皆さんと一緒に考えましょう

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

私の引きこもり生活がある日ふと終わったワケ

2021-03-15 15:30:00 | 日記

下記の記事は東洋経済オンラインからの借用(コピー)です

――不登校になったのはいつからですか?
きっぱり行かなくなったのは、小学校4年生の9月1日からですね。でも思い返すと小3ぐらいから学校がしんどかったなと思います。まじめで几帳面な性格だったんです。小学校中学年になると宿題やミニテストが増えてくるんですが、先生の言うことやまわりの空気を読み取って完璧にこなそうとしていました。
当記事は不登校新聞の提供記事です
たとえばノートに10種類の漢字を5回ずつ書く宿題があると、チラシの裏に何十回も練習してからノートに清書していましたね。
ほかにも、女の子たちと同じものは好きじゃなかったし、あんまり明るい性格でもなかったから、目立つ子たちから嫌がらせや陰口を言われてハブられるようになったんです。
小4夏休み明け“体が動かない”
仲のよい子はいましたけど、どんどん疲れていきました。それでも小3の1年間と小4の1学期は行ったり行かなかったりの「五月雨登校」を続けていました。完璧主義だったので、行くからにはキッチリやらなきゃいけなかったし、学校へ行かなければ自分には価値がないと思っていたんです。
でも、小4の夏休み明けに、学校へ行こうと思ったら、起きられない、体が動かない、パジャマから着替えられないという状況になりました。
親には学校がしんどい理由を言えなかったですね。自分でも整理できていないから表現できないし、当時は「理由がわからなかった」というのが本当のところです。今こうやって話せているのは、大人になってふり返れるようになったからだと思います。
――不登校になったとき、ご家族の反応はどうでしたか?
母も最初のうちは「着替えなさい」「ちゃんとご飯食べなさい」「学校の時間はテレビ観ちゃダメ」みたいな感じでした。だから家にいても学校のプリントやミニテストで勉強していましたね。
家で勉強するのはイヤでしたが「ただでさえ学校へ行ってないのに、こんなに不真面目になった」という引け目があったからです。そういう自己否定感がありました。
適応指導教室に通う生活へ
そのうち適応指導教室(現・教育支援センター)というのが近くにあるのを見つけて行くことになったんです。部屋に入ると、ちょうど同い年くらいの女の子や、ちょっと上のお姉さんが数人いました。お絵描きが好きでおとなしそうな、安心して話せる感じの不登校の子たちでした。
自分以外にも不登校の子がいて、みんな不まじめなわけじゃない、仲間がいるんだと思って心強かったですね。仲間に会えたという意味では、適応指導教室があってよかったと思っています。
その適応指導教室には週に1回、自分の予定を決めるという時間がありました。ずっと遊んでいてもいいんですが、まわりの子が給食や好きな授業時間、放課後だけ学校へ行くという予定を書いていたんですよね。
ほかの人の予定を見て、私も週に3回くらい給食登校をしていました。
――不登校の子への対応はどんな感じでしたか。
適応指導教室ですから学校へ戻そうという働きかけはつねにありましたよ。
私の通った適応指導教室は、文字どおり「学校への適応」を指導するところでした。給食登校も、ただ給食を食べに行くだけじゃないんです。学校復帰のためのワンステップに位置づけられていました。
そういう指導のなかでは「今度、授業へ行ってみない」と聞かれたら、行くしかなかったんです。だって断れない人間だったし、行かないと自分で自分を認められる要素がなくなってしまう。
「行ってみたら」という声がけは、私にとっては「行きなさい」と、ほぼ同義でした。
そんな生活を続けていましたが、小6の春か夏ごろに、今までがんばって張りつめていたものがパチンと切れてひきこもりました。お風呂にすら入らず、昼間は寝ていました。食事も冷蔵庫のものを全部食べる日もあれば、一日中何も食べない日もありました。
