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「実の母を施設に入れるなんて」認知症の母を全力介護する娘に向けられた兄嫁と隣近所の悪意

2021-03-22 15:30:00 | 日記

下記の記事はプレジデントオンラインからの借用(コピー)です

離婚して実家に戻った女性を待ち受けていたのは認知症の母。献身的に介護するが、兄嫁や隣近所から陰口を叩かれ、帯状疱疹や顔面麻痺の症状が。母親はパーキンソン病も発症したが最期を何とか見届けた。しかしその後、自らも指定難病に罹患し、現在は「再婚した夫と穏やかに過ごし、人に迷惑をかけないように最期を迎えたい」と語る——。
この連載では、「シングル介護」の事例を紹介していく。「シングル介護」とは、未婚者や、配偶者と離婚や死別した人、また兄弟姉妹がいても介護を1人で担っているケースを指す。その当事者をめぐる状況は過酷だ。「一線を越えそうになる」という声もたびたび耳にしてきた。なぜそんな危機的状況が生まれるのか。私の取材事例を通じて、社会に警鐘を鳴らしていきたい。
認知症の母を全力介護も、兄嫁や隣近所の人から陰口を叩かれて……
18年前に夫と離婚し、実家で認知症の母親と暮らし始めた白石玲子さん(仮名・当時48歳・現在66歳)には3歳上に兄が1人いる。
離婚した翌年のことだ。
白石さんが母親(当時74歳)の訪問介護やデイサービスの利用を決めたことを兄に報告すると、「母さんのことで俺を煩わすことはやめてほしい」と言い放った。
白石さんは、驚きと共に怒りが湧き上がる。
「じゃあこれからは私1人で決めるから、それでいいんやね? 後から文句を言うことはないね?」
と言うと、兄は面倒くさそうに頷いた。ところが兄嫁は、車で2時間ほどかかる中、時々やって来ては、母親に対して白石さんの悪口を吹き込んだ。
「(玲子さんは)よく知らない犬の散歩仲間の言いなりになってヘルパーさんを入れた」
「何で娘なのに(パート仕事をして)親の介護に専念しないのか」
すると母親は、「兄嫁が正しい」と言うようになってしまった。白石さんの心労は、それだけではなかった。
白石さんの実家は、昔ながらの閉鎖的なムラ社会の土地柄。人の出入りがほとんどなく、隣近所のことは筒抜けだ。白石さんが離婚して戻ってきたことからパートを始めたこと、母親がデイサービスに行っていることや、ヘルパーが来ていることなど、噂話のネタにされていることは白石さんも承知の上だったが、誰も手を差し延べてくれないばかりか、「何で娘なのに(ヘルパー頼りで)自分で介護をしないのか」ということを噂していた。
それでも白石さんは、週に2回、母親がデイサービスに行ってくれることで、とても救われ、母親も楽しんでいる様子だった。
だが、近所の人から噂されていることを知った母親は、「お腹が痛い」などと理由をつけて、「行きたくない」と拒否し始める。近所の人たちには、「デイに行かないと娘に怒られるから、仕方なしに行っている」と言い始めた。
「当時の私は、常に奥歯を噛み締めていて、身内や古い知り合いはあれこれ言うけれど、犬の散歩友だちとパート仲間だけは私の味方……そう思ってやっとの思いで生きていました」
救いは犬の散歩仲間だが、母はパーキンソン病も発症
白石さんがパートの日は、散歩仲間のBさんが愛犬の「げんき」の散歩を代わってくれた。ある日、げんきの散歩を終えたBさんが白石さんの家へ行くと、玄関に母親が立ちすくみ、「ちょうど良かったBさん。動かれへんのよ」と助けを求めた。
ヘルパーの資格を持つBさんは、「お母さん、パーキンソン病と違う? ちゃんと病院で診てもらったほうがいいよ」と白石さんに助言。ヘルパーの1人もパーキンソン病を疑っていた。
