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「家族とも友人とも付き合いがない」ゴミ屋敷になる人が陥る"孤立孤独"という落とし穴

2021-09-06 15:30:00 | 日記

下記の記事はプレジデントオンラインからの借用(コピー)です

「天井まで積もり、3分の2が生ゴミ」という現場も
私が初めてゴミ屋敷の現場に足を踏み入れたのは3年前だ。それ以降、生前遺品整理会社「あんしんネット」の作業員の1人として、さまざまな現場を片付けてきた。汚い現場を掃除した後は体調を崩したり、人が亡くなった現場を掃除した後は気分が優れない時もあった。
私は著書『潜入・ゴミ屋敷 孤立社会が生む新しい病』(中公新書ラクレ)の出版で、一連の取材に一区切りをつけようとしているが、特に社員の方々はこの仕事をずっと続けることになる。どんな思いで整理業を続けているのか。連載の締めくくりに、そのことを綴りたい。

作業員の間で「物が多い現場」はそれほど嫌われない。嫌われるのは「臭いの強い現場」だ。
あるアルバイトの男性作業員が「ほら笹井さん、真夏に行ったあの現場……」と言う。
「高級住宅街にあるアパートで、60歳男性が遺体で発見された部屋。あそこ、むちゃくちゃ生ゴミが多かったですよね」
私はうなずいた。たしかにその部屋は天井までゴミが積もり、その3分の2は生ゴミだった。私は1日目しか参加しなかったが、作業は数日間続き、彼は最終日までいたようだった。
あるゴミ屋敷の室内。天井まで趣味のプラモデルなどが積み上げられていた。
だれもが「地獄みたい」と口を揃える過酷な作業
「ゴミ山の一番下からマフィンが出てきたんですよ。やばかったですよ、もう。カップラーメンとか菓子類ならぜんぜんいいんですけど。ほんと生ゴミをためるのは、かんべんしてほしい」
もっとも臭いが強烈なのは、本連載でも何度か取り上げたションペット(尿の入ったペットボトル)だ。ゴミ部屋でションペットを発見すると、それが破裂しないように専用のケースに入れ、社(あんしんネット)に持ち帰って一本一本中身を処分しなければならない。アルバイト作業員は誰しも、「地獄みたいな作業」と口にする。
「あんしんネット」を運営しているアールキューブ本社の外観。
「夏場のゴミ部屋」というだけで臭いがすさまじいのに、その空間に尿や便がしみこんでいるものがあると、大抵の人は気分が悪くなる。もちろん私もそうだった。実際に吐いてしまう作業員も目にした。水分摂取を控えがちなゴミ部屋住人の濃縮された尿がペットボトルに入れられ、場合によっては何年も放置されているのである。
ゴキブリが天井からぽたぽたとふってきたことも
「トイレで200本のションペットを流した時には、ちょっと人格が変わるんじゃないかと思いました」と、社員の平出勝哉さんが打ち明ける。
勤務10年目の社員、大島英充さんも、ションペットを処理する時は「これをやらないと終わらないぞという、ある種の覚悟が必要ですね」と苦笑いする。
大島英充さん。特殊清掃の防臭マスクをしている。
社員の仕事では「特殊清掃」(遺体の腐敗でダメージを受けた室内の原状回復をする作業)も厳しい仕事だ。連載7回目で紹介したように、腐敗した遺体からわいたウジやハエの殺虫作業のほか、人が亡くなった場所の体液や血液は手で拭き取っていくことになる。
「あんなに大量のハエを見たことはなかった」と私が言うと、大島さんが「ハエはよくありますよね」と事もなげに言う。
「殺虫作業で、ゴキブリが天井からぼたぼたとふってきたこともありますし、死んだネズミやネコに遭遇することもありますしね」

