誰も咄嗟の暴走時に足元を見て確認することはできない。

2021-06-22 14:33:00 | 日記
池袋暴走事故で写真から見てもいかにも年老いている飯塚被告人
事故の直前の一瞬に
足元を見てアクセルが貼り付いているように見えた
と証言したようだが
被告人がブレーキを踏んだのならば
自らの右足元の右側にあるアクセルペダルを姿勢を崩さずに
被告人の証言のような
状態であることを確認できるものだろうか???
また
アクセルペダルから足を離さなかったとしても
そのような状態を目視することはできない。

被告人実験を
するべきだろう。
被告人に
実際に当該事故車両にエンジンをかけず乗車させて
ブレーキを踏ませ
アクセルを確認させること
および
アクセルも
ブレーキも
踏まず
アクセルを確認させること
この2つを実験するとよいだろう。
ただし
アクセルペダルには
色紙を貼っておいて
アクセルペダルはどのようになっていましたか
というような問を投げかけることもしたらよいだろう。

車の運転に相当技能を積んだ私でさえ
明らかに異常な走りになっていると感知した
この場合にはブレーキが効かないなどの
咄嗟の瞬間に前から目を離して
足元を目視し
アクセルの状態を確認することなどのような神業はまったくできないことである。
足元を見ている場合ではない !
前を見て何を今すべきかを素早く判断して必死になってできうる操作をするだろう。
また
たとえ
目視できたとしても
アクセルの状態を確認しようとしたら
上体をかなり前に折り曲げなければならないだろう。
これができたとしても
そのような運転は危険極まりない。
前を見ることから目を離し
さらに上体を折り曲げて運転するなどということは
とても恐ろしいことである。
被告人がこれを平然と主張しているのは
被告人が常軌を逸しているか
自らを守ろうとして
詭弁を弄しているか
のどちらかでしかないと考えられる。



明くる今日
軽自動車を回送中に
ゆっくり走っているとき
ブレーキを踏みながら姿勢を変えずに足元に目をやり
アクセルが見えるか試してみたら
今日運転したミライースでは
簡単に見ることができた。
しかし
アクセルが床に貼り付いているかは
そのままでは分かりづらく
それが確認できるようにするには
身体を折り曲げて
目をアクセルに近づける必要があることは理解できた。
飯塚被告人の証言は
やはり自然性がない
無理な強弁と言えるものでしかない。



私は飯塚被告人が
起こした暴走事故は
身体能力と認知感知能力の衰えに因り引き起こったパニック事故であると考える。

端から言われているようなアクセルとブレーキの踏み間違えというものではなく

右へと曲がるカーブにスピードを落とさず入ったために
ふらつきを伴うオーバーステア気味になり
ある程度そのまま
直進して
左側の人や物にヒットするのを身体能力と認知判断力の衰えにより避けられず
ヒットしてしまったことが元になって
パニックに陥り
ブレーキに足を動かせず
アクセルを踏んだまま
あちこちにヒットしては
慌ててハンドルを切ったりするふらつき走行を繰り返して
車がぶつかって進行できなくなるまで
終始パニックに陥ったままの事故であったと考える。
事故の形跡様相からそれが十分に窺えるものと確信する。