ちょうどその頃、白石さんの精神状態を心配していたケアマネージャーは、「痩せすぎ(体重35キロ台)を理由に、お母さんを一時入院させてはどうか?」と提案。ケアマネージャーとヘルパーに背中を押され、2週間ほど入院させることが決まった。
2004年7月。母親は入院したが、「病院食が口に合わない」と言ってあまり食事を摂らず、さらに痩せていく。加えて、その病院の医師は一向にパーキンソン病の検査をしてくれない。「パーキンソン病なら適切な治療を受けて、早く母親を楽にしてあげたい」と思っていた白石さんは訝しがった。
しびれを切らした白石さんは、パーキンソン病の判定ができる市民病院への転院を希望。
2004年8月。母親は市民病院へ転院し、検査の結果、パーキンソン病の判定がおりた。
白石さんは必要書類を揃えて保健所に行き、指定難病認定の手続きをした。
周囲からの陰湿なイジメで帯状疱疹から顔面麻痺に
認知症(要介護2)とパーキンソン病を発症した当時74歳の母親は、誰かの支えなくしては歩けなくなっていた。
白石さんは、もはや在宅で母親を介護する自信がなく、家へ帰りたがる母親をなだめるしかなかった。
しかし、家から近い市民病院に入院していると、すぐに近所の噂になった。白石さんが朝、母親の見舞いに行かないと、夕方にはそのことが近所中に知れ渡っている。白石さんは、近所の人に会うのが苦痛で仕方がなかった。
そんなとき白石さんは発熱と頭痛に見舞われ、市民病院の外来を受診。薬を出されるが一向に良くならず、だんだん左耳が痛くなってきた。再度受診すると、看護師に耳鼻科を勧められる。言われるままに耳鼻科へ行くと、「帯状疱疹だね。耳のふちにいっぱいできてるわ。顔面麻痺が起こるで」と言われ、ステロイドの点滴をするため、入院を勧められる。
しかし白石さんは、「母が入院しているし、犬がいるので入院はできません」と断る。医師は「自分も入院しないといかん病気なんやで。お母さんは入院してるんやったら安心やし、犬はどうにでもなるやろ」と言うが、白石さんは頑な。仕方がないので医師は、通院で対応してくれた。
顔の左半分に麻痺が出始めた白石さんは、味噌汁やスープなどの液体を飲もうとすると、口の左端からダラダラとこぼしてしまう。困った白石さんは、ストローを使って口の右端で吸い、固形の食べものも、口の右側で少しずつ食べていると、涙が溢れた。
「もうこんなところに住みたくない」心の底から思った
翌日、点滴のために病院へ行くと、看護師が「しんどいやろ? 月曜日は入院の準備をしておいで。ね?」と優しく声をかけてくれた。白石さんは入院することを決意し、顔の麻痺を隠すためにマスクをして母親の病院へ行った。
母親に1週間入院することを話すと、「あんたが入院したら私はどうなるの!」と大声をあげた。思わず白石さんはマスクを取り、「私、こんな顔になってるんやで!」と言うと、母親は白石さんを指差し、「何や、その顔は!」と大笑い。
白石さんはパジャマや下着を1週間分置いて、母親の病室を出た。
入院を終え、母親の病院を訪れると、母親は白石さんが置いていったパジャマや下着には手をつけず、近所の友だちや自分の弟嫁に洗濯を頼んで持ってきてもらっていた。家へ戻ると、「母親をほったらかしてどこへ行っていたのか?」という近所の人の噂話が耳に入ってきた。
「もうこんなところには住みたくない」。白石さんは心の底から思った。
転院先の医療施設で母親は相部屋のボスにいじめられた
2005年に入り、白石さんは近所の人と兄嫁、そして母親から向けられる悪意に押しつぶされそうになっていた。
そんなとき一筋の光が差す。4カ月前に申し込んでいた長期療養型の医療施設から、「空きが出た」という連絡が来たのだ。
その病院は遠いため、転院すれば近所の噂話からは逃れられる。だが母親は嫌がるだろう。白石さんは悩み、主治医に相談すると、「そら、そちらに移ったほうが良い」と賛成してくれた。
「向こうに行ってみて、嫌やったら帰ってきたらええやん」