「自分の家の不要品」をゴミ部屋に運び込んできた
それでも作業後に依頼人から「ありがとう」と言われれば前向きな気持ちになるが、感謝どころか「文句」を言われたこともあったという。大島さんが話す。
「まだ入社して1年目の時ですよ。ゴミ屋敷に住む人からの依頼で、『キッチンまわりをきれいにしてくれ』と。もちろん一生懸命やったのですが、作業後に『もっときれいにしてもらえると思った』と言われたんです。ハウスクリーニングのレベルを求められていたんですね。僕らは『整理業』であって、『清掃業』ではありません。今なら最初に契約を交わす時にそのあたりの説明も正確にするのですが、当時は新人でしたからね……。結局、丸一日かけて1人で掃除をしました。キツい現場や作業の内容より、お客さんの言葉で疲れ具合が変わると思います」
孤独死現場の第一人者で同社事業部長である石見良教さんも、過去に依頼人とトラブルになったことがある。
事業部長の石見良教さん
「高齢の男性が認知症を発症し、生活保護を受けながら暮らしていたのですが、部屋がゴミだらけになってしまったんです。それで男性の娘から『介護を受けるために環境を整備してほしい』という依頼がありました。ところが作業日に、車に乗って娘たちが現れ、“自分の家の不要品”を男性(父親)の部屋に運んできたのです」
作業後に「物を盗まれた」と通報され、事情聴取も
生活保護を受ける男性の整理費用は税金でまかなわれているため、石見さんは娘たちの不要品の処理を拒否した。すると「融通のきかない人」などと罵られ、最後には「役所にクレームを入れるから!」と捨てぜりふを吐かれたという。その日の作業は中止になった。
「筋が通らないことは受けられません」と、石見さんは力を込めて言う。
別の認知症の高齢者宅では、こんなこともあった。
「区役所からの紹介で片付けることになりましたが、部屋はゴキブリの糞だらけの不衛生な環境でした。区役所の担当者や本人の立ち会いのもとに作業を進め、本人に確認しながら物を処分したにも関わらず、作業後に本人が『物を盗まれた』と警察に届け出たのです。区役所職員とともに事情聴取を受けました」
のちにその疑惑は晴れたが、当初まるで“泥棒扱い”だったことに憤りを感じたという。
あるゴミ屋敷の廊下。この現場は趣味で集めたものが多かった。
勢いよく棒が飛び出してきて、鼻から大量の出血
現場には危険もある。連載第1回で記したように現場で負った足の傷から細菌が入り込み、足切断となった作業員もいる。石見さん自身も大量出血をした経験がある。
「美容院で遺品整理を行った時のことです。パーマをあてるヘルメットのような器具を外す時に、その仕組みがわからず、不用意にボタンを押してしまったのです。中の棒が勢いよく飛び出してきました。それが鼻をかすめて肉が切れ、大量の血が噴き出し……。すぐ病院に運ばれたのですが、『あと2センチずれていたら失明していた』と言われました」
病院で15針を縫う処置を受けたが、翌日にはまた現場に戻ったという。
このように生前遺品整理業は、「きつい、汚い、危険」の連続である。それなのに、なぜこの仕事を続けられるのか。
あるゴミ屋敷の玄関。物がうずたかく積み上げられ、家の中に入ることも難しくなっていた。
社員の溝上大輔さんは特殊清掃について「遺族の代わりにやってあげているという気持ち」と言っていた。亡くなった人の体液や血液をふきとり、遺族がおだやかな気持ちで現場を見られる状態にすることが務めだ、と。しかし依頼人への思いだけで、過酷な現場を乗り越えていくのは厳しい。
「整理業をしていると、亡き母親に話しかけている気持ちになる」
私の疑問に対して、石見さんは「亡き母親への孝行がある」と教えてくれた。
整理の様子。ここまで片付けられれば、あと一息。
「母親は整理整頓、清掃好きな人でした。最後は認知症で施設で旅立ちましたが、私は当時、孝行らしいことをできませんでした。現在、整理業をしていると、亡き母親に話しかけている気持ちになりますね。どの現場でも完結すれば、きちんとできたよと、心の中で亡き母に報告しています」
実際に母親の遺品整理をした時には、普段の仕事とは違って作業が進まなかったという。しかしその時に、この仕事は“依頼人の心の整理”だとも感じた。
遺品整理も生前整理も、本来は他人任せではなく、身内や本人が行ったほうがいい。気持ちを整理することができるからだ。けれども力が足りず困っている人がいるのなら、駆けつけて手助けをしたい。石見さんはそう話す。
「ゆるやかなつながり」がゴミ屋敷化を防ぐ
早稲田大学の石田光規教授の調査によれば、人が生きていく上でのサポート役は、本人が結婚するまでは「親」、結婚後は「配偶者」、結婚を解消、つまり離婚や死別した後は「子供」が主になるという。
早稲田大学の石田光規教授
「特に、オンラインが主流となった現代では、あまり意識しなくても維持できる家族とのつながりがますます重要になります」
たしかに家族とのつながりがあれば、本人がピンチの時にサポートを得られやすく、社会とのつながりも失われにくいだろう。しかし、連載第16回でも述べたように「結婚できない人」がいるし、「家族」とのつながりが希薄な人もいる。
私自身も幼い頃に母を亡くし、父とは離れて暮らしたため、一般的な家庭が思い描けないことと、それに対する嫌悪感がある。一方で家族への強烈な憧れ、他者と親しくなりたいという思いもある。それらが入り交じり、結局は傷つきたくないがために大事なところで人と壁をつくる。だから私の家は汚くはないものの、ゴミ屋敷に住む人の気持ちに共感できる部分がある。
孤立孤独に陥りやすい人はどうすればいいか。石田教授は「ゆるやかなつながり」を勧める。
「誰でも、たとえゴミ屋敷の住人でも、日常生活の中で行く場所があると思うんです。買い物に行く、髪の毛を切る、そういった場所でお互いにゆるやかに見守れる、つながれる社会であるといいですね」
作業員の「笑顔」がある現場とない現場の決定的な違い
ある50代の独身男性が母親の介護が始まって孤立感を深めていった。以前は人付き合いが盛んだったのに、介護の苦労話を打ち明けられず、やがて母親が亡くなると自暴自棄になり、ゴミだらけの自宅に一人で過ごすようになった。
だが、自宅のゴミを片付けるために呼んだ業者に、介護の苦労話を話すことができた。その結果、男性は孤立から脱却し、ゴミを片付けることができたという。
作業員として働いていると、“家主の心”を感じる。物を買うことや置く事に少しでも明るい気持ちがあったと感じられると、どんなに汚れていても、その現場に関わることに明るい気持ちになれる。しかし、家主が自分を大切にしていない状態で物が乱雑になっていると、作業を進める上でこちらの気持ちも重くなっていく。同じゴミ屋敷でも、作業員の笑顔がみられる現場と、そうでない現場があるのだ。
依頼人が物をためようとする感情がどこからくるのか
私は取材者として、依頼人が物をためようとする感情がどこからくるのか、できるだけ見つめようとしてきた。
笹井恵里子『潜入・ゴミ屋敷 孤立社会が生む新しい病』(中央公論新社)
認知症の人であれば「不安感」から物に囲まれていたいと思っているのかもしれない、物をためるウキウキ感からプラモデルを集めてしまうのかもしれない、あるいは自暴自棄になって生ゴミや自分の排泄物さえも処理できないのかもしれない――。
物との向き合い方は、おそらく自分との向き合い方で、その人がいる居場所は自分の心を映し出すものだ。何がほしくて何を捨てたくて、何をそばに置いておきたいか。それがわからなくなったのなら、“一緒に”やっていこう。いつの間にかそんな気持ちになっていた。
依頼人が住み、歪め、汚れた家が、人としての生活が送れる環境になった時、気づかぬうちにたまっていた私自身の心のゴミも一掃されたようだった。
笹井 恵里子ジャーナリスト 