――なんで昼夜逆転しちゃうんでしょうか。
朝は一般社会の動き出すときだからイヤなんです。自分と同じくらいの年齢の子たちが目の前の道路を通ったりするから。でも夜は静かで「こうしなきゃいけない」のある世の中からちょっと離れた感じがするんです。
みんなとちがう世界にいられる夜は居心地がよいので、自然に昼夜逆転していきました。
朝食の準備をしている母に、夜中のテレビやラジオ番組の内容を話し続け「あぁスッキリした! 寝るわ」と言って自分の部屋にこもる生活でしたね。
母は「そうなんだ」「へぇ」と言って、ただ聞いてくれていました。今思い返してみると、どんなときも母は何も言わなかったですね。どんなに長いあいだ、お風呂に入ってなくても「お風呂に入ったら」とは言わなかったです。
――お母さんが聞くだけでいてくれたんですね。
母がすべてを受けいれてくれたので、落ち着きましたね。だからひきこもっていた時間は、今の自分のことを精いっぱい考えられた時間でした。ひきこもって本当によかったと思っています。あのまま流されるままに生きていたら、手首を切っていたんじゃないかなと思います。
私は不登校だけでなく、ひきこもりも肯定しています。ひきこもりって「健全なひきこもり」と「不健全なひきこもり」があると思うんです。健全なひきこもりは家のなかを居心地よく感じていて、自由にすごせます。
一方で「ちゃんとしなさい」とか「いつまで寝てるの」という空気が家のなかにあって、子どもが追いつめられちゃうのはひきこもりのほうが「不健全だな」と。
事件で見聞きするようなひきこもりは「不健全さ」ゆえに追いつめられたからだと思っています。
親の気持ちが外に向かうと
――でも不登校で子どもが家にいると親もストレスがたまります。将来の見えない不安もあるし……、どうしたらいいんでしょう。
私がひきこもったころ、母は親の会を立ち上げたんです。その親の会などで学んでいたんだと思います。
それと母は押し花が好きで、家にいないことも多かったんですね。家でも外でもいつも楽しそうにしている母の姿を見ていました。だからお母さんは家にいないほうがよいと思うんですよね。
お母さんは好きなことのために家にいない、子どもは家や安心できる居場所ですごすというのがベストじゃないでしょうか。
――ひきこもりはどうやって終わったんですか。
自然に終わりました。小6の春に、兄と楽しく遊んでいたころの夢を見たんです。目が覚めて「楽しいときがあったなぁ」と思い、兄弟で遊ぶために外に出てみたんです。
こんなふうにパッと外に出られたのは「ゆっくり休めた」からだと思っています。ひきこもってゆっくり休めたからこそ、外に出られたんですよね。
ひきこもりを終えてから「○○しなきゃいけない」という気持ちは、少しやわらいでいました。給食登校をしなくてもいい、適応指導教室だけですごしてもいい。そう思えるようになり、中学生時代は、家と適応指導教室と学校、3つの場を行き来していました。
学校を休んでも大丈夫だよ
――最後に不登校や学校に行きたくない子に向けてメッセージをお願いします。
学校は休んでいいよってことですね。でも、そういう子たちってどんなこと言われても届かないと思うんですよね。だから保護者の方に向けてのメッセージにします! 
学校に行かなくても、大人になる道はいくらでもあることを伝えたいです。内申書がなくても受けられる高校はたくさんありますし、私が卒業した高校は入学試験もありませんでした。フリースクールという道だってある。もし学歴が心配だったら「高等学校卒業程度認定試験」もありますね。
高校へ行かずに就職している大人や、フリースクールに通ったことで不登校を1ミリも否定的に捉えていない人もたくさんいます。それに学歴をつけなくても安心できる居場所で安心できる仲間たちとすごしていたら、いくらでも楽しい大人になれるんです。
楽しくすごしていた人は、どこに行っても楽しめるから平気なんですよね。子どもは自分のことを自分でちゃんと考えて、自分に合った道を自分で探します。
だから保護者の方も、情報収集をして高校以外にも進める道がたくさんあることを知ってほしいです。