精神的に限界だった白石さんは、渋る母親にこう言って転院を促した。
2005年2月。転院先で母親は、同室の他の3人に挨拶もせず、間仕切りのカーテンを締め切り、拗ねていた。すると母親は、同室の“ボス”からイジメを受け始めた。
「少し物音を立てただけで『うるさい』と言われたり、嫌味を言われたりしたようですが、娘の私でも、母の被害者ヅラには腹が立ちました。私は自分を守ることを優先し、イジメ問題は放置しました」
結局、イジメに看護師が気付き、ボスが転院させられて解決。白石さんは、帯状疱疹と顔面麻痺の治療で週1回病院へ通った。母親から距離を置き、近所の噂話から解放されたことで、気持ちが楽になった。
サザンオールスターズのコンサートをきっかけに男性と交際
しかし、兄嫁だけは相変わらずだった。
「転院させて本当に良かったのか、悩んで苦しんで、自分のためにこれで良かったのだと、やっと自分を納得させていたのに、本当に憎らしいと思いました。でも私には、兄嫁と喧嘩できるほどの気力も残ってはいませんでした」
転院してから母親は、薬が合ったのか、環境が良かったのか、パーキンソン病の症状は良くなっていった。天気の良い日は車椅子で散歩したり、近くのショッピングセンターでランチをしたり、特に体調が良いときは、一時帰宅もできた。
白石さんは離婚後、若い頃から好きだったサザンオールスターズのライブチケットを初めて申し込んだところ、奇跡的に電話が繋がり、ライブに行くことができた。それがきっかけで仲間ができ、6歳下の男性との付き合いが2年ほど続いていた。彼を母親に初めて会わせたのも、この病院に移ってからだった。
穏やかに2005年が終わり、2006年が始まると、突然病院から電話がかかってきた。母親が取り乱し、「すぐに娘を呼んで!」と言っているという。パート中だった白石さんは上司に事情を話し、病院へ急いだ。
だが、病院へ着いた頃には母親は落ち着き、自分が呼んだことさえ忘れている。
しかしその日以降、白石さんは毎日のように母親から呼びつけられ、パートを早退する日が続く。白石さんが悩んでいると、仲の良いパートの先輩が声をかけてくれた。
先輩は白石さんの話を聞くと、「そんなにしんどいなら、パートを辞めて、彼と暮らしたら?」と言う。白石さんはびっくりして、「近所の目もあるし、実家を離れるのは母に申し訳ない」と首を振ると、「何言ってるの! 病院にいるお母さんには黙っていればわからないわよ! もっと自分のことを大切にしなさい!」と説得。背中を押された白石さんは、2006年4月、パートを辞め、彼と暮らし始めた。
数日後、母親が「何でパート辞めたんや?」と訊ねるので、驚いた白石さんは、「しょっちゅう病院から呼び出されて、迷惑をかけるから辞めた」と正直に言うと、母親は「そんな簡単に辞めたらアカンやん! 家にもいてないみたいやし。あんたがどこに行ったかわからなくて、心配したんよ」と言った。近所の人が白石さんのパート先や家を確認し、わざわざ母親の病院まで知らせに来ていたのだった。
彼と暮らし始めて、心に余裕が生まれた白石さんは、再びパートを始める。
母親はパーキンソン病による認知症が進んでいたが、最期まで白石さんのことは分かっていたし、一緒に病院へ来るようになったのちの夫のことも、「娘婿」と呼んでいた。
「お母さんがもう長くないから」と言ったが兄は病院へ来なかった
2009年。79歳になった母親は病院を一人で抜け出し、病院の敷地外で転倒しているところを発見された。
病院からは「見守り不行き届き」について謝罪があったが、パーキンソン病薬のせいで動けるようになったと考えられたため、減薬。母親が動けなくなってきた頃、病室に鍵がかかる閉鎖病棟への転院の話が出た。
白石さん(当時54歳)は、母親が迷惑をかけた以上、断ることはできないと思い、承諾する。