稲妻のような残像が…叶かずゆきさ(俳優・タレント)ん語る脳動脈瘤との闘い

2021-09-06 13:30:00 | 日記

下記の記事は日刊ゲンダイデジタルからの借用(コピー)です

叶かずゆきさん(俳優・タレント/48歳)脳動脈瘤
 僕はもう50歳近いおじさんですけど、頭の中には“最新機器”が入っています。というのも、日本ではまだ保険適用されて間もなくて症例の少ない最先端の「脳動脈瘤塞栓デバイス」を使うことに協力したからです。

 脳動脈瘤がわかったのは、2020年11月でした。人間ドックの一環として受けた脳のMRI検査で見つかりました。

「すぐに大きな病院に行かないと……。紹介状を書くからどこの病院にするか言ってほしい」と、かかりつけ医に言われ、慌てて妻とネット検索して脳外科の名医がいそうな都内の大学病院に決めました。

 思いがけない結果でした。じつは19年の初めに頭痛がひどかったので脳と脊髄と腰のMRI検査を受けたのですが、そのときは「異常なし」だったのです。なので、希望も含めて「間違いなんじゃないか」とどこか疑っていました。

 でも、大学病院でもう一度MRI検査をした結果、最初の見立て通り5ミリ大の瘤が1つ確認されて、話はすぐに手術の必要性や、手術のリスク、放置した場合のリスクなどに進んでいきました。最終的に「放置して破裂することを考えれば、手術後の後遺症や合併症のリスクをてんびんにかけても手術をやるべき」という結論に達し、手術を決断しました。
 そこで提案されたのが、例の最新の塞栓デバイスの使用です。僕の瘤のサイズと瘤のある位置がそのデバイスにちょうどマッチするとのことでした。その大学病院でもまだ10人目というレアケース。「もし可能なら、これを入れさせてほしい」と主治医に言われたので、「協力する」という書類にサインしたわけです。