瀬戸内寂聴「100歳」を理由に言い訳!? 「いい気持よ」と感慨も

2021-03-15 13:30:00 | 日記

下記の記事はAERAdotからの借用(コピー)です

 半世紀ほど前に出会った98歳と84歳。人生の妙味を知る老親友の瀬戸内寂聴さんと横尾忠則さんが、往復書簡でとっておきのナイショ話を披露しあう。

*  *  *
■横尾忠則「極楽トンボでコロナと共生共存しよう」

 セトウチさん

 2021年が明けましたね。顔面は如何ですか。もうすっきりされたと思いますが? 僕は数年前、顔面神経麻痺(まひ)になってあわや福笑い顔になるところでした。その少し前に描いた自画像は目鼻口がキュビズムみたいにデタラメに付いた絵でした。そしてその通りになりました。想念は一度四次元を通過して三次元に物質現象となって現れます。だからデタラメの想像は危険です。ですから、セトウチさんもスッキリした美人顔を過去完了形で想念して下さい。必ず想(おも)い通りになります。

 コロナは最低最悪ですが、日夜このことを思念すると、相手のコロナはますます、増長します。無視しましょう。と言う僕はムチャクチャの絵を描いています。画家に転向した時ムチャクチャからスタートして、少し見れる絵を描いたら、それに飽きて、またムチャクチャの絵にマッシグラです。ガキの描いた絵のような色も形もテーマもテクニックも全てデタラメを目指しています。というか身体が言うことをきかないので、その言うことのきかない身体にまかせた結果がムチャクチャというわけです。

 と、そんな風に居直ったら、ええ絵を描こうという気が抜けてしまったので気分爽快です。最初から腐(くさ)される絵を目的にしているので気が楽になりました。このまま子供になってしまいたいですね。意欲、好奇心、努力、やる気、評価、ガンバリをはずすと、なんと楽なことでしょう。アホになったのか悟ったのかその境界がない状態です。そのアホ悟り作品が今年は名古屋、大分、東京を巡回します。2022年は上海の現代美術館での個展が控えています。東京ではうんと下手くそな新作20点も発表します。

セトウチさんの百歳目前も驚きますが、僕はもう歳を忘れることにしました。セトウチさんとは競えませんからね。もう、歳のこと言わんことにしました。死ぬ時は何歳で死んでも百歳だと思いましょう。魂がこの世に肉体化した時から数えると、46億年です。地球とどっこいどっこいの年齢です。そう思えば、肉体年齢はあってないようなものです。人間は肉体年齢にしばられているから、年齢を気にするんです。だから、逆にそこに芸術が発生するのかも知れませんねえ。芸術の発生のために人間には年齢が必要なのかも知れませんが、死んだら人間の作った芸術なんて、ちっぽけなもので、死者から見ればどうでもええことだと思いますよ。

 まして、世の中の出来事を白黒で論じようとしていることが、何ほどの役に立つんですかね。死んだ時に問われるのはそのような思想や理屈ではなく、自分がどう生きたかという小さい問題が意外と向こうでは大きい問題として評価されるんじゃないでしょうか。ダンテの『神曲』でダンテが、地獄、煉獄(れんごく)を旅させられながら巡る時、生前、社会的に功績を残した人が、意外と自分のエゴで地獄のどん底で苦しめられていたりしているけれど、あれが比喩だとしても笑えないリアリティがありますよね。と考えると、今年もコロナと共生共存しながら、ほどほどに生きていければ、よしとするしかないんじゃないでしょうか。となるとラテン的極楽トンボで生きたいと思います。今日はこの辺で。

■瀬戸内寂聴「百になってみてごらんなさい いい気持よ」

 ヨコオさん

 新しい年が明け、早くも一か月が過ぎようとしています。京都は今年は無闇(むやみ)に寒くて、朝、庭が雪で真白(まっしろ)になっている日が多いです。

 奥嵯峨と呼ばれるこのあたりの寒気はきつく、数え百歳の年寄には、さすがに応えます。今年に入って、私は二言目には「百になったから…」を口癖にしています。大正十一年、千九百二十二年生まれの私は、今年数えで百歳になったのですよ。まさかね、私が百歳なんて!!

 うちのスタッフたちは、私の新語にすでに馴(な)れきって、私がそれを口実に、仕事を遅らせたり、昼過ぎまで起きなかったりしても、「ハイ! 百婆さん、そこに居たら掃除の邪魔になります」と、電気掃除機の柄を容赦なく、私目掛けて掃きつけてきます。

 編集者も、もはや原稿の遅れの理由に、「何しろ、百になったからねえ…」と言いかけても、聞(きこ)えなかったふりをして、冷たいさいそくの口調をゆるめたりはしてくれません。百歳なんて、この地球では、もう珍しい出来事ではなくなっています。新聞の死亡通知に、故人の年齢が百いくつとあっても、「あ、そう」と、口の中でつぶやきもしません。

 でも、まあ、百になってみてごらんなさい。ちょっと、いい気持(きもち)ですよ!!