閉鎖病棟に移ると、いきなりオムツを当てられ、母親が「トイレに行きたい」と言っても、「オムツにしていいよ」と言われるだけ。白石さんは、転院を承諾したことを激しく後悔した。
程なくして母親は寝たきりになり、一般病棟の2人部屋へ移った。白石さんが行くと、表情のない顔で横たわっている2人の姿に、一瞬どちらが母親かわからなかった。
2010年3月の朝、主治医から電話があり、白石さんは病院へ向かった。
母親は酸素吸入を受けており、白石さんを見ると微かに頷いた。白石さんは母親の手を握り続け、夕方帰宅。その日の夜、兄に電話するも繋がらず、メールも戻ってきてしまう。白石さんは、兄嫁に連絡する気にはなれなかった。
翌日、地下街を歩いていると、偶然兄に会った。白石さんが「お母さんがもう長くないから病院へ行ってあげて」と言うと、兄は電話番号を変えたことを謝り、新しい番号とメールアドレスを教えて去った。
しかし兄は来なかった。代わりに兄嫁が来て、「お義母さん、元気そうだったよ」と兄に伝えていた。
それから数日後、白石さんが母親の病院へ行く途中で、電話がかかってきた。
「お母さんが危篤です。すぐに来てください!」
白石さんは兄と兄嫁に電話をし、病院へ到着。呼吸が弱々しくなっていく母親を、結局最期まで一人で見送った。享年79だった。
母親の最期を見届けた後、重症筋無力症やステージIIのがんに罹患
母親が亡くなってから10年後、2020年に入籍した白石さんは今年66歳、再婚した夫は60歳になる。
「母が初めて入院した当時、私はどんどん悪くなっていく母の姿に、かなり追い詰められていました。あの時、ケアマネさんやヘルパーさんに言われて母を入院させなかったら、私は母を殺めて、自分の命も絶っていたかもしれません。そんな考えが何度も頭をよぎりました。相談できるケアマネさんやヘルパーさん、そしてげんきの散歩仲間がいてくれて、的確なアドバイスや対処をしてくれたのが、私を救ったのだと思います」
そう感謝の言葉を口にする白石さんだが、入籍前は自分の体調がおかしくなり、次々と病魔に侵された。
まず、2019年の4月。白石さんは「最近疲れやすいな」と思っていたら、突然両腕が今まで経験したことがないようなだるさに見舞われた。
近所の病院を受診したが治らず、8月末に市内の大きな病院で内臓のCTを撮ることに。
9月に結果を聞きに行くと、「前縦隔(縦隔:胸の中心にある左右の肺の間にある空間)に腫瘍性病変の疑いがあり」と言われ、専門の病院を紹介される。
紹介された大学病院へ行くと、「重症筋無力症」と診断。治療のために10月に入院し、11月には胸腺腫(リンパ球を作っている胸腺の腫瘍)の手術を受けた。胸腺腫は悪性腫瘍でステージII。主治医は「手術で見える範囲は取り除いた」と説明した。
重症筋無力症は、指定難病のひとつだが、進行性の病気ではなく、服薬しながら上手く付き合って行く病気だ。治療のために免疫抑制剤を服用しているので、コロナに感染しないよう、マスク必須で、消毒手洗いに気をつけて過ごしている。
「2018年に(前夫との間にできた)一人息子は結婚し、翌年孫が産まれました。もう何も望むことはありません。残りの人生は再婚した夫(60歳)と二人、穏やかに過ごしたい。人に迷惑をかけないように最期を迎えたいと思います」
白石さん(現在66歳)は、11年前、母親が他界するまでの6年間の介護を振り返りこう語る。
「自分が潰されないよう、一生懸命になり過ぎず、人に頼れるところは頼ることが大切。特に、相談相手や話を聞いてくれる人の存在は大事だと思います」
介護をしている人には、自分が楽することを後ろめたく感じる人が少なくない。子どもには親を介護する義務はあるかもしれないが、楽をしてはいけないわけではないし、ましてや、苦しまなくてはならないわけではない。
介護当事者もそうでない人も、まずはそうした基本的な心構えを忘れてはならないと思う。