 手術はカテーテルによる血管内手術で、そけい部から頭の方まで細い管を入れるというもの。そして昨年のクリスマスの日に手術を受け、無事に今に至っています。本番の手術は全身麻酔で気づいたら終わっていたのですが、手術の2週間前の血管造影検査が不思議な体験だったのでお話しします。

 血管の状態や瘤の分布を見るため、目的の血管に造影剤を入れ、X線撮影をする検査なのですが、局部麻酔で行われるのですべて意識があるんです。まずは左足のそけい部から動脈にカテーテルが入ります。ちなみに本番は執刀医の立ち位置から右足そけい部が使われると聞きました。

そしてカテーテルがある程度入ると、「今から造影剤入れます。お尻が熱くなりますので」と言われました。「は?」と驚いていると、ギリギリ我慢できるくらいの熱いお湯がズワーンと腰の辺りを通りすぎるような感覚がしました。一瞬ですが、かなり熱いんです。

 しばらくすると、「次は左目の辺りが温かくなります」の言葉とともに左目を熱いものが通りすぎ、「次は右目いきます」で右目もズワーンと熱さが通りすぎていきました。痛くはないのですが、稲妻のような残像が目の奥に残ってしまい、それがトラウマのように今でも時々フラッシュバックします。

 造影検査は50分ほどで終わり。ただ動脈に入れたカテーテルを抜いた後は、医師による10分間の止血と別室で4時間の安静が必要でした。その間、左足を動かしてはいけないと言われ、寝返りもできない状態。「つらかったらナースコールを押してください」と言われましたが、忙しそうな看護師さんを呼ぶのが申し訳なくて、トイレに行きたいのを4時間我慢しました(笑い)。

本番の手術では検査時より太いカテーテルだったので、止血はICU(集中治療室)で丸1日。今度は右足そけい部からカテーテルを入れたので、右足を動かさないことが必須でした。その上、心電図や点滴も数本つながれ、尿道カテーテルの異物感もあるという不自由な1日でした。それでも、術後4日目には退院できました。コロナ禍だったので家族との面会は一切できず、同室の老人が1人、誰にも会えないまま亡くなったのが気の毒で印象に残っています。

■退院した日に自宅で倒れてしまい…

 ちなみに、この病気になって一番怖かったのは、退院した日に家で倒れたことです。家に帰ってお風呂に入り、荷ほどきをしてテレビを見ていたらいつの間にか倒れていて、息ができなくて起きたんです。心臓がドキドキして汗が出て、震えて……。しかも1度だけじゃなかったので、2度目に倒れたときは妻が病院に電話してくれました。症状を説明すると、「過度のストレスからの解放が原因だろう」とのこと。手足のしびれや目が見えないといった症状でなければ心配いらないと聞いてホッとしました。でも、それ以後も時々倒れているので、近々かかりつけ医に全身を調べてもらおうと思っています。

まだ手術から3カ月弱。最新機器がうまく定着してくれるかどうかの観察中です。ついに、たばこも大大大好きなお酒もやめました。家族を大切に思えば思うほど、健康管理が大事だと実感しています。

(聞き手=松永詠美子)

▽かのう・かずゆき 1972年生まれ。韓国出身。2000年に「吉本新喜劇」の舞台に立ち、同舞台の全国ツアーにも参加。俳優として映画「THE WINDS OF GOD」やドラマ「家栽の人」(テレビ朝日系)などに多数出演している。NHK朝の連続テレビ小説「どんど晴れ」では韓国語出演するなど、語学力を生かして幅広く活躍。13年には日韓友好や文化交流などに貢献したとして韓日文化大賞を受賞している。


こどもの存在が私の人生を邪魔していると思ってしまっていた私が、受け取ったギフト〜娘との入院生活にて

2021-09-06 12:00:00 | 日記

下記はnotオンラインからの借用(コピー)です

泣き叫ぶ娘の声が病院に響く。
息を吸うのも忘れてゼエハア言いながら、ぼろぼろと涙をこぼしていた。

異変が起きたのは、前日の深夜。
突然の下痢、そして明け方に嘔吐。
つい春先、似たような症状があった。その時はウイルス性胃腸炎と診断された。また何かが当たったのか…?先月末の次女のRSウイルスがうつったか?

不安になりながら「明日は特に打ち合わせとか、どうしてもやらなきゃな仕事はなかったかな…」と頭を巡らす。翌朝、疲れて眠る娘は前回より落ち着いており、熱も上がらなかった。ホッとした。このままゆっくり休めれば大丈夫かな?