私は今年66歳だが
65歳だった去年の初秋
4輪ともスタッドレスタイヤを履いていた
マニュアル軽トラックを
雨中の中
深夜
国道6号線を石巻市に向かって
すっ飛ばしていた。
日立市に入ったばかりのところに大きなカーブがある。
ノーマルタイヤなら
雨中でも
100キロほどのスピードで
十分に余裕で曲がり切る。
私はそのとき4輪とも
スタッドレスを履いていることを軽視していた。
雨中でグリッド力がさらに弱まることを計算に入れるのを
怠ってしまった。
カーブの始め辺りで
ハンドル操作が不能となる
ハイドロプレーニング現象が起り
初めての経験でパニックに陥ったが
瞬時に気を取り直し
ハンドルを前進方向へ固定すべくしっかり握り
急ブレーキをかけ続けた。
車はハイドロプレーニングにより
アンダーステアの方向に突進し右側縁石にヒットした後
クルクルと急スピンしながら前方へと進行した。
私は目が回るほどの感覚を伴いながら
いつ車が倒れるかもしれないという恐怖に駆られながら
ハンドルを必死に固定し
急ブレーキをかけ続けた。
車は4回転ほどして
ほぼ前方に向くようにして
正立して停車した。
私は九死に一生を得た。
深夜だったから
交通量が少なかった
ことも幸いした。
後方でことの次第を
停車させて見守っている車が見えた。
私はすぐに車をゆっくり走らせ
カーブの先の
左側の歩道に乗り上げて停車させた。
車は右にハンドルを切れない状態だった。
回送を依頼した会社にすぐに報告し
レッカー車を依頼し
110通報して警察官に現場検証をしてもらった。
検証した警察官は生還できたのは奇跡だと言った。
私はすぐ近くに東京行きの高速バスの始点バス営業所があった
ため歩いてそこに行き
午前三時ころ始発のバスが出るまで
寒さに凍えながら
三時間ほど待った。
何もかもがこのときはついていた。
また、
この単独交通事故を起こした
半年ほど前の三月始めころ
広島市から浜田市の美又国民保養センターへ
レンタカーのデミオを借りて
走行していたとき
グーグルマップが
車1台しか通れない
路面が土で
左側が山の斜面、右側が断崖絶壁のクネクネ曲がる県道を案内した。
1度だけ走ったことがあったので
そのときも大丈夫と思い意を強くして入っていった。
数キロほど走って
倒木が道を塞いでいた。
降りて倒木を退けようとしたが
一人ではどうにもならなかった。
私はパニックった。
携帯が通じる場所でもなかった。車を放置する訳にも行かない。
必死に落ち着け落ち着けと心に呼びかけながら
最大限に車を左側に寄せながら
クネクネ曲がり道を
ゆっくりとバックさせ
比較的幅の広いところを求めていった。
バックしてもなかなか
転回できる道幅に出会えなかった。
運転席のすぐ窓越しに見える右側の断崖絶壁の淵をかすめながら募る恐怖と焦る気持ちを必死に抑え
ゆっくりゆっくり後退させていった。
数百メートルほどバックしてようやくやや幅の広い部分に
出た。
それでも
車の全長分ほどの道幅しかない。
恐怖を募らせるバックをするには限界に来ていた。
私は意を決して転回を試みた。
車の全部が崖の淵にかかること六度ほどの必死の切り返しで
ようやく反対方向に車が向き
その県道から逃げおおせることができた。
コンバクトカーだからできたことで
それより大きな車だったらと思うとゾッとした。
広い県道に戻ると携帯は繋がり
すぐに110番通報した。
バトカーで進入したら
危険であることを告げて。


パニックに陥っても
危険から最大限逃げようとする
走行に対応しようとできる身体能力と認知判断力を持ち合わせていなければ
私は走る凶器を
持たせるべきではないと考える。
私自身もそのような状態に陥ったら
怖くて車には乗ることができない。
車の運転には常に細心の注意力が要求され
そのような状態では
その要求に応えることなど
まったくできなくなるからである。


高齢者の認知症対策のため
国の経済負担軽減のため
そのような状態の高齢者に
走る凶器を持たせるべきでは
ない
と考える。


人命を重んじることのほうが
何よりである。



今日の最終公判の記事から知れた
被告人の弁護団の最終弁論は
実に被告人に都合良く主張された
不自然主張と断じるに値する以外の何物でもない。
被告人は最終弁明で
おかしいと考えられ
1秒の瞬時に足元を確認してみた
というような弁明をしたようだが、
ほんの一瞬でも前から目を離すことなど不可能と十分に言える
事故にまさに直面したという状況で
被告人が主張するような
冷静な判断と確認をすることができるような人は
誰もいない(そのような行動をとれる人が存在する可能性は0%であると考えられる。)
というのが
自然な判断というものである。
そういう常人のする判断を主張することができず
公判においても
理路整然と論を組み立てるところから終始発せられていると考えられる
常人のする判断とは乖離した冷静判断をなすところは
被告人が
長らく官僚のトップとして生きた
経歴に深く刻まれた精神構造によるところが大きいものと考えられる。
常人でいることの大事さを
つくづくと考えさせられる
もう一つの事件だった。

仮に被告人が
唯一無二のそうした冷静さを持ち合わせていた人だったとしたとしても
被告人が人間性を冷静さしか持ち合わせていない
感受性のまったくない人物である
という人間像が成り立つ。
なぜなら
ブレーキが効かないと認知した瞬間に
恐怖に駆られるというのが
尋常な人間だからだ。
被告人は
公判において終始その体験を語っていない(記事を読んだ限りでは)。
恐怖を語ることのなかった被告人の
如上のような弁論に
信用性は微塵もないのである(自ら語っていないのであれば作り話の域を 出ない)。


犠牲となったお二人の被害状況を
今日の記事で読んで
私は思わず嗚咽した。
莉子ちゃん 真菜さん
ご冥福をお祈りします。












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句集タイトル完成 !

