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世界に誇るべき日本人の宗教観
私が育った家は、典型的な「戦後に親が東京に出てきたサラリーマン家庭」だったため、宗教的な儀式と言えば、新年の神社へのお参りと、お彼岸の墓参りぐらいで、クリスマスには小さなクリスマスツリーを飾ってお祝いしていました。祖父や祖母が亡くなった時のお葬式は仏式でしたが、親戚の結婚式は主に教会でした。私の結婚式は教会に通うのが嫌で神前での三々九度でした。
そんな風に、仏教・神道・キリスト教の儀式や慣習を都合に応じて取り入れつつ生活することは日本ではごく普通に行われていることなので、何の違和感もなかったし、矛盾も感じませんでした。
「神を信じるか」「死後の世界はあるか」と真っ向から問いかけられれば「信じていない」「ない」と答えますが、「悪いことをすればバチが当たる」という価値観は持っているし、年に一度の正月のお参りの際には割と真剣に家族の健康を祈ったりしています。
「悪いことをした人に罰を与えるのは誰か」「健康を祈る対象は誰か」と尋ねられれば「神」としか答えようはありませんが、私にとっての神はイエスキリストでもなければ、八百万(やおろず)の神でもなく、もっと抽象的なものでしかないのです。
私にとって、神は「信じる対象」ではなく、単に「家族が健康でありますように」「このパットが入りますように」と祈る時に、祈る対象として何かが必要だから便宜的に導入したものでしかないのです。言い換えれば、英語の “It is raining” の “It” のような存在なのです。
米国に暮らすようになり、敬虔(けいけん)なキリスト教徒やユダヤ人、イスラム教の人たちと知り合うようになるにつれ、この私が普通だと感じていた日本人の宗教観が非常に変わったものだということを認識しました。クリスマスと正月の両方を祝うという行為が、「軽率で節操がない」「宗教への冒涜」であるとすら感じたこともあります。
しかし、9.11以来のイスラム過激派と西洋の戦いを見るにつけ、実は日本人の「節操がない宗教観」こそが世界平和への鍵であるかも知れないと考えるようになりました。
宗教は本来、祈る対象を与えて人々の心に平安を与えたり、死後の世界への不安を取り除くという役割を果たすべきものです。しかし、それが現代科学の否定、異教徒の迫害、宗教戦争までに発展するのであれば本末転倒です。
とは言っても、いまさら宗教を無くすことはできないので、日本人のように、さまざまな宗教の儀式を都合の良いところだけ節操なくつまみ食いしたり商業化してしまうことにより、(争いの種になりかねない)宗教を「無力化」してしまうというのは、ひょっとしたら素晴らしい発明なのかも知れないと思うのです。
ちなみに、この件に関しては、似たような主張をする日本の僧侶の TED スピーチ Reasons for religion — a quest for inner peace | Daiko Matsuyama | TEDxKyoto を見つけたのでそれを紹介します。ぜひとも聞いてみてください。
Reasons for religion -- a quest for inner peace | Daiko Matsuyama | TEDxKyoto
著者/中島聡(ブロガー/起業家/ソフトウェア・エンジニア)
マイクロソフト本社勤務後、ソフトウェアベンチャーUIEvolution Inc.を米国シアトルで起業。IT業界から日本の原発問題まで、感情論を排した冷静な筆致で綴られるメルマガは必読。
趣味のレベルでなら受け入れる人は、多いのか・・?
(´Д`ヽ)(/´Д`)/
日本人が本気度100パーセントの信仰心に目覚めたら世界も変わる・・
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もっと深く掘り下げるならば、日本の宗教のルーツはムーの時代まで逆のぼっているということではないでしょうか。
根本的には「霊性」の肯定がゆるぎない。
日本史でも他宗教の流入に対して反対勢力との混乱があっても「違い」を論ずるのではなく「共通点を探る」ことで納得してきたのだと思う。
一昔の事をいつまでも針小棒大に訴えるのではなく、「魂」に訴えてきたので大きな混乱は避けられたのではないでしょうか。
日本神道が「八百万の神」を信じ、仏教伝来の際には「仏性を宿している」意味の 色即是空 を肯定し神仏混合で宗教の本質の部分を大事にしてきただけである。
その、前の前のずっと最初の宗教が甦っているということ。
「永久不変の法」こそ日本の宗教観である。
あの世を信じない人こそ宗教観を論ずる資格はない、そして死の恐怖から逃れられない哀れな人生を終えるのみである。
最初は何を言っているのか分かりませんでしたが、日本という国が偶然にできて偶然に滅びるという歴史観が産まれる原因になるということでしょうかね。
上記のような歴史観は、正当な歴史学者ですら笑うようなものでしょうね。
まぁ、話は変わりますが神道色が強ければ(日本が戦争に勝利しておれば?)、主は日本に誕生しなかったという話も直接に聴いたことがあるので、どのように捉えたらよいかという部分が難しいですわね。
仏教、神道、キリスト教などに親和性があり、尚且つケンカせず共存できるところがすごい。
他国なら必ず淘汰されているはずです。
おそらく聖徳太子は宗教に多少の地域性はあっても、根源は一緒であるということを分かっておられたのではないでしょうか。
現代日本人の信仰心が薄れていることは否めないかなと思いますが、多教多拝で優れたものが残れば良いと個人的には考えます。