「でも、明日は土曜日か…(うーむ)」

「このまま回復しそうだし、コロナ禍で病院入るのも厳しいし、この程度で連れてってもいいものだろうか…」と悩みながら、一応かかりつけ病院を当日予約。ラストの11:30受診に滑り込むことができ、連れてくことにした。

この後、事態は思わぬ方向へ向かっていった。

横になっていれば落ち着いているが、先生がお腹を押すと異常に痛がる。
そして血液検査をしてみると白血球の数値が異常に高い。

「気になるので、十日町病院の緊急外来にこのまま行きましょう」
「ふえっ…!」

そして、緊急外来にてあらよあらよと検査が進むたびに不穏な空気が…

「虫垂炎(盲腸)ですね。これは今日、手術しましょう」

「…!!!」

なんと……
極度に怖がりの娘。何かを察知し
「もう痛いのないよね?痛いのしないよね?」と確認してくる。「うーん、分からん」としか答えれなかった。しかし、状況はそんな娘おかまいなしに進んでいく。

鼻からブスリとやる、新型コロナ検査。(大泣き)
点滴&血液検査→うまく針が刺さらず、2回……。(大大泣き)

そしてあっという間に手術が始まった。

手術から戻ってきた娘は、静かに眠っていた。
これまでたくさん流した涙で、髪が固まり、耳のあたりにべったりくっついていた。看護師さんから「あさちゃん、手術室に行くまでの道、車椅子で一生懸命涙をこらえてたんですよ」と聞いて、私の方が涙が溢れそうになった。

娘のお腹の中では、膿ができ、ただれていて、検査でみるよりひどかったようだった。お腹の中で虫垂が破裂すると命に関わるので、その前に対応できてよかったと聞いた。

気がつくと、もう窓の外は暗くなり始めていた。


思いがけず仕事から引きはがされた。
土曜のあれはキャンセルで、あそこにもメール打っとかなきゃ、あこにも連絡入れなきゃ、これは退院後対応にして……といろんなものが頭をよぎった。
8月の出産までに、色々片付けなきゃいけないことが山ほどあった。毎日ギリギリだった。入院期間は5日か……。

でも。
スマホから顔を上げ、眠る娘の顔をみると、すっかりその気力がなくなってしまっている自分に気づいた。
コロナ禍の病院は厳しく、娘と私は病室に引きこもり、その日から、久しぶりに2人っきりで過ごす、入院生活が始まった。


がんばる娘、痛がる娘、わんわん泣いちゃう娘、がまんする娘、毎日ちょっずつできることが増えてきて静かに喜ぶ娘、明日はもっと頑張ってみようと前向きになろうとする娘との2人っきりの時間で、あっという間に1日が終わった。
ときに辛く、しかし穏やかな時間だった。

穏やか……?


そう、どの瞬間も、かけがえのない瞬間だった。

以前、「弱さの思想」という本を読んだのを思い出した。弱さの思想: たそがれを抱きしめる

その中でこんな話が出ていた。
ー悲しみの果てにギフトがあるー
>重度の病を抱えているこどもを看病している親たち。なぜか彼らが元気で明るそうだった。いつ死ぬか分からない子どもたちが、母親たちに力を与えているのはなぜか。
「ぼくのたてた仮説は、お母さんたちも、佐々木さんも、僕もそうだったんですけど、なにをするかというより、その人のそばにいるだけでいい、っていう気持ちがあるんですね」
「我々がやっていることの大半は、仕事でもなんでも自分でなくてもできること、つまり代替可能なことばかりでしょう?でも、病んだ子どもの世話を親がするっていうのは、代わりようがないこと。言ってみれば神様から指名を受けたようなものなんです。(略)自分しかできないことがあったという気づきが大きいのかもしれない」

その当時は、これを読んであまり理解ができなかった。
そんな自分とこどもの運命を悲しむ方が強いかも……と思った。もしこれが介護なら、と思うとより一層暗い気持ちになった。

ところが今回娘と入院して、私は娘に大きなギフトをもらってしまったように感じだ。


それは「私は今まで、大切な時間を見逃してきたんじゃないかと思うくらい、仕事人間になってしまっていたのかもしれない」という気づきだった。
もっと言えば(引かれるかもですが)仕事と子育てを両立する中で、必死で、毎日疲れて、、、こどもたちに、自分の人生を邪魔されていると時々思ってしまう自分がどこかにいて、そんな自分に母親失格だと自己嫌悪したりして、独身の人たちや、仕事にしっかり打ち込める羨ましい環境の人たち、自分の自由な時間を持っている人たちが圧倒的に成長してく姿に焦りを感じて、負けたくなくて、叶えたい夢も頑張りたくて、でも思うように働けなくて、平日も土日もぐったりで……
あぁ、私、いっぱいいっぱいだったんだ。
焦っていたんだ。
子育てが始まって、圧倒的に時間がなくなった。でもそんなことを理由にしたくない。両立はできるんだ。やるんだ。
でも、想定外が多い子育て中は、毎日綱渡りしているようだった。