50代男性がハマった相手は“美青年”。周囲を巻き込んだ不倫劇の悲しい末路

2021-03-22 13:00:00 | 日記

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『コロナ離婚』という言葉ができたように、新型コロナウイルス感染症(COVID‑19)拡大による自粛生活で、夫婦が共に過ごす時間が増えたことから離婚を考える人もいるようです。
厚生労働省が2020年9月に発表した「人口動態統計月報」によると、令和元年に婚姻率がアップしたのと同じように、最初の緊急事態宣言直前でリモートワークが普及してきた2020年3月の離婚率が増加しています。結婚・離婚は時代背景に左右されることもあるようです。
しかし、離婚の原因を調べればさまざまな理由が出てくるはず。今回は、以前ホステスとして働いていた女性が目撃した50代男性の不倫劇についてお話を伺いました。なんと、50代男性がハマった相手は、20代の“美青年”だったようです。
店長と客の関係 
現在は会社員として働いている20代の奈々(仮名)さんは、学生時代にアルバイトとして働いていたクラブで、不倫劇を見てしまったといいます。
「私が働いていたクラブで、店長とお客様の不倫劇がありました。もちろん、お客との関係はご法度なのですが……その不倫が同性同士だったので、特によく覚えています。」
奈々さんに詳しく話を聞けば、ことの始まりは青年が仕事の接待でこのクラブを利用したときのこと。その日に店長を見かけた青年が一目ぼれをしたようで、ホステスに見向きもせず通いつめるようになったのだとか。
「ホステスをテーブルにつけても文句ばかり。あまりの悪態に、逃げ出すホステスもいました。性格は最悪ですね。それでも、店長の前では猫なで声でニコニコしているのです。ただそれが許されるほど、彼はかなりの“美形”でした。着飾った私たちよりも、オーラのある美しさがあったのです。」
50代の冴えない店長のどこがよかったのか、疑問だった奈々さん。最初は困り顔で対応していた店長も、その美しさから次第に心を動かされたように見えました。
女性スタッフは見ぬふり 
あるときから、青年の態度があきらかに変わったといいます。
「私たちスタッフへ勝手に指示を出したり、スタッフルームへ勝手に入ってきたり。青年に注意をしても、店長へ伝えても変化がなかったので……そういうことですよね。ふたりが付き合うようになってからというもの、店内の雰囲気が変わりました。前までは常連さんと楽しく会話ができたのに、彼がいるとお客様の前でも平気で怒鳴るので、店内の雰囲気はどんよりしていました。この頃から、やっていけない…と、辞めていくスタッフが出始めました。」
こうして、どんどん悪い方向へむかっていくのでした。
居心地の悪い店内 
「たまに事務室の前を通ると、ふたりがイチャイチャしているのを見ました。でも、だれも何もいわずにスルーです。あまり関わりたくなかったのが一番の理由ですね。」
しかし、ここでもまた問題が起こります。NO.1のホステス、麻衣さん(仮名)が急に辞めることになったのです。
「本当に驚きました。一番人気のある人だったので、普通なら辞める前に常連のお客様を招待して、お別れのセレモニーを開くのです。それなのに、そういうものが一切なく、突然辞めてしまいました。ほかのスタッフに聞くと、どうやら青年からずっと虐められていたようなのです。その理由もくだらない『店長の好みの女だから』。この話を聞いて、私も辞める決意をしました。」
常連のお客もどんどん離れていき、確実に売上が落ちているはずなのに、店長は相変わらずだったといいます。
「なんとかしなきゃ……とは思っていたでしょう。でも、青年を尊重するあまり、お客様や私たちスタッフへのフォローがなにもありません。ホステスのなかには、お客様にグチっている人もいました。」
学費を稼ぐために働き始めた奈々さんは、ここを辞め、学業へ専念することにしたそうです。この店がその後どうなったか知らないまま半年ほど経ったある日、1本の電話がかかってきたそうです。相手は、NO.1ホステスだった麻衣さんでした。
すべてが終わった
その日以来、ちょくちょく連絡を取り合うようになった奈々さんと麻衣さん。そして先日、このコロナ禍でリモート祝杯をあげたそうです。
「店長と青年に、やっと制裁が下りました。お店はすでに閉店しています。売上も落ちていたので当然ですが、実はあのお店、会社を経営していた店長の奥さんがオーナーだったのです。店長とオーナーは離婚。そして驚いたことに、あの青年も既婚者でした。
W不倫で同性同士……とかなりセンセーショナルでしたが、双方の奥さんから慰謝料の請求、そしてオーナーからは、経営を妨害したことによる損害もプラスして請求されているそうです。この不倫劇の一番の立役者は麻衣さんです。不倫の証拠を持ってお店を辞め、オーナーの離婚に一役かったのだとか。
あと、お客様のなかに探偵が混ざっていたようで、探偵相手にグチっていた彼女たちも影の功労者ですね。おかげで、元店長は仕事と家族、さらにお金を失いました。青年もかなりの金額を支払ったはずです。」
どんな形であれ、不倫は不倫。最後はどんな末路になるのか、よく考えて行動しないといけないですね。


