女性の乗った特攻機
ねずきちの ひとりごと さんから抜粋
戦争も終わったはずの昭和20(1945)年8月19日、
ご夫婦で陸軍の練習機に乗って特攻を行った方がいました。
夫は特攻服、奥さんは白いワンピース姿だったそうです。
場所は満州北部で、特攻した先はソ連軍の戦車部隊でした。
一緒に11機の飛行機が飛び立っています。
この出撃隊は、「神州不滅特別飛行攻撃隊」といいます。
いま、東京の世田谷観音に、石碑が立っています。
http://www.setagayakannon.com/
新婚だった谷藤少尉が、どのような経緯で妻の
朝子さんを特攻機に乗せることになったのかは、
いまとなっては誰にもわかりません。
けれどひとついえることは、一緒に飛び立った
仲間たちは、全員、朝子さんが一緒に逝くことを
知っていた。
それは、飛行機が飛び立つ直前のことでは
なかったのであろうと思います。
おそらくは、前日、伊予屋で打ち合わせをした
ときに、谷藤少尉の口から、「妻も行く」という
言葉が発せられ、みんなもそれを理解したの
ではないか、と思うのです。
であるとすれば、朝子さんと谷藤少尉の中で
一緒に死のうと交わされた言葉は、その前であった。
おそらく、ただならぬ表情で帰宅した夫の様子に、
朝子さんは夫が死ぬつもりであることをするどく
感じ取ったに違いありません。
そして、どうしても一緒に逝くと言い張った。
二人の間には、喧嘩もあったかもしれません。
けれど、朝子さんは、どうしても、と言って
聞かなかったのだろうと思います。
そもそも、女性を特攻機に乗せるなど、
前代未聞です。常識外です。
けれど、朝子さんを置いて行けば、11機が
飛び立つことによって、大虎山周辺は、
守備兵力が完全に失われます。
そこにソ連兵が来たら、朝子さんはどうなるかわからない。
それならば、先に死にます。
そう言った朝子さんに、ならば一緒に死のう、
と少尉は答えたのではないか。
実際、出発の日である19日の早朝、
一緒に散って行かれた岩佐少尉は、その日、
許嫁とその母を失っています。
岩佐少尉は、出発の日の朝、許嫁の母娘に、
別れの挨拶のために訪れたのです。
すると、許嫁は、母親と一緒に白装束を来て、
いまから自刃して果てるという。
そして二人の母娘は、岩佐少尉の介錯で、見事に自決した。
朝子さんは、知っていたのです。
夫の谷藤徹夫は、同級生の二瓶少尉が、
前年の12月、レイテで特攻隊として散って
行ったことを、です。
そして夫が、死に場所を求めていることも知っていた。
ソ連軍がせめて来たとき、そしてあらん限りの
暴行をしているという事実に接した朝子さんは、
そのときにはなにがなんでも愛する夫と一緒に
空の旅に出ようと心に決めていたに違いありません。
伊予屋に勤務していたスミ子さんは、
名前がスミ子ということ以外、いまでは
まったく何もわかりません。
けれど、彼女は、前日の打ち合わせのときに、
谷藤少尉が奥さんを連れて行くというのなら、
私も一緒に連れていってと頼み込んだ。
結局、大倉少尉が、スミ子さんを乗せています。
こうして二人の女性は、
それぞれの愛する男性とともに、
一緒に飛行機に乗り込み、満州の空へと飛去りました。
11機が飛び立ったあと、小出宏元少尉は、
今田達夫少尉から受け取った図嚢をそっと開けます。
そこには一通の封筒と、30cmほどの短刀が納められていた。
そして封筒の中には、和紙に墨書きされた檄文がはいっていました。
そこにはこう書いてあった。
~~~~~~~
戦い得ずして戦わざる空の勇士11名
生きて捕虜の汚辱を受けるのを忍び難し
ここに神州不滅特別飛行攻撃隊を編成し
昭和維新のさきがけたらんとす
~~~~~~~
大虎山を飛び立った10機は、一路、
赤峰のソ連軍戦車部隊を目指します。
けれど隊員のひとりである宮川次郎少尉の
飛行機は、途中でエンジントラブルに遭って墜落し、
地元民に救助され、錦県の本部に帰還後、
ソ連によってシベリアに抑留されます。
残る9機が、その後どうなったのかは、
杳としてつかめません。
私たちとしては、たとえ一機でもいい、
見事ソ連軍戦車を粉砕していて欲しいと
願わずにいられません。
この物語には、後日談があります。
出撃の際に、飛行場で墜落してしまった伴少尉、
途中で不時着した宮川少尉、第五練習航空隊の
隊長であった箕輪中尉など、生き残った関係者は、
その後、全員、ソ連軍によって連れ去られ、
シベリアに抑留されました。
そして伴少尉は、シベリアの収容所内で、
若い命を落とされています。
彼らが抑留されている間、日本国内では、
最後の特攻を敢行した11名については、
軍の正式命令に基づく特攻ではなく、
自らの判断による特攻だったということで、
戦後の日本政府による正式な調査も行われず、
また靖国神社への合祀も行われませんでした。
シベリアの抑留生活から帰国した箕輪元中尉らは、
このことを知り、粘り強く厚生省と折衝を続け、
やっっと昭和32年になって、彼ら10名は
戦没者として認められ、靖国神社も
かれらを合祀しました。
そして箕輪元中尉らは、さらに募金を集め、
昭和42(1962)年5月に、東京世田谷区の
世田谷観音内に、神州不滅特別攻撃隊の顕彰碑を
建立します。
そしてその碑文には、「谷藤少尉の如きは、
結婚間もない新妻朝子夫人を後ろに乗せて」
の一文が刻まれた、
その顕彰碑が建立されたころ、朝子さんは、
この時点で戸籍上はまだ生きている人として
登録されていました。
朝子さんの母親である中島トヨノさんは、
九州の唐津で、愛する娘さんの帰りを、
このときもずっと待っていたのです。
事情を知る人が、朝子さんは徹夫さんと一緒に
特攻機で旅立たれたのですよ、と話しても、
トヨノさんは、娘は生きていると、絶対に
信じようとしなかった。
昭和43(1968)年箕輪元中尉が、朝子さんの
特攻出撃の日のことを詳しくしたためた
死亡証明書をトヨノさんに手渡したとき、
トヨノさんは、泣き崩れたそうです。
そしてこう口走った。
「朝子が(釜山に渡る)連絡船に乗り込む時、
『徹夫さんの勤務に喜んでついていくんですよ。
一生懸命内助の功を尽くしなさい』と言って
別れたんです。
まさか、特攻にまで付いて行ったなんて・・・」
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1350.html
https://www.youtube.com/v/nQ0AN524pF4?version=3&hl=ja_JP
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日野原重明氏の言葉から・・
人生の価値は決して長ければいいというものではない。。
短くても、、充実し、くいの無い人生かどうか。。
価値のある人生かどうか・・
燃え尽き、満足できたら幸せだと思う
/
この状況下なら、私も同じことを決断したと思います。
しかも奥様、唐津の方なのですね・・・驚きました。
唐津は自衛官になる人やもともと軍人が多い地域です。
現在でも、愛国心が強い人が多いですね。
なので、分かる気がします。