***
そんな日々から離れて、長女の顔をじっと見ながら、長女のことだけを観察し、考え、2人だけで過ごす時間がやってきた。
こんな時間、いつぶりだろう。
不思議だ……なんて愛おしい時間なんだろう。
静かな時間が過ぎていった。

長女は、いつの間にか、こんな目をするようになったんだ…
窓からの光が差し込み、ちょっとだけ白くなった長女の肌を眺めた。

頑張れば頑張るほど、また私は誰も幸せにできてなかったんじゃないか?
「おかーさんおかーさん」「見て見てー!」「これやろー!」と袖を引っ張る娘の顔をちゃんと見てきたか?何度も「ごめん、今、仕事だからさ!」と言ってきたじゃない。加工所に失敗してから、今度こそはと思っていたのに。

私は、今までちゃんと、娘の顔を見れていなかった…。

長女も私の顔をまじまじと見てくる。
用もないのに、「おかーさん」と呼ぶ。
そして、口角を少しあげて笑った。

もうすぐ6歳になる、少しずつ大人びてく長女の顔を見て、泣くのを我慢した。

***
病院の夜ごはんが終わると、娘のベッドの隣に支給された簡易ベットを広げた。

術後の夜は「お腹が痛い」と何度も泣き、何度もナースコールを押した。痛み止めを入れてもらいながら、乗り越えた。

体が弱っているせいか、毎晩喘息の発作も出た。


暗い部屋で、ベッドの柵の隙間から小さな手を伸ばす娘。その手を取って、手を繋ぐ。手は柔らかくて、温かかった。
柵の向こう側には、管に繋がれている娘がいる。
少しずつ、胸の喘鳴がおさまってきて、娘が夜に溶けてゆく。
「おかーさん」
「なに」
「……まだわたし、何も食べれないの?」
「そやね」
「いつ食べれるの?」
「うまくいけば明日かな…」
「お腹減った……」語尾が揺れた。
「……退院したら、何食べたい」
「……チョコタワー」
「チョコタワーか」
「うん」
「食べよう、チョコタワー」
「うん」
「いっぱい食べよう」
「うん……」
娘の寝息が、暗闇に馴染んでいった。


生きててありがとう。
今までちゃんと向き合えてなくてごめんなさい。ダメなお母さんでごめんなさい。そんな……こんな私のもとにやってきてくれて、家族になってくれて、ありがとう。