「眞子さまも冷静になってくだされば…」 佳子さま「回答拒否」、承子さま「結婚と交際は別」それぞれのお考え

2021-03-22 11:00:00 | 日記

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「眞子内親王の結婚については、国民の間で様々な意見があることは私も承知しております。このことについては、眞子内親王が、ご両親とよく話し合い、秋篠宮が言ったように、多くの人が納得し喜んでくれる状況になることを願っております」2017年9月3日、婚約内定記者会見での眞子さまと小室圭さん 
 秋篠宮家の長女・眞子さま(29)と小室圭さん(29)の結婚について、天皇陛下は誕生日に際した記者会見でこのようにお考えを述べられた。
 宮内記者会からの代表質問には「眞子さまは、小室圭さんとの結婚についてのお気持ちを公表した文書で『天皇皇后両陛下が私の気持ちを尊重して静かにお見守りくださっていることに、深く感謝申し上げております』と記されました。秋篠宮さまは結婚を認める考えを示されましたが、陛下はどのようにお考えですか。お二人の結婚に関して国民の間で様々な意見があることについて、どのように捉えていらっしゃいますか」とあったが、陛下は昨年11月に眞子さまが公表された文書については直接言及されなかった。
「陛下は誕生日会見で、眞子さまが公表されたお気持ちに同調されたというわけではなく、むしろあえて厳しいことをおっしゃったという印象を持ちました。新型コロナの感染拡大の影響で、国民と直接触れ合うことが極めて難しくなっていることに、強い危機感を覚えていらっしゃるでしょう。東日本大震災から10年の節目を、両陛下は緊急事態宣言下の東京で迎えられ、国立劇場で行われる『東日本大震災十周年追悼式』に出席されます。
 小室さん側の説明が待たれることはもちろんですが、これは眞子さまご自身の問題でもあるということを示されたようにも感じました」(秋篠宮家関係者)
「陛下のお言葉を機に、眞子さまも冷静になってくだされば…」
 これまでに陛下は眞子さまと小室圭さんのご結婚について、公にご意見をおっしゃることはなかった。今回の誕生日会見でのご発言を受けて、陛下は天皇家の「家長」というお立場から現状を非常に心配しておられるのではないか、と推察する声とともに、このような声も聞こえてきた。
「陛下が『多くの人が納得し喜んでくれる状況になることを願っております』とおっしゃったことで、正直に申し上げてほっとしました。眞子さまが公表された文書だけを拝見すると、両陛下が小室さんとのご結婚を好意的に見守られているようにも受け取ることができ、意見を申し上げることがはばかられました。陛下のお言葉を機に、眞子さまも冷静になってくださればよいのですが……」(宮内庁関係者)2020年、眞子さまお誕生日に際してのご近影 宮内庁提供
 小室圭さんの母・佳代さんと元婚約者の男性の間で起きた金銭トラブルをきっかけに、眞子さまのご結婚問題は3年以上のあいだ解決の糸口が見えない状態が続いている。秋篠宮さまはお二人の結婚を「認めるということです」とおっしゃったが、国民からの懸念や反対の声は根強く残ったままだ。
守谷絢子さん「両母親のつないだ素敵なご縁だったのかなと思っております」
 皇室典範は、「皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる」と定めている。近年、結婚によって皇籍を離れられた女性皇族は、上皇ご夫妻の長女・紀宮さま(現・黒田清子さん)、高円宮家の次女・典子さま(現・千家典子さん)、三女・絢子さま(現・守谷絢子さん)だ。
「私に守谷さんを紹介した母の思惑がどうであったのかはわかりませんが、二人でさまざまな場所へ行き、時間や思い出を共有していく中で、自然とお互いに惹かれあい、今日という日を迎えられましたことは、両母親のつないだ素敵なご縁だったのかなと思っております」婚約内定記者会見での絢子さま(当時)と守谷慧さん 