2021-06-19 08:04:56 | 日記
三十一文字 と
奥の細道
からヒントを得て
三十三周年記念句集のタイトルを

三十三の継ぎ道(みそみのつぎみち)


としたい。

私の人生の極まりに
三十三年が色濃く関わっている。
青年期のライフワークだった
処女作 『超越者意識の純粋現象学』のためのエチュードを著したのが三十三歳の年だった。
今手掛けようとしている塾年期のライフワークとなる俳句集は
それからさらに三十三年を経過した六十六歳を迎えた今年である。
私の生きている道は三十三を一区切りしたものとなっているかのようだ。
これほど有り難く冥利に尽きることはない。
こうした思いを込めて如上のものとすることにした。

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我がママ押し通し放題のパフォーマー魔女

2021-06-02 09:58:48 | 日記
私は
大坂なおみがサーシャバインコーチを解任して以来嫌いになった。
いかんとしても肯んじ得ない身勝手さを感じたからだ。
以来
私は
大坂なおみを
身勝手なパフォーマンス魔女と
思っている。
全仏オープンにおける記者会見拒否も
彼女の身勝手さ全開の言動だと思う。
鬱告白もその延長のものと考えている。
あるいは身勝手さをひた隠しにして
表面だけを取り繕う生業が
待ち受けていた
落とし穴だと思う。
大坂なおみを却って賞賛する
テニス関係者の言動に
私はテニスへの興味を失いつつある。
大坂なおみは
自らのパフォーマンスにより
すべての人を惑わして止まない
存在との私の評価は
ほぼ絶対的だ。

人間力に杜撰な
わがまま押し通放題の気まぐれパフォーマー
よく言っても
この程度が限度だ。


昨日
大坂なおみは
自分に好意的な理解をしている人々に
SNSを通じて感謝の意を表したという。
極めて普通に感情を営んでいる。
不可解な失踪をして昨日帰宅した門倉さんとは
まったく
状況を異にしている。
本人の口からでなく
門倉さん側(実際は奥さん)から
氏の状態が鬱ではないかと表明されるのは
十分に納得できるものがある。
しかしながら
大坂なおみは
自らの口からdepressionを表明する
前後で
門倉さんのような
感情の営みが普通にできず
不可解な行動を取るという点は見受けられず
白黒ハッキリと判断をこなして
感情を吐露することができる
普通の人である。
しかも
先の言葉を表明した後で
東京オリンピックへの参加を
積極的に表明しもしている。
心の健全性は十分に担保されていると言えよう。
周りの人々が極めて好意的に
大坂なおみを賛美して言うような
鬱状態に
彼女が陥っているとは
到底考え難いものがある。


大坂なおみは
あくまで
特権的に
わがまま放題を
やり遂げる
なのである。



全米オープンで心が切れて
悪行を繰り返した大坂なおみ
やはり根っからの切れるタイプなのだろう。
精神的に弱いのだ。
精神コントロールに欠陥を持つ人間なのだ。
こういう者をやたらと持ち上げたり
同情して甘やかしたりすれば
悪循環するだけである。
試合から遠ざかっている場合ではない。
己とどこまても向き合うしかない。
そして自らの非を徹底的に見つめることだ。
自らを救うそれがただ一筋の道だと思う。
心の成熟はその他にはないだろう。

もう一人テニス界ですぐ切れる女子プレイヤーがいる。
その精神的欠落点で実力を発揮できず、成長することもなかなかできないとても残念なプレイヤーだ。
それはアニシモアだ。
彼女は少し若年である。
年を重ねれば落ち着きを持つことが
できるのではないかと
ほんの少しの期待を持って見ているのだが。


大坂なおみの場合は精神科医が特別の目を向けて判断する以前の
もともと心理面において
持ち合わせている我の強さ(ワガママ)が単に上手くプレーできないことなどで
抑えが効かなくなり爆発をもたらす
といった十分自然な
あまりにも人間的な生業からのものでしかないと私は思う。
心理的にあまりにもずさんなのだ。
大坂なおみは
恐らく
ピークを過ぎて下りつつあり
過去の栄光にまみれた時とのギャップに単に苛立ちを素直に表わしているだけなのだ。
能力に優れた大坂よりさらに若年が多く台頭してきている状況がより一層大坂の苛立ちを募らせるものとなっているだけだ。




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