 私はもう、これから死んでも、百いくつと逢(あ)う人ごとに言うつもりです。

 ところで、この往復書簡はよくつづきますね。天才の気まぐれのヨコオさんがつづけるのも不思議なら、飽きっぽい代表選手の私が、黙々とつづけているのも、もっと不思議です。

 今年こそヨコオさんに倣って日記をつけようと大決心をしたのに、一日だけ長々書いて、二日からは、頁(ページ)は真白です。この飽きっぽさ名人の私が、原稿を書くことだけは、七十年近くつづいているのが不思議です。大人になったら小説家になろうとは、誰にすすめられたわけでなく、小学校の二年生あたりから、はっきり決めていました。

 その頃の小学校は、二年生から「綴(つづ)り方」の時間があったのです。私は「綴り方」が大好きで、いつも、先生が私の綴り方をほめてくれていました。この先生がお産で学校を休み、代(かわ)りにどこかの若い先生が来るようになりました。

 この先生は、私の綴り方を見たとたん、私を教員室に呼びつけて、どの本から、この文章を盗んできたかと叱りつけました。こんなりっぱな文章が、二年生のお前に書ける筈(はず)はないと責めるのです。私は泣きだして教員室を飛び出し、走って五、六分のわが家に駆け込み、口惜しさを泣いて母に訴えました。聞き終わるなり、母は割烹着(かっぽうぎ)をつけたまま、私の手を取って小学校へ走り、教員室で若い先生に噛(か)みつきました。「うちの子は生(うま)れつき文才に恵まれて、こんな綴り方くらいお茶の子さいさい。将来は小説家になるつもりでいる」とわめく母を見て、私の将来は決(きま)りました。この母が生れつきそそっかしくて、徳島が空襲された時、日本はもう負けたと、早合点して、防空壕(ごう)から出ず、五十一歳で焼死してしまったのです。近くあの世で逢ったら、「百まで生きるなんて、何と不細工な!!」と笑われることでしょう。はい、では、またね。