 2018年7月2日に行われた絢子さま(30)と日本郵船に勤務する守谷慧さん(34)の婚約内定記者会見は、お二人の初々しい笑顔と終始和やかな雰囲気が深く印象に残っている。
母の久子さまは「私としてはご両親を存じ上げており、亡くなったお母さまの、深い愛情をもって世界の子供たちと接するお姿を思い出すと、そのお母さまに育てられたご子息はしっかりとした価値観をもつ優しい青年であろうと思い、結婚に賛成いたしました。良いご縁と喜んでおります」と宮内庁を通じてご感想を公表された。久子さまは2017年11月、「国境なき子どもたち」の設立20周年記念レセプションで守谷さんとお会いになり、その人柄に好感を持たれてから、久子さま主導でお二人を引き合わせられたようだ。久子さまと絢子さま(当時) 
承子さま「結婚とお付き合いするのとは、完全に別」
 高円宮家の長女・承子さま(35)は取材に対し「昔から私、結婚とお付き合いするのとは、完全に別だと思ってきました」とお考えを述べられたこともあった(「週刊新潮」2014年9月4日号)。 高円宮家では、「結婚相手と交際相手は別」という方針を3人の女王殿下方が受け入れてこられたように見える。
 承子さまはイギリスご留学中に「胸にヤモリの刺青入れたい」「ディスコに行って、帰って来たら朝4時」といったSNSへの書き込みをなさっていたことが2007年に明らかになり話題を呼んだが(「週刊文春」2007年2月8日号)、2013年からは日本ユニセフ協会で勤務され、今年2月には世界の若者が犯罪防止や刑事司法について話し合う「京都コングレス・ユースフォーラム」の開会式に出席されるなど、公務も続けられている。2020年1月、友人だという男性と銀座の居酒屋で食事を楽しまれた承子さま 
佳子さま「結婚においては当人の気持ちが重要であると考えています」
 対照的に思い出されるのは、秋篠宮家の次女・佳子さま(26)のお言葉だ。2020年、眞子さまお誕生日に際してのご近影。“自撮り”をなさる眞子さまと佳子さま 宮内庁提供
 眞子さまのご結婚について、国際基督教大学ご卒業に際しての文書回答の中で「姉が結婚に関する儀式を延期していることについてですが、私は、結婚においては当人の気持ちが重要であると考えています。ですので、姉の一個人としての希望がかなう形になってほしいと思っています」、ご自身のご結婚やお相手については「お答えするつもりはございません」とはっきりお考えを述べられている。
お相手がいるか「今後も含めお答えするつもりはございません」
「結婚の時期については、遅過ぎずできれば良いと考えております。理想の男性像については、以前もお答えしていますが、一緒にいて落ち着ける方が良いと考えております。相手がいるかについてですが、このような事柄に関する質問は、今後も含めお答えするつもりはございません」(佳子さまの国際基督教大学ご卒業に際しての文書回答)佳子さま 宮内庁提供
 眞子さまは、昨年11月に公表された文書の中で「お互いこそが幸せな時も不幸せな時も寄り添い合えるかけがえのない存在であり、結婚は、私たちにとって自分たちの心を大切に守りながら生きていくために必要な選択です」と痛切な思いを綴られている。こうして振り返ると、秋篠宮家の眞子さまと佳子さまは、「憲法にも結婚は両性の合意のみに基づくというのがあり、親としては尊重するべき」という秋篠宮さまのお考えのもとでお育ちになり、率直にご自身のお考えを表明をなさっていることが伝わってくる。
 政府は、安定的な皇位継承について議論する有識者会議を3月内にも開催すると報じられたが、 昨年にわかに持ち上がった「皇女」制度の創設検討も含めて、本格的な議論はなされるのだろうか。眞子さまのご結婚問題の進展にも、何らかの影響があるかもしれない。


