には乗ることができない。
車の運転には常に細心の注意力が要求され
そのような状態では
その要求に応えることなど
まったくできなくなるからである。
高齢者の認知症対策のため
国の経済負担軽減のため
に
そのような状態の高齢者に
走る凶器を持たせるべきでは
ない
と考える。
人命を重んじることのほうが
何よりである。
今日の最終公判の記事から知れた
被告人の弁護団の最終弁論は
実に被告人に都合良く主張された
不自然主張と断じるに値する以外の何物でもない。
被告人は最終弁明で
おかしいと考えられ
1秒の瞬時に足元を確認してみた
というような弁明をしたようだが、
ほんの一瞬でも前から目を離すことなど不可能と十分に言える
事故にまさに直面したという状況で
被告人が主張するような
冷静な判断と確認をすることができるような人は
誰もいない(そのような行動をとれる人が存在する可能性は0%であると考えられる。)
というのが
自然な判断というものである。
そういう常人のする判断を主張することができず
公判においても
理路整然と論を組み立てるところから終始発せられていると考えられる
常人のする判断とは乖離した冷静判断をなすところは
被告人が
長らく官僚のトップとして生きた
経歴に深く刻まれた精神構造によるところが大きいものと考えられる。
常人でいることの大事さを
つくづくと考えさせられる
もう一つの事件だった。
仮に被告人が
唯一無二のそうした冷静さを持ち合わせていた人だったとしたとしても
被告人が人間性を冷静さしか持ち合わせていない
感受性のまったくない人物である
という人間像が成り立つ。
なぜなら
ブレーキが効かないと認知した瞬間に
恐怖に駆られるというのが
尋常な人間だからだ。
被告人は
公判において終始その体験を語っていない(記事を読んだ限りでは)。
恐怖を語ることのなかった被告人の
如上のような弁論に
信用性は微塵もないのである(自ら語っていないのであれば作り話の域を 出ない)。
犠牲となったお二人の被害状況を
今日の記事で読んで
私は思わず嗚咽した。
莉子ちゃん 真菜さん
ご冥福をお祈りします。