愛子さま、“推しジャニ”とネックレスをくれた「特別な存在」をインスタで匂わせ

2021-03-15 11:00:00 | 日記

下記の記事は週間女性プライムからの借用(コピー)です

愛子さまの近況を次のように話すのは、侍従職関係者。
「学習院大学ではオンライン形式の学期末試験、教科によってはレポート提出などの課題に追われる日々を送られています。
 冬休み期間も課題に取り組んでおられましたが、正月には羽根つきや凧あげなどを楽しまれたり、お住まいのある『赤坂御用地』でユズやミカンを収穫して、職員とともにおいしく召し上がられました。
 毎年3月ごろに家族で行かれていた長野県へのスキー旅行に関しては、今年はコロナの影響でお控えになります」
 お父さまである天皇陛下は、2月23日に61歳をお迎えに。お誕生日に際しての記者会見では、秋篠宮家の長女・眞子さまのご結婚問題に対するご見解がにわかに話題となったが、愛子さまに関しては、次のように語られた。
「愛子がオンラインで授業を受けているのをそばで見る機会もありましたが、私たち自身も、新たな知見を得ることができたり、何か学生時代に戻ったような気持ちになりました。(中略)今まで以上に、さまざまな経験を積み重ねながら視野を広げていってほしいと願っています」
 ご自分の母校に入学されるも、キャンパスで学ぶことのできない愛子さまを温かく見守られている陛下。
 4月以降は、天皇ご一家の生活にも変化が訪れる。
愛子さま、キャンパス登校での“JDライフ”も気になるが……
「2月12日から、赤坂御所にある大切な所蔵品を皇居へ搬送する作業が始まりました。主に倉庫に保管されている地方訪問に関する資料や装束、外国元首からの贈り物です。
 上皇ご夫妻のお住まいだった皇居内の『旧仙洞御所』の改修工事は、3月中に終了する見通しです。ご一家は、皇居への転居前にいったん関東近郊にある御用邸などに滞在され、その間に身の回りの生活用品を運ぶ予定だといいます。ですので“新居”である皇居にお三方が引っ越されるのは早くても4月以降になるでしょう」(前出・侍従職関係者)
東京都内の大学では明治大学や青山学院大学が、新2年生向けに1年遅れの入学式を行うと発表。愛子さまも少しずつ、学習院大学のキャンパスに登校される機会が増えていくことだろう。
 一方、コロナ禍になってからの1年間、ほとんど外出を控えていた愛子さまだが、お住まいで“ひそかな趣味”を楽しまれているという。
「宮さまはジャニーズアイドルが大好きで、今の推しは『ジャニーズWEST』だそう。
 その中でも重岡大毅クンと藤井流星クンというメンバーがお気に入り。2人の誕生日には、うちわなどのグッズを並べてジャニーズファンがよくやる“生誕祭”という個人的なお祝いも行うほど。
 限られた友人にだけ公開している『インスタグラム』のアカウントも持っており、高校時代の修学旅行や教室内でのご友人とのツーショット、飼われている愛犬の写真などに加えて、重岡クンと藤井クンの生誕祭を行っている写真まで載せていたそうです」(愛子さまのご友人)
 '14年にデビューした『ジャニーズWEST』は関西出身の7人組グループ。関西ノリを生かし、全国放送のバラエティー番組でも活躍している。
「現在はお住まいで過ごされることが多いので、大学の勉強の合間に『WEST』のライブ映像や、彼らが出演しているテレビ番組を見て息抜きされているのかもしれませんね」(同・前)
「高校時代から“特別な男性がいらっしゃる”ともっぱらのウワサ。愛子さまが18歳の誕生日を迎えられた時期には、その“彼”から『4℃(ヨンドシー)』のシルバーネックレスをプレゼントされたとか。インスタでもそのことを報告されており、コメント欄には“お幸せに!”といったお祝いコメントも見受けられました」(別のご友人)
『4℃』のネックレスのイメージ(4℃公式サイトより)
すべての写真を見る
 主に20~30代向けで、男性から女性に贈るジュエリーブランドとして人気がある『4℃』。ネックレスの価格もお手ごろとはいえ、高校生にとっては少し背のびしたプレゼントだといえる。
 実は、愛子さまは意外にも、周囲が驚くほどの“肉食系女子”だという。
「愛子さまが通われていた中学と高校は女子校なので、当然、男性との接点は少ない。
 接点があるとしたら年に1度、秋に行われる文化祭くらい。どちらかというとひと目惚れされるタイプらしく“メンクイ”だとも聞きました。
 初対面にもかかわらず積極的に連絡先を聞いて、その後も連絡をとり続けておられたといいます」(同・前)
 ネックレスをプレゼントされた“大切な人物”とは、その文化祭で出会われたのかも。
 皇族の方々は、学生時代に結婚相手を見つけるべきだという見方がある。
「学生時代は学業優先ですが制約の多い皇族にとって比較的自由な環境で、いろいろな人たちと部活動やサークルで交流できます。卒業してからは成年皇族として公務の日々となるので、恋愛をするチャンスや時間がなくなってしまう。学生の間に将来のパートナーを見つけておくべきだと思います」(宮内庁関係者)
 “4℃のカレ”など、愛子さまもいずれは結婚されて皇室を離脱されるだろう。
 しかし、今や皇室全体の問題にまで発展した眞子さまと小室圭さんの結婚問題により愛子さまの“結婚のハードル”も上がってしまった……。
眞子さまと小室圭さんのご結婚が難航していることで、他の皇族方のご縁談にも影響が取りざたされている
「婚約延期となってからというもの、小室家のプライベートな情報が次々と明るみになりました。いずれ愛子さまに結婚報道があった場合、お相手の家族や親族、交友関係、過去にあった私的な出来事まで、一切合切の情報が報じられることでしょう。
 ひとつの粗もない完璧な人間がいるとは思えず、何かしらの問題が発覚すると“愛子さまのお相手にふさわしくない”といった世論が生まれる可能性も。眞子さまと小室さんのような混迷した状況にならないためにも、愛子さまはご自身の恋愛や結婚観について、しっかりとお考えになっていただきたいです」(皇室ジャーナリスト)
 陛下は先のお誕生日会見で愛子さまのお名前を名づけた理由についても述べられた。
「孟子の言葉を参考にした敬宮愛子という名前には、人を敬い、人を愛してほしいという、私たちの願いが込められています」
 特別な方との“愛”を大切に、愛子さまには大学生活を謳歌していただきたい─。