口から食べられなくなった時の点滴は苦しみを増幅させる

2021-03-22 08:30:00 | 日記

下記の記事は日刊ゲンダイデジタルからの借用(コピー)です


口から食べたり水分を取ったりすることが困難になると、点滴をするのが当たり前だと、皆さん思っているのではないでしょうか。

 実際、息を引き取るギリギリまで点滴を行う病院も珍しくはありません。

 一方、在宅医療の場合、患者さんが口から食べられなくなった時には、ご家族に余命について説明し、点滴を続けていたずらに死を先送りせず、点滴を止め、自然にみとっていくことを提案しています。

 一般的に点滴による栄養補給は、治療の見込みのある患者さんであれば、効果を発揮し体を元気にさせる可能性があるのですが、旅立ちを目前とした患者さんでは、点滴による栄養や水分を体が処理できず、むくみや痰の原因になり、結果として患者さんの苦しみにつながりかねません。穏やかな最期を迎えるためには、むしろ点滴がない方がいいのです。

 在宅医療の現場では、患者さんにとって負担となる終末期にならないためにも、ご家族に事前に説明し納得してもらった上で、亡くなる前の点滴はなるべく避けるようにしています。

しかし、食べられなくなったり飲めなくなった患者さんを目の前にして、「点滴をしない」という選択は、家族にとってとてもつらいことでしょう。でもそれに向き合っていただきたいのです。

 そのためにも、どのような最期が一番いいのか、患者さんと家族でたくさん話し合ってもらいます。迷った時や不安なことがあれば、在宅医療チームがいつでも一緒に考えるようにします。

 末期胆管がんの60歳の男性は、入院から在宅医療に切り替えた当初は治療を諦めきれず、何かをやらずにはいられないという気持ちがひしひしと伝わってきました。それまでも民間療法などさまざまな薬を試しており、積極的に治療に臨んできたのです。ですから点滴も「ぜひぎりぎりまで」とのことでした。

 私たちとしても、患者さんやご家族の意向を無視してまで点滴を止めるわけではありません。しかし前述の通り、点滴は患者さんの苦しみの原因になりかねない。点滴についてだけでなく、呼吸やおしっこの量などが、最期を迎えようとする状態にどのようになるかを丁寧に何度も説明し、その上でもし口や喉が渇いているなと思ったら、氷のかけらをなめさせてあげて、寄り添うだけで患者さんは十分幸せだとお伝えしました。

すると最初はあれほど点滴へのこだわりを示していた患者さんとご家族が、穏やかな最期を迎えられるありがたさについて納得。点滴をしないことにも同意してくれました。退院から約2カ月後には水分が取れなくなり、おしっこも出なくなり、その2日後に、奥さまと2人の息子さんが見守る中、患者さんは穏やかに息を引き取られました。

 かねてテーラーメードな医療が在宅医療だと伝えてきましたが、病院との大きな違いのひとつに、余命少ない患者さんに行う点滴に対する考え方もあるといえるでしょう。

下山祐人
あけぼの診療所院長
2004年、東京医大医学部卒業。17年に在宅医療をメインとするクリニック「あけぼの診療所」開業。