2人で過ごしたこの5日間は、一生の思い出だよ。またたくさんの思い出作ろう。
佐藤 可奈子 /エッセイを描く雪国農家


眞子さまと小室圭さんの「皇室の伝統を破壊」した結婚が、佳子さまへ引き継がれる危険性

2021-09-06 11:00:00 | 日記

下記の記事は週間女性プライムからの借用(コピー)です。

ついに!である。眞子さまと小室圭さんが年内にも結婚するというニュース。
「読売新聞の朝刊が届いた直後から社会部が慌てだして、皇室担当記者を叩き起こして、ウラ取りに焦っていましたよ」
 そう余裕で明かすのはテレビ局の早朝情報番組スタッフだ。同じ報道局のフロアーにいても、芸能担当にはすべてが対岸の出来事に過ぎない。
小室親子はハガネのメンタル
 誠にめでたいことである。
 そう祝意を伝える人もいる一方、国民の大多数に祝福される結婚にはほど遠い、この空気感! 
 小室さん親子が嫌だ、それを許した秋篠宮も何だ! 結婚すれば、数十年後に小室さんは天皇の義理の兄になってしまう。小室さんと親戚になった悠仁親王が天皇に即位することはあってはならない、という殺気めいた論調までが、ネットにはあふれかえった。学生時代の小室さんが、女性たちと一緒に写っている弾けた写真も、あらためて掲載!とばかりに再拡散した。
 どこまで多くの日本人に嫌われているのか、小室さん親子。ノー・結婚儀式、ノー・一時金という“地味婚”で、国民の税金は一切いただきませんよ、と批判をかわそうとしたのか。結婚後は米ニューヨークで暮らすという逃亡めいた結婚を“NY婚”、“駆け落ち婚”などと、さまざまな見出しがメディアを飾った。
 この結婚は、小室さん親子による実にお見事な、誠にアッパレな“寄り切り婚”である。
「あの親子はハガネのメンタル。いつか小室さんのお母様に、どうやって逆風を乗りきったのか、やり過ごしたのか、という“メンタル本”でも出してもらいたいものです」
 そう皮肉めいた口調で伝える書籍編集者もいた。
 平成29(2017)年9月3日。幸せの絶頂だった。東京・赤坂東邸で開かれた眞子さまと小室圭さんの婚約内定会見。日本中が祝福に包まれた。納采の儀の日程、帝国ホテルでの挙式日程も発表された。
 だがその3週間後、週刊女性がスクープした“週女砲”「小室家の借金トラブル」が、日本中の空気を一変させた。小室さんの母親が元婚約者から約430万円を借りたままにしていたという借金問題。年が明けて翌年2月、宮内庁は、前代未聞の婚約延期を発表した。
 日本中に広がった小室さん母の借金問題に端を発した小室さん親子への嫌悪感。人間の品格を端的に表すお金の使い方において、元婚約者に「ヘルプしてください」と、一定期間おねだりをし続けた小室母。借金問題と借金体質。その美しくない節度が、世間に嫌がられたが、息子と眞子さまは自分たちを貫き続けた。
 小室さんが身を引けばすべては丸く収まる、という世間の空気もなんのその、小室さん親子は折れなかった。見事としか言いようがない生きっぷり。
小室圭さんと小室佳代さん。NY滞在中の小室さんが、佳代さんと再会する日はそう遠くなさそうだ
【写真】どう見ても裕福な小室さんの幼少時代
皇室の伝統を崩壊させた、若いふたり
 読売新聞のスクープを受け、 朝のTBSラジオではメディアプロデューサーの残間里江子さん(71)が、「結婚するしかないんでしょうね。反対されると燃え上がるんですよ、恋は」とチクリと刺し、「ロミオとジュリエットの昔から」と“ロミジュリ婚”を強調した。
 日本中の視線を避け、小室さんはニューヨークに生活の場を移し、現地の弁護士試験を受けた(結果は今年12月に判明)。
 宮内庁長官からは「小室さん側に説明責任がある」と、“小室さん側”と親子の共同責任が名指しされたが、親子はへこたれなかった。小室さんは借金問題に関する見解を文書で発表したが、世間を逆撫するだけだった。
 2020年11月の会見で秋篠宮さまは「結婚することは認めるということです」としながらも「感じとしては決して多くの人が納得しよろこんでくれている状況ではないというふうに思っています」と発言された。その際の、痛々しい表情があらためてよみがえる。
 一方で、最愛の息子が思いを遂げ、秋篠宮家のご長女と結婚できる誉の喜びを感じているのは、小室さんの母ではないだろうか。苦悩の秋篠宮さまの表情とはあべこべに思い浮かぶのは、フフフフフとほくそ笑む小室さんの母! 幸せなのだから仕方ない。
 眞子さまと小室圭さんの若い2人は、皇室の伝統を崩壊させた。そのことは、眞子さまの妹君、佳子さまに引き継がれる。へそ出しでダンスをしたり猫耳をつけたり、結構はっちゃけた印象の佳子さま。姉同様、結婚儀式をしなくてもいいんだ、一時金なんていらなければ怖いものなんてないんだ、と思われても何ら不思議ではない。
 眞子さまと小室圭さんが成し遂げようとしている“寄り切り婚”は、秋篠宮家に影を落とし続ける。
〈取材・文/薮入うらら〉


これ「自宅療養」ですか? ある感染者、10日間の記録

2021-09-06 08:30:00 | 日記

下記の記事は朝日新聞デジタルからの借用(コピー)です。

新型コロナウイルスに感染し、自宅療養を余儀なくされる人が急増している。東京都内で夫と2人暮らしの女性(40)は10日間の療養中、SNS上で日々の思いや出来事をつぶやき続けた。回復したいま、こう思う。これって、「療養」ですか?
    * 「自宅療養」って言い方、おかしくないですか?
「明日生きて起きられるか」
 12日午前1時19分 (血中酸素飽和度を測る)パルスオキシメーター買おうかな。行政のはいつになるかわからないし…
 感染判明はこの前日。夫(37)は6日からのどの痛みなどの症状が出始め、9日に感染が判明していた。自分は徒歩圏にパートの仕事に出かけるだけで、夫も在宅勤務。外出するのは買い物や休日の昼食くらい。どこで感染したのか。夫にはこの日も保健所からの連絡はない。情報を集めるため、2年間使っていなかったツイッターのアカウントで投稿を始めた。
 12日午前11時25分 保健所からの連絡も無く、行政からの指示や支援もなく、不安な毎日を過ごしています
女性が投稿したツイート。その後も自身の状況や出来事について投稿し続けた=女性提供
 この日、夫に保健所から自宅療養を告げる連絡が。感染から3日後。遅い。都が手配する食料は到着に時間がかかると言われたらしい。前日にネットで注文した食料はこの日届いた。平熱は36度台前半だが、37度台まで上がったり下がったり。せきや鼻水などの症状にも悩まされた。感染者が情報共有するのに使う「#コロナ闘病中のみんなで話そう」などのハッシュタグを検索するのが日課に。「苦しいのは自分だけではない」と少し安心できた。
ここから続き
 13日午後4時43分 保健所からやっと連絡来た!! 夫の時と同じで、事務の人だった。あんまり詳しく聞き取りされた感じしないけど、大丈夫かな?
 「本来は保健師が対応するが、手がいっぱいなので事務の私で」と言われ、「自分で自分の身を守るしかない」と思った。聞き取りは20分ほどで家族の有無や体調の確認など、マニュアルに沿うように淡々と進んだ。勤務状況や行動履歴は、全く聞かれなかった。夕方、ポストにパルスオキシメーターが届いていた。においが感じられなくなり、感染を実感する。
保健所から届いたパルスオキシメーターを使って自宅で血中酸素飽和度を測る女性=女性提供
 14日午後10時6分 今日は、ずっと36度台後半。このまま上がらないでほしい
 発熱、せき、鼻水、嗅覚(きゅうかく)障害。日々変わる症状に、明日は生きて起きられるのかなと考えてしまう。体温は夜になると37度台に。ツイッターで投稿に返信したり、別室で療養中の夫とラインで趣味の話をしたりして気を紛らわせる。
食料は6日目、電話は3回「現実は自宅放置」
 16日午後3時17分 夫は、体温37・5度以下が解熱剤なしで4日間続いてるので、本日で療養期間終了です。咳(せき)と嗅覚障害が残ってるみたいですが…
 自分には保健所から2回目の電話。「体調が安定している。次の連絡は療養終了予定の20日」という。夫に「軽症だからいいけど、体調が悪かったら不安で嫌だね」と話す。都からの夫分の食料は感染判明7日目の15日に届き、自分の分はこの日到着。感染判明から6日目だ。
女性の感染判明から6日目に女性の元に届いた東京都からの食料。カップ麺や缶詰、水などが並ぶ=女性提供
 18日午後2時18分 現実は、自宅療養ではなく、自宅放置です。感染しても結局は自分達で何とかしなくちゃいけない。国や自治体などの助けが得られると思ったら大間違い
 都内の親子3人が感染し、自宅療養中の40代の母親が亡くなったというニュースを知り、こうツイート。区のホームページには「療養期間中は毎日体調確認の電話連絡」とある。でも、保健所からの連絡はこれまで2回だけだ。自分で手配しなければ、食料も底を突く。
 20日午後8時15分 明日から普通の生活に戻る。感染対策、今まで通りじゃダメなんだよね。今までも、対策してたけどより一層対策しないと
 昼過ぎに保健所から3回目の電話で療養解除が告げられた。翌21日夕、近所のスーパーへ。11日ぶりに外に出て、風を心地よく感じた。それでものどの違和感や咳、嗅覚障害などが残る。感染経路はわからないまま。感染前よりも、外に出るのが怖いと思った。(山口啓太)
自宅療養者ケアも逼迫
 東京都は昨年11月、「フォローアップセンター」を設置。自宅療養者の健康観察などを担う。都防疫・情報管理課によると、保健所の負担を軽減する狙いから、対象を都が保健所を設置する多摩地域の市町から全域に今年1月に拡大。LINE(ライン)や電話で健康状態を確認する。自宅療養者の急増を受け、対象を65歳未満から、先月28日以降は30歳未満、今月26日以降は40歳未満に絞る。40歳以上は各保健所が担う。
 配食やパルスオキシメーターの貸し出し依頼も、センターが保健所を通じて受け付ける。保健所が療養者に希望を聞き取り、午前中にシステム上で入力すれば、食料とパルスオキシメーターがその2日後に届くことになっている。
 ただ関係者によると、保健所の態勢は逼迫(ひっぱく)しており、最初の電話連絡まで数日かかり、希望の聞き取りが遅くなる場合も。またショートメッセージによる連絡にとどまり、希望の聞き取りがされないこともあるという。都の担当者は「自宅療養者は増加してはいるが、引き続き態勢強化に取り組みたい」としている。