がん遺伝子狙い撃ち、薬の弱点補うナノマシン 実現

2021-03-15 08:30:00 | 日記

下記の記事はビヨンドヘルスからの借用(コピー)です  記事はテキストに変換していますから画像は出ません

 がん遺伝子を狙い撃ちにする新しいタイプのがん治療ナノマシンが開発された。抗がん剤の弱点をカバーするナノマシンである。ナノ医療イノベーションセンター(iCONM)が、東京大学耳鼻咽喉科学・頭頸部外科学および同工学系研究科バイオエンジニアリング専攻との共同研究により実現した。
 今回の成果は、2021年2月24日に米国化学会発行のナノ専門誌『ACS Nano』で発表。筆頭著者である東京大学耳鼻咽喉科学・頭頸部外科学の柴崎仁志氏らが、同20日に実施したオンラインセミナーでその詳細を報告した。
実用化されづらい薬剤の効果引き出す
 かねてナノ医療イノベーションセンターは「体内病院」を目指し、診断や治療などの医療機能を人体内で完結させる技術開発を進めている。武器になるのは、30n~100nmというウイルスサイズのカプセル。「スマートナノマシン」と呼んでおり、あたかも機械のように体内でふるまう特徴がある。
イメージ画像(出所:Getty Images)
 具体的には、高分子化合物が水をはじく疎水性の部分と水になじむ親水性の部分を持つことで自己組織化する原理を応用したものである。泡状の「ミセル」と呼ばれる形状になる際に、その内部に薬剤などを封入できる。
 これまでは、このナノマシンを固形がんの治療に応用してきたが、今回ターゲットとしたのはがん遺伝子。がんを引き起こす「c-Myc」という遺伝子で、c-Mycに変異があると細胞内でたんぱく質が過剰に作られ、際限ない細胞増殖につながる。がん遺伝子の中でも重要なものだ。
 柴崎氏らは、c-Mycの働きを2010年に開発された「JQ1」という薬剤により抑制することを目指した。ただし、腎臓から速やかに排泄されるため、体にとどまりづらい。そのため抗がん剤として実用化しづらい。水に溶けないのもネックで、持続的にがんへの効果を保てないという弱点もあった。
 この壁を乗り越えるために活用したのがナノマシンの技術というわけだ。JQ1の構造を一部変化させたJQ1ハイドロダイド(JQ1H)に変化させた上で、リンカーを介してナノマシンを形成する高分子化合物に結合させた。すると、高分子化合物ごとミセルの形状になり、ナノマシンの内部にJQ1Hを封入できる。
体内の病巣に薬剤をピンポイントで届けるナノマシン(出所:iCONM)
 がんにおいては周囲の血管が未熟であるために、血管壁の隙間が大きい。血液中に入ったナノマシンは浸透しやすいがん細胞の周囲に集中。ナノマシンはがん細胞に取り込まれ、がん細胞ならではの酸性度の高さに反応して内部で薬を放出する。薬はがん細胞以外に効果を示しづらいので副作用も少なく安全性が高められる。
 柴崎氏は、ナノマシンが確かにがん周囲に集中することを動物実験により確認。抗腫瘍効果が発揮されることも確認した。肝臓や腎臓への副作用もナノマシンにすることで出づらくなると確認できたとしている。
がん遺伝子の多寡でナノマシンを使い分け
 さらに、柴崎氏は、高分子化合物からJQ1Hをすばやく放出するファストリリース(FR)と、ゆっくりと放出するスローリリース(SR)の2種類を作り出した。意外だったのは、c-Mycが高いがんでは、FRタイプが効果を発揮したのに対して、c-Mycが低いがんでは、SRタイプが効果を発揮するという違いが見られたことだという。
 柴崎氏は「c-Mycが高いがんでは、速やかな薬剤放出ががんの細胞死を誘導する。それに対して、c-Mycが低いがんでは、持続的な薬剤放出が効果を示し、がんの細胞死が誘導される」と説明する。
 がん遺伝子の発現量に応じて、最適な薬剤放出パターンを選べるのはこれまでにない標的治療を可能にするものになる。プレシジョンメディシンと呼ばれる考え方では、がんの遺伝子に合わせて治療を行う。今回の研究に携わるiCONM主幹研究員の喜納宏昭氏は、「開発したドラッグデリバリーシステムでは、薬を素早く出したり、徐々に出したりと使い分けられる。がん遺伝子の程度の高い低いによらず、難治がんに効果的に作用可能になる